守った者
深層の広間は、すでに半壊していた。柱は折れ、天井は裂け、落石と粉塵が空気を濁らせている。その中央で、灰森の竜と海砕流の継承者が向き合っていた。
竜の呼吸は荒い。内部を打たれ続けた衝撃が、確実に蓄積している。外殻は無事でも、内側は揺れている。背骨を走る熱が鈍い痛みに変わりつつある。
それでも、立っている。
エリスもまた、血に濡れていた。肩は裂け、肋は軋み、呼吸は浅い。それでも構えは崩れない。拳は下げたまま、重心だけが低く沈んでいる。
カイが壁際でうめき声を上げる。意識が戻りかけている。
竜は視線を向ける。
核を狙う者の片割れ。将軍の弟子。剛の拳。
今ここで殺せば、脅威は減る。
竜が一歩踏み出す。棘が軋み、床が砕ける。カイの喉元へ爪が伸びる。
その瞬間。
エリスが動いた。
踏み込みは静かだ。だが間合いは一瞬で詰まる。竜の腕に触れ、衝撃を逸らし、爪の軌道を変える。そしてそのまま竜の胸へと深く潜り込む。
「海砕流――」
呼吸が整う。
空気が一瞬、凪ぐ。
「断潮」
掌が竜の胸骨へ触れる。
軽い。
だが次の瞬間、衝撃は波となって内側へ潜り込み、これまで蓄積した振動を一斉に“揃える”。散らばっていた痛みが一つに重なり、内側から爆ぜる。
竜の視界が白く弾ける。
背骨が軋み、翼が痙攣する。膝がわずかに沈む。
断潮――流れを断ち、蓄積を断ち、命脈を断つための一撃。海砕流の奥義。
エリスは理解している。この一撃で竜は致命傷を負う。だが完全には倒れない。質量も魔力量も、この竜は異常だ。
だからこそ、次の選択が必要だった。
竜は呻きながらも、なお立ち上がる。翼が振り上がり、棘が逆立つ。怒りではない。生存の本能。守るという決意。
「……まだだ」
その声は震えていない。
竜が踏み込む。エリスの肩を掴み、壁へ叩きつける。岩が砕け、血が飛ぶ。だがエリスは抵抗しない。拳を振り上げる代わりに、後方へ視線を送る。
カイが立ち上がろうとしている。まだ足は震えているが、意識は戻っている。
エリスは短く言う。
「行け」
カイの目が見開かれる。
「将軍――」
「命令だ」
迷いはない。だが声の奥に、わずかな安堵が混じる。弟子は生きている。今なら逃がせる。
竜は理解する。ここで殺せば終わる。だが、今の一撃は重い。内側が揺れ、追撃のための一瞬が遅れる。
カイが歯を食いしばり、崩れた通路へと走る。振り返らない。命令だからだ。だが背後の音は聞こえている。
竜が咆哮する。翼で地面を叩き、衝撃を放つ。エリスが正面から受け止める。流す余力はもう少ない。
「灰森の竜」
エリスが静かに言う。
「人類は、必ずお前達を倒す。」
竜の瞳が細まる。
「守る」
短い答え。
エリスは微笑む。
「そうか」
その笑みは、勝者のものでも敗者のものでもない。ただ理解した者の表情だ。
竜が最後の踏み込みを行う。棘を纏った前肢が振り下ろされる。エリスは受けず、胸へと最後の掌を当てる。だが衝撃は足りない。竜の質量が押し切る。
灰色の巨体が覆いかぶさり、広間が沈黙する。
やがて竜が立ち上がると、そこにエリスは動かない。
呼吸は止まっている。
断潮は確かに竜を削った。だが命までは届かなかった。
深層に静寂が戻る。
竜はしばらく動かなかった。内側の痛みを確かめるように、ゆっくりと息を吐く。
遠くで、核が震える。
『……生きていますか』
竜は短く答える。
「まだだ」
その声には、わずかな疲労と、わずかな重みがあった。
上層ではセルガルドが倒れ、イグレインは捕縛された。カイは逃げる。王国へ脅威は伝わる。
勝った。
だが均衡は崩れた。
灰森の竜巣は生き延びた。
王国は、もう本気で来る。
竜は深層の奥へと歩く。
守るために。
広げるために。
継承のために。
第二章、終。




