第二十一話 黒い霧の根
王都の役人たちが去り、薬草園の接収問題はひとまず一段落した。村には、束の間の安堵が広がっていた。
その平和な数日、ポフはすっかり気を抜いた様子で畝の間を転げ回ったり、井戸の縁で日向ぼっこをしたりと、のんびりとした時間を過ごしていた。
「ポフ、そんなにくつろいでて大丈夫ですか」
「よいではないか。危機が去った直後くらい、羽を伸ばしても罰は当たらぬ」
そう言って、ポフは腹を見せてだらしなく寝転がっていた。ミルカもそんな平和な光景に、思わず頬が緩んだ。
けれど、その平穏は長くは続かなかった。
「ミルカ、様子がおかしい」
ある朝、薬草園を見回っていたポフが、緊張した面持ちで駆け寄ってきた。先ほどまでの、だらけきった様子とはまるで別人だった。
「どうしたんですか?」
「薬草園の奥……あの黒い霧の気配が、以前よりも、濃くなっておる」
ミルカは、急いで薬草園の最奥へと向かった。そこには、以前見た時よりも、明らかに色濃く、黒い蔓が地表を這っている光景が広がっていた。
「これは……」
「王都の調査で、あの場所が刺激されたのやもしれぬ。影根草が、再び、広がり始めておる」
ポフの声には、深い懸念が滲んでいた。
「役人たちが、あの石碑に近づいたことも、影響しておるのかもしれぬ。土地の傷は、まだ、癒えきってはおらぬのじゃ」
ミルカは萎れた薬草の一部を見つめながら、唇を噛んだ。せっかく取り戻しつつあった薬草園の生気が、再び脅かされ始めている。
「ポフ、この根は、どこから広がっているんでしょうか」
ミルカの問いに、ポフはしばらく考え込むように黙っていたが、やがて、記憶を辿るように語り始めた。
「……思い出した。黒い霧の根は、薬草園の最奥、古い精霊樹の下にある」
「精霊樹……あなたの、力の源だったという?」
「うむ。そこは、かつて、王都の魔法師たちが、儀式のために魔力を吸い上げた、まさにその中心地じゃ」
ポフの声が、震えていた。
「あの場所には、この土地の、最も深い傷が眠っておる。今まで、我も、近づくことを避けてきた」
「今度こそ、向き合わないといけないんですね」
ミルカの言葉に、ポフはしばらく沈黙していたが、やがて覚悟を決めたように頷いた。
「うむ。このまま放置すれば、いずれ、薬草園全体が、再び蝕まれていく。……行かねばなるまい」
☆
その日の午後、ミルカは、エルナ、ノエリア、カリナに声をかけ、薬草園の最奥へ向かう決意を伝えた。
「私も行くわ」
カリナは、迷いなくそう答えた。
「役人たちとの一件で、私もこの土地に深く関わってしまった。最後まで、見届ける責任があると思う」
「私も当然、行きます」
ノエリアも、薬箱を手に力強く頷いた。
「あたしも、絶対に一緒に行く!」
エルナの明るい声に、ミルカは心強さを感じながら深く頷いた。
支度をするみんなを見て、ポフが珍しく神妙な面持ちで、鼻先を引き締めていた。
「ポフ、今日は、いつもみたいにお菓子とか、狙わないんですか」
「な、なにゆえ、そのような不謹慎なことを言う。我は、今から、己の過去と向き合いに行くのじゃぞ」
「そうですよね、すみません」
ミルカが謝ると、ポフは、こほん、と咳払いをした。
「じゃが、終わったあとには、何か、甘いものを期待しても、よいであろうな」
「……それは、終わってから考えます」
緊張した空気の中にも、ポフのそういう部分は、変わらないらしい。ミルカは思わず小さく苦笑した。
四人とポフは、薬草園の最奥、鬱蒼とした一角へと慎重に足を踏み入れていった。
☆
