傾向と対策 +α
柳谷の比喩はわかりにくい、とよく言われる。
言葉の使い方というのは人それぞれに異なるものだから、一風変わっている、というのが正確かもしれないのだが、比喩というのは本来物事を相手が理解しやすいように説明する際に使われるものである。だから、それが一般的な表現でないならば、わかりにくい、という評価になってしまうのも仕方がない。
たとえば、『玉ねぎを剥いたような』というのはつまり『しみる』ということで、学生の心を抉るようなキレのいいツッコミを入れる教授につく形容詞であるし(*1)、『鷹のように!』は多分その狩の様子から『脇目を振らずに、集中して』という意味となる(*2)。
*1 用例=「あの人は玉ねぎを剥いたような人だからな」
*2 用例=「今日はいらんことばかりしてしまったので、明日は鷹のように試験勉強に臨みたいと思う」
とりあえず、柳谷の比喩は、連想ゲーム形式というか、言いたい事と言っている事の間にワンクッションあるというか、方向性が散漫というか、理解するには慣れが必要というか、つまり、わかりにくいのである。
そして、最近この研究室に詰めている学生達の様子を柳谷に言わせれば、『【のぞみ】を走って追いかけているような』ということになる。
これでも浅生は、後輩として同じ研究室に所属してからというもの、否が応でも柳谷流比喩の読解にかなり熟練する羽目になり、最近はなんとなくフィーリングで柳谷の言いたいことはわかるようになった、気がしていたのだが、今回は思わず聞きかえしてしまった。
「……それは、各駅停車で?」
「いいや、はだしで。白いハンカチを握り締めてホームを駆け抜けていくよ……」
横に座った浅生の質問に、柳谷はぐったりと机につっぷしながら律儀に答えた。焦点を失いかけた目の下で隈がくっきりと際立っている。かろうじてまだ手に持っているペンの先は、さっきからピカソの絵のような渦巻きのような、抽象的な物体を藁半紙に書き綴っている。
はあ、と生返事をして、浅生は今日何杯目になるかわからないコーヒーを喉に流し込んだ。もっとも、それはもう何度も煮詰められて、味と香りを楽しめるという次元を遥か昔に通り過ぎた、泥水のような液体になっている。
「こだま、ひかり、のぞみ、ときたなら、次は【つきひ】かな。【とき】とか、いいんじゃないかな……」
早いぞやつらは、とそのままの姿勢で柳谷はぶつぶつと呟いた。期限が迫っているのに実験がうまくいかなくて、論文も行きづまっているのである。月日は百代の過客にして、と全く関係のない古典の出だしがとっさに頭に浮かんだ浅生も同じような穴に追い詰められた狢である。
そういえば徹夜明けなんだから摂取したカフェインの量は昨日から計算した方がいいのか、と泥水コーヒーをもう一口含んで浅生は思ったが、すぐにその思考を振り払った。計算しようが何しようが、カフェインがもう気休め程度にしかなっていないことは純然たる事実でしかない。
色々なものから気と目を逸らそうとして、浅生はとりあえず視界に入ったものについて話を振った。
「柳谷先輩、瀬田先輩のことを何かに譬えてみてくださいよ」
これがいつもなら疑問に思ったり、どうして自分がそんなことをと言い返したりして、この話に柳谷が乗る確立はかなり低かっただろう。しかし、寝不足とストレスで思考力が極端に落ちていた柳谷は、ことん、と首を傾げると、ぐだぐだな状況なりに誠意をもって返事をした。
「あー……ゆたんぽ、とか」
「は?」
「ほら……、焼酎を割るの、とか」
「……」
浅生が何も言わないうちに、話題の張本人がゆらゆらとした足取りでテーブルに向かって歩いてきた。睡魔に捉えられて今にも眠りの海に沈没しそうな柳谷に比べて、多少ましといえる外見だが、瀬田もやはり無精髭を生やした顔にいつも以上に茫洋とした表情を浮かべている。
「コーヒー……」
しかも単語でしか喋れていない。
はい、とコーヒーメーカーの傍に陣取っていた浅生は、コーヒーのなれの果てを残っていた最後のカップに注ぎ、瀬田に手渡した。
礼を言って正面の椅子に座った瀬田を柳谷は今にも閉じそうな瞼をこじ開けつつ見上げた。
「せた、いまおまえのはなしになってたんだが」
「……何のです?」
カフェインのおかげで、少しは人心地がついたのか、瀬田は一つ以上の語数で返事をした。といっても、柳谷の寝言のような、うわごとのような言葉にまともにとりあおうとすること自体が、瀬田自身の判断力が疲労で垂直落下している証明でもあった。
「あそうが、おまえをたとえるならなんだ、ときいてきて」
「はあ」
「それで、かんがえたんだが、ゆたんぽかな、とか」
「湯たんぽ」
「それか、ほら、しょうちゅうを、わるだろう。あれ、あれだ、みず」
「水」
「これがおわったらのみにいきたいなあ」
「柳谷さん、焼酎、好きですよね」
うん、と柳谷はうなずいて、いものみずが、とおぼつかない口調で呟くと、本格的に寝る姿勢に入った。芋焼酎の水割りが特に好きだ、ということらしい。
瀬田はコーヒーを飲み干して、腕時計を見た。
「……30分くらいしたら、起こしたほうがいいかな?」
「そうですね」
ひそめられた声に、浅生が同意すると、そのまま瀬田は自分の実験へと戻っていく。
思わぬ事態に目が覚めてしまった浅生は、据わった目をして組んでいた足をほどいて立ち上がった。
みず。水。エイチツーオー。水素原子二つに酸素原子一つの分子。それだけで、それさえあれば、人間が七日間生き延びられるという、すべての生き物に必要不可欠なもの。
そんなものに相手を譬えないでくれませんか。
……譬えられて全然気づかないままでスルーしないでくれませんか。
第三者だけが気付くというのもどうなのか、と居心地悪い気分をまず味わい、それから、両者ともに無意識だから余計に性質が悪い、と当り散らす先のないことにむしゃくしゃし……浅生はとりあえず残りの泥水コーヒーをシンクに捨てた。
そして、そこにうず高く積み上げられている食器類の山に空になったカップを微妙なバランスで載せてから、後でこれ全部洗うのを瀬田に押し付けよう、とこらえきれなかったあくびをしつつ決意した。
言った方もともかく、言われたのに気がつかない方が罪が重い、気がする。
修羅場終了後に二人で飲みに行くにしろ、とりあえずこのノルマを消化してからにさせよう、それが筋ってもんだろう、と考えて、浅生はほんの少しだけ鬱憤を晴らしたのだった。




