王国終焉
王都マーレミア。
海と水路に守られた海洋国家の首都は、いま巨大な怪物の影に覆われていた。
崩れた城壁の上で、翼を広げた竜が咆哮する。
その声は雷鳴のように都市全体を震わせ、広場の兵士たちが思わず耳を塞いだ。
音だけで肺の空気が押し出される。立っていることさえ困難な圧力だった。
だが、それでも兵は逃げない。
王都だからだ。
ここが落ちれば、王国そのものが消える。
「防衛線を再構築しろ!」
怒号が広場に響く。
声の主は王太子キルベだった。
父王ヴァウデオウス五世が戦死してからまだ日も浅い。
だが王城にはもう王がいない。将軍たちもすでに失われている。王国軍の指揮を取れる者は、いま彼しか残っていなかった。
キルベは城壁の崩壊を見つめながら歯を食いしばる。
「竜が本当に存在していただと...?」
古い神話や遠洋に向かう船乗りの怪談にだけ登場する存在。
それがいま、王都の中に立っている。
そして理解する。
これは戦争ではない。
災害だ。
「弓兵、上空警戒!
魔導兵は第二水門へ移動!」
命令が次々に飛ぶ。
兵たちは動いた。恐怖に顔を歪めながら、それでも武器を握る。
王国軍は弱くない。
海軍国家として長年戦争を生き抜き、魔物災害にも対応してきた。
しかし、相手が違う。
城壁の穴の向こうで、巨大な竜蜥「仮称 翼王」が首を持ち上げた。
灰色の鱗が朝日を反射する。
その巨体は家屋よりも大きく、翼を広げれば広場を覆い隠すほどだった。
そして、その周囲には。
竜蜥種の群れ。
炎鱗竜蜥が屋根へ火を放つ。
黒甲竜蜥が街路を走り、兵士を切り裂く。
烈牙竜蜥が馬を噛み砕き、石畳を血で染めた。
王都の街並みが一瞬で戦場へ変わる。
「撃て!」
弓兵の矢が一斉に放たれた。
数百の矢が空を埋める。
しかし翼王の鱗に当たった瞬間、乾いた音を立てて弾かれた。
まるで岩に当たったかのようだった。
竜がゆっくりと翼を広げる。
その動作だけで風が生まれる。
突風が城壁上の兵士を吹き飛ばし、瓦礫が宙を舞った。
そして次の瞬間、翼王は空へ跳び上がる。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
竜は一瞬で高度を上げた。
王都の上空。
そこから巨体が反転する。
翼が閉じる。
急降下。
音速を超える速度で落ちてくる巨大な影。
「防壁展開!」
水魔法陣が広場の上に展開された。
青い魔力膜が幾重にも重なり、空を覆う。
だが。
竜は止まらない。
天墜衝牙。
巨大な衝撃が王都を叩いた。
轟音。
石畳が割れ、広場が陥没する。
衝撃波が周囲の建物を吹き飛ばし、塔が崩れ落ちた。
魔法障壁は一瞬だけ耐えたが、次の瞬間には内側から砕け散る。
竜が着地する。
地面に巨大なクレーターが生まれていた。
広場にいた兵士の半数が消えている。
「……」
キルベは言葉を失った。
強いとか弱いとか、そういう次元ではない。
存在の格が違う。
国家など、この怪物にとってはただの餌場に過ぎないのではないか。
だが、それでも王太子は剣を抜いた。
「……退くな」
声は震えていた。
それでも、兵たちは顔を上げる。
「ここは王都だ」
剣を掲げる。
「民こそ国だ!」
「……守れ!」
兵士たちが吠えた。
絶望を押し潰すような咆哮だった。
歩兵が突撃する。
魔導兵が雷撃を放つ。
水魔法が竜へ叩きつけられる。
だが翼王は動かなかった。
ただ、咆哮する。
衝撃波が広場を薙ぎ払う。
兵士たちの隊列が一瞬で崩壊する。
そして竜は翼を振るった。
風刃。
空気そのものが刃へ変わる。
広場を横切る透明な斬撃が兵士の列を通過した。
遅れて、血が噴き出す。
十人。
二十人。
まとめて崩れ落ちた。
その光景を見て、キルベは理解した。
マーレミア王国は終わる。
この都市は今日で消える。
逃げても意味はない。
国はもう残らない。
彼はゆっくりと剣を握り直した。
「……」
誰にも聞こえない声で呟く。
「ならば、最後まで王族でいよう」
王太子は走り出す。
瓦礫と血の中を。
竜の前へ。
翼王はそれを見た。
小さな生き物。
だが逃げない。
ほんのわずかに首を傾ける。
そして次の瞬間。
爪が振り下ろされた。
地面が裂ける。
王太子の姿は、その衝撃の中へ消えた。
王城の塔が崩れる。
街路が燃える。
港が炎に包まれる。
竜蜥種の群れが王都全域へ広がり、兵も民も区別なく狩り始めた。
数時間後。
マーレミア王都は完全に沈黙した。
生き残った人間は、ほとんどいない。
炎の中で、翼王が空へ舞い上がる。
その下で王都は燃えていた。
海洋国家マーレミア王国。
数百年続いた国家は、この日、無慈悲な災害によって終わりを迎えた。