最奥へ進むにつれ、周囲の空気が次第に重く、冷たくなっていく。地面を這う黒い蔓は、いつの間にかより密度を増し、まるで生き物のようにうねっている。
「気をつけてください。ここから先は、空気が急に冷たくなっています」
ノエリアが、警戒するように声をかけた。みんなは慎重に歩を進めながら、やがて古びた大樹の前へとたどり着いた。
その木は、他の木々よりもずっと大きく、けれど、幹の大部分が黒く枯れたように変色している。根元からは絶えず黒い霧のようなものが立ちのぼっていた。
「これが、精霊樹……」
ミルカは、思わず息を呑んだ。かつては、力強く輝いていたであろうその木が、今は深い傷を負ったままひっそりと佇んでいる。
「うむ。ここに、我の力の源が、眠っておる」
ポフの声には、深い痛みが滲んでいた。
黒い霧が、次第にみんなを取り囲むように広がっていく。
霧に触れた瞬間、ミルカの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
脳裏に、鮮明な光景が浮かび上がってくる。それは、学院での記憶だった。
『攻撃魔法も、防御魔法も、貴殿には、実戦向きの才がない』
試験官の冷たい声。同級生たちの、嘲るような笑い声。何度も、何度も失敗を重ねてきた、あの日々の記憶。
(私は、やっぱり、落ちこぼれなんじゃないだろうか)
霧の中で、ミルカの心が大きく揺らいだ。学院で植え付けられた、あの無力感が再び、心の奥底からじわじわと滲み出してくる。
(薬草園を、守ることなんて、私にできるはずがない。私なんかに――)
「ミルカ!」
その時、聞こえてきたのは、エルナの声だった。
「あなたの魔法、私は好きだよ! 何度も、村のみんなを助けてきたじゃない!」
その声が、霧の中で揺れていたミルカの心に、まっすぐに届いた。
「ミルカさん」
ノエリアの落ち着いた声も続いた。
「私が記録してきた、あなたの薬草の効能。あれは、決して、まやかしなんかじゃありません。確かな、価値のある力です」
「ミルカ」
カリナの声も、力強く響いた。
「あなたの魔法は、学院では見えなかっただけ。私はこの目で、それを見てきたわ」
三人の声が、霧の中でミルカの周りに確かな光の輪を作っていくようだった。
「我も、おる」
ポフの声が、ミルカの傍らから穏やかに響いた。
「おぬしの魔法は、派手ではないかもしれぬ。じゃが、この場所を、確かに育ててきた。それは、紛れもない事実じゃ」
その言葉の一つ一つが、ミルカの心に染み込んでいく。学院で植え付けられた無力感が、少しずつ薄れていくのを感じた。
(私は、落ちこぼれなんかじゃない)
ミルカは深く息を吸い、目を開いた。霧の中で見えていた、あの学院の記憶が、次第に薄れていく。
「私は……この薬草園を、皆と一緒に、育ててきた」
ミルカの声には、確かな強さが戻っていた。
「派手な魔法は使えない。でも、私にしかできない、この場所との向き合い方がある」
その言葉とともに、周囲を包んでいた黒い霧が、わずかに揺らめいた。まるで、ミルカの決意に応えるかのように。
「ミルカ、大丈夫?」
エルナが心配そうに声をかけてきた。ミルカは深く頷いた。
「はい。皆さんの声のおかげで、立ち直れました」
ミルカは精霊樹の根元をじっと見つめた。黒い霧は依然として、そこから立ちのぼり続けている。
「この場所に、何が眠っているのか。……確かめないといけません」
その言葉に、ポフがゆっくりと頷いた。
「うむ。この霧の根には、まだ深い傷と、癒えぬ痛みが、眠っておる」
「ポフ、この霧に、触れても大丈夫でしょうか?」
ミルカの問いに、ポフは少し考え込んだあと答えた。
