蒼の底
水の音がしていた。
まるで呼吸のような、ゆっくりとした揺れだった。
市街区の中心に立っていたガルド・ベレドは、その音を聞いた瞬間に、背筋へと走る違和感を抑えきれず、ゆっくりと視線を上げる。
「……湖、かよ」
そこはすでに帝都ではなかった。
市街区を取り囲む四方すべて。
見渡す限りの水。
建物の外縁はすでに消え、石畳の先はそのまま水面へと沈んでいる。
地底湖。
いや、そんな規模ではない。
水平線が見える。
地下であるはずなのに。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
思い出したからだ。
あの時の光景を。
蒼湖の王。
自分が率いていた黄金牙傭兵団を、何も残さず潰した存在。
あの時と、似ている。
違うのは――
「まだ、静かだってとこか」
だが、その静けさが逆におかしい。
この規模の水域で、何も起きないはずがない。
そして――
来た。
水面が、揺れる。
小さく。
だが次の瞬間、同時に“無数”に。
水が弾ける。
飛び出す影。
魔物。
しかも――
「……灰森の、魔物?」
ありえない。
本来、水中では生きられない種ばかり。
狼型。
甲殻種。
虫系。そして竜蜥種。
それらが、水から“普通に”這い出してくる。
濡れているだけで、弱体化の様子もない。
「なんだよ、それ……」
その瞬間、悲鳴が上がる。
市街区に残されていた人々が、次々に襲われていく。
逃げ場はない。
背後は水。
前は魔物。
完全な孤立。
「高所へ上がれ!」
ガルドが叫ぶ。
反射だった。
指揮を取るのはもう自分ではないはずなのに、それでも身体が動く。
冒険者たちが応じる。
数は少ない。
だが、戦える者たちだ。
その瞬間、最前列の一体が踏み込むと同時にガルドの剣が振り抜かれ、首ごと斬り飛ばされた魔物の体が水面へと叩きつけられる。
しかしその断面はすぐに崩れ、まるで“溶ける”ように水へと戻り、その場に新たな個体が浮かび上がる。
「……は?」
違和感。
いや、確信。
「生き物じゃねえ」
これは個体ではない。
“得体の知れない悪意”だ。
その証拠に、動きに個性がない。
完全に統一されている。
そして――
「増えてる……」
倒しても、減らない。
むしろ、水面から湧き続ける。
無限ではないのかもしれない。
だが、それに近い。
「くそったれが……!」
その時だった。
空間が歪む。
水面の上。
空気が裂ける。
そして、落ちてくる。
巨大な影。
王級頂点種。
それが、何の前触れもなく出現し、その着地と同時に地面が砕け、建物が崩壊し、周囲の人間ごと瓦礫が押し潰される。
その衝撃で水面が跳ね上がり、さらに魔物が溢れ出し、市街区の構造そのものが一気に崩れていく。
「……っ、やべえな、これ」
ガルドは笑う。
もう理解している。
これは戦場ではない。
処理場だ。
人間を、削るための。
その時だった。
視界の端に、人影が映る。
振り向く。
そこにいたのは――
「……おい」
かつての仲間。
黄金牙傭兵団。
自分と共に戦い、死んでいった連中。
「……なんで、ここにいる」
答えはない。
だが、その姿は明確だった。
表情。
傷。
武器。
すべてが、記憶通り。あの時の絶望の表情をしている。
そして――
動く。
こちらへ。
剣を構え。
「……そういうことかよ」
理解する。
深蒼界主。
この戦場の本質。
「喰ったもん、全部コピーできるってか」
笑う。
声が出る。
乾いている。
だが、止まらない。
「悪趣味にも程があんだろ……!」
踏み込む。
剣を振るう。
だが、その刃が届く前に、視界が揺れる。
重い。
足が、沈む。
水ではない。
魔力だ。
この空間そのものが、沈み始めている。
「……ああ」
理解する。
ここはもう、逃げ場じゃない。
選択肢もない。
あるのは――
「終わりだな」
かつて見た光景。
蒼の底。
仲間が消えた場所。
それと、同じ。
いや、それ以上だ。
そして、視界の中で、仲間たちが踏み込んでくる。
剣が振り下ろされる。
避けることもできる。
だが――
しない。
「……おれも、そっちにいけるんだろ?」
最後に、笑った。
そのまま。
視界が、黒に沈む。
水音だけが、残った。