「危険は伴うじゃろう。じゃが……おぬしの魔法なら、この霧の痛みを、聞き取ることができるかもしれぬ」
ミルカは、精霊樹の根元にゆっくりと近づいた。
「ミルカさん、無理はしないでください」
ノエリアが心配そうに声をかける。ミルカは深く息を吸い、頷いた。
「大丈夫です。皆さんが、傍にいてくれるから」
ミルカは震える手を、精霊樹の根元――黒い霧が最も濃く立ちのぼる場所に、そっと伸ばした。
その瞬間、これまでにない、深く重い痛みが、ミルカの中に流れ込んでくる。
(苦しい。誰も、助けてくれない。長い間、ずっと、一人で……)
それは、土地そのものの長年にわたる苦しみだった。王都の魔法師たちに、力を無理やり奪われた痛み。誰にも気づかれず、癒されることのないまま、ずっと燻り続けてきた傷。
「この土地は……ずっと、痛みを、誰にも伝えられなかったんですね」
ミルカは涙を滲ませながら、そう呟いた。
「怒っているんじゃない。ただ、苦しさを、誰にも聞いてもらえなかっただけなんです」
その言葉に、ポフも頷いた。
「うむ。我も、この痛みを、これまで正面から受け止めることができなんだ」
その時、ミルカは、指先へ流れ込んでくる痛みに、わずかな偏りがあることに気づいた。
精霊樹全体から伝わってくるのではない。根元のさらに奥、地中の一か所から、同じ痛みが何度も繰り返し送り込まれている。
「ポフ。精霊樹の下に、何かあります」
「何か、じゃと?」
「土地の痛みが、そこへ集められています。まるで、今も誰かが、同じ場所を引っ張り続けているみたいに」
ミルカは黒い蔓を傷つけないようにかき分け、根元の土へ触れた。
冷たい魔力が、細い糸のように地中へ伸びている。その流れを辿ると、精霊樹の太い根の間に、硬いものが埋まっている感触があった。
「ここです」
エルナが荷物から小さな移植ごてを取り出す。
「あたしが掘ってみる。ミルカは、根を傷つけそうになったら教えて」
「お願いします。少しずつ、土だけを除いてください」
エルナが表面の土を薄く削り、ノエリアが崩れた土を手で払っていく。黒い蔓が何度か二人の手を遮るように動いたが、ミルカが触れて落ち着かせると、ゆっくり脇へ退いた。
やがて、土の中から鈍い銀色のものが現れた。
「これは……杭?」
精霊樹の根に挟まれるようにして、人の腕ほどの銀色の杭が埋まっていた。表面は黒く変色し、途中には大きな亀裂が走っている。
カリナが杖の先に小さな光をともした。
「待って。この紋様……」
土をさらに払うと、杭の表面に刻まれた術式と、かすれた王都の紋章が浮かび上がった。
「王都のものなんですか?」
ミルカが尋ねると、カリナは杭の紋様を杖の光で照らした。
「ええ。古い型だけれど、集束術式に間違いないわ。土地の魔力を一か所へ集めるための杭よ」
カリナの顔から血の気が引いていく。
「公開調査で使われた測定杭と、仕組みはよく似ている。でも、これは測定だけの道具じゃない。集めた魔力を、そのまま外へ送り出すためのものだわ」
「では、三十年前の儀式に使われた杭が、今も残っているということですか」
ノエリアの問いに、カリナは頷いた。
「本来なら、儀式が終わった時にすべて回収する決まりのはずよ。けれど、この杭は途中で壊れ、精霊樹の根に呑み込まれた。術式も完全には止まっていない」
ミルカは、銀の杭へ直接触れないよう、周囲の土に手を置いた。
ごく僅かずつではあるが、精霊樹の魔力が杭へ吸い寄せられている。亀裂から行き場を失った魔力が漏れ出し、土地の痛みと混ざり合って、黒い霧へ変わっているようだった。
「黒い霧が消えなかったのは、この杭が、ずっと精霊樹に昔の痛みを繰り返させていたから……」
ミルカの言葉に、ポフの体が大きく震えた。
「思い出した」
「ポフ?」
「あの時、王都の魔法師たちは、精霊樹の周りに幾つもの杭を打ち込んだ。我は地上に見えていたものを壊した。じゃが、最後の一本が、地中深くまで沈んでいたのじゃ」
ポフは、黒ずんだ杭を見つめた。
「我は、すべて止めたと思うておった。じゃが、この杭だけが、今も土地の力を奪い続けておったのか」
「なら、これを抜けばいいんじゃない?」
エルナが手を伸ばしかける。
「触らないで!」
ミルカとカリナの声が重なった。
エルナは驚いて手を止める。
「杭は、精霊樹の根と絡み合っています」
ミルカは地中の感覚を確かめながら言った。
「無理に引き抜けば、根まで傷ついてしまいます。それに、集められている魔力が一気に戻ったら、土地が耐えられないかもしれません」
「術式を先に止める必要があるわ」
カリナは杭の紋様を注意深く見つめた。
「でも、これは私が学んだものより古い術式よ。一人で解除するのは危険だわ。リュカ先輩なら、古い魔法式の記録を調べられるかもしれない」
「杭を止めるだけでも、黒い霧は消えぬじゃろう」
ポフが付け加えた。
「この土地が受けた痛みも、置き去りにされた年月も、すでに杭だけの問題ではなくなっておる」
「はい」
ミルカは、黒い霧に覆われた精霊樹を見上げた。
「杭の術式を止めて、行き場を失っている魔力を薬草園全体へ戻す。それと一緒に、この土地が抱えてきた痛みにも、皆で向き合わなければいけないんだと思います」
黒い霧の根が、ようやく目に見える形になった。
けれど、それを取り除くには、一人の魔法では足りない。
ミルカは銀の杭と、そこへ絡みつく精霊樹の根を見つめながら、次にすべきことを考えていた。
「ミルカ、私たちに、何かできることは?」
カリナが真剣な表情で尋ねた。ミルカは精霊樹の根元を見つめながら、冷静に答えた。
「この場所の痛みを、癒すには……私一人の力じゃ、足りません。皆の力を、合わせる必要があると思います」
「私たちの力を?」
「はい。カリナさんの結界魔法、ノエリアさんの知識、エルナさんの明るさ、ポフの光。そして、村の皆さんが、これまで育ててきた、小さな薬草の力」
ミルカの言葉に、みんなは顔を見合わせた。
「一人の大きな魔法で、この痛みを、一気に消し去ることはできないと思います。でも、皆で少しずつ、寄り添っていけば……」
ポフは精霊樹を見上げ、静かにしっぽを揺らした。先端から、淡い光の粒がこぼれ落ちる。
「うむ。この土地が求めておるのは、力による支配ではない。多くの者たちの、小さな寄り添いの積み重ねじゃ」
夕暮れが迫る中、みんなは精霊樹の前に立ち、これからこの土地の痛みと本当に向き合う決意を固めていた。
「今日は、一度、村に戻りましょう」
ミルカは皆に向かって提案した。
「この痛みに向き合うには、村の皆さんの力も、必要になると思います。準備を整えてから、改めてここに来ましょう」
その言葉に、皆が頷いた。
「うむ。今日、この場所の真実に、少し触れることができた。次に来る時は、しっかりとした覚悟を持って、臨まねばなるまい」
ポフの声には、深い決意が滲んでいた。それでも、最奥を離れる道すがら、ポフは、ちらりと、ミルカの方を見た。
「して……先ほどの、甘いものの件じゃが」
「今、その話をしますか」
「緊張が解けた今だからこそ、言うておるのじゃ」
真剣な空気の中に差し込んだ、あまりに変わらないポフの調子に、エルナとカリナが、思わず、小さく吹き出した。張り詰めていた心が、ほんの少しだけ、和らいだ瞬間だった。




