私のこれから。 上
信じられない!
キャロラインは擦れた声で叫ぶ。
信じられない!信じられない!
水分の足りない喉が、キャロラインが叫ぶ度に痛みさえ訴える。
「キャロルライン、水を。」
ケホケホッと咳き込みながら、ベットの奥端に毛布に包まって叫び続けるキャロラインに、ラシドがコップを差し出した。
小さなコップの中で波立っている透明な水に、乾ききった喉がコクンッと鳴り、キャロラインが意識しない内から手が伸びそうになる。
が、キャロラインはそれを強い意思で抑えつけた。
「いらない。」
持ち上げかけた手を下げ、体に巻き付け頭の先まですっぽりと被った毛布を強く握り絞め、全身から夫を拒絶する意思を放つ。
「キャロライン。」
まったく、と溜め息をつく音がキャロラインの毛布越しの耳に届く。
カタッというコップをテーブルに置く音も聞こえた。
「知らない。ラシドも兄様も、大ッ嫌い!」
毛布に隠れ、キャロラインの目にはベットとラシドの膝辺りしか映らないが、彼が自分に手を伸ばしてきたことは分かる。それにビクッと体を震わせ、キャロラインはクルリと体を動かし背中を向けた。
名実共に、キャロラインの全てを明け渡して夫となったラシドを、そして自分まで図っていた兄カルロを拒絶する言葉を吐き出したが、その物言いはとても幼いものだった。
それは仕方ないとも言える。
つい先程まで、キャロラインは彼女を作り上げている根底から何もかも、ラシドによってぐちゃぐちゃに壊し尽くされていてのだ。
キャロラインを細かく分解して、その破片一つ一つに所有者の名前を記し、もう一度形作る。
キャロラインの全てを求める欲望をただ貫く狂った作業は、キャロラインの制止も懇願も、悲鳴も呑み込んで数日に及んだ。
6日。
キャロラインが覚えているのは、三回昼から夜になる光景を目にしたなということだったが、正確にいえば6日間、キャロラインはラシドによって運び込まれてこの部屋から、いやそれどころかベットの上から自分の足で降りることも許されなかった。
ラシドの破壊行為の中で、キャロラインは隠された真実を聞かされた。
朦朧とする頭にも、はっきりと浸透したそれに、キャロラインは酷いと悲鳴を何度もあげた。
そもそも、あの白一色の花園を冥府の入り口であると、キャロラインは疑いもしていなかったのだ。兄が訪ねてきたという記憶が、キャロラインの中に残る最後の記憶ではあったが、兄はキャロラインの思いを認め、納得してくれた。あの、『強欲』である兄が、キャロラインを手放すと言葉にしたのだ。魅了によって支配し、キャロラインを嫌うように仕込んである人々が、キャロラインの望みに反する訳はない。処刑台に登った記憶はなくとも、間違いなくキャロラインは処刑されたのだ。そう、キャロラインは信じて疑わなかった。
だというのに、お互いにお互いが唯一であると認め合い、真実の愛を捧げ合った後、ラシドはキャロラインを抱え上げて移動した。
何処に向かうのか。冥府の入り口なのだから、この先に進むのならば裁きの場か、とも考えた。
なのに、戸惑うキャロラインが口を挟むことも出来ない程の速さで駆け抜けたのは、人混みが溢れる雑多な町並みで、乱暴にドアを開けて入っていったのは路地裏の住居だった。
あとはもう、真綿にくるむような優しさを含んでもいる、それでいて乱暴で性急なラシドによる破壊活動がキャロラインから、考える力を奪い去ってしまった。
「わ、私の、覚悟を返して‼」
「それは無理だ。お前から受け取ったものを、それがお前自身へだとしても、返すなんて俺には出来ない。俺が死ぬその時まで、お前が生み出した言葉も覚悟も、俺の中で大切にし舞い込んでおく。」
キャロラインの最期の決意、全てを捨てて愛をとるという覚悟を、兄もラシドも、ズタズタに切り裂いていたなんて、キャロラインが怒り狂い、二人の目の届かない場所へと逃げても許される事だ。それがキャロラインをよく知る二人には予想が着いているからこその、キャロラインから動きを完全に奪い去った破壊行為であり、慣れ親しんだ国々、文化の広がる東の大陸内ではない、西の大陸なのだろう。
そんな考えを追うことが出来てしまったことが、ますますキャロラインの怒りを増幅させる。
キャロラインが兄に別れを告げた後、キャロラインは控えていた兄の『影』の一人に眠りへと落とされたのだと、ラシドは言った。
決められた合図が無い限りは、決して目覚めることのない眠り。
眠るキャロラインと共に、ラシドは西の大陸へと渡る船に乗った。三日間の航海の末に、西の大陸の玄関口であるこの街へと到着した。
そして、カルロから聞かされたキャロラインの望みに沿う目覚めであるようにと、多くの人々から『冥府の入り口』であると名高かったあの場所を利用したのだと、ラシドは笑う。俺達の想像通り信じてくれたな、とキャロラインの耳元で笑ってみせたラシドを、今キャロラインが思い出すだけで殴りたい衝動に襲われる。
「喜ばないのか?お前は何も捨てなくてよくなったということなのに。」
「…それとこれとは別だわ。」
ラシドの言葉に少しだけ心が揺らいだ。
誰が、とは教えて貰えなかったが、確かに『魅了の魔女』キャロラインは処刑された。集まったもの達を魅了しないように、顔をすっぽりと麻袋で隠した魔女は皇帝と皇妃が見守る中、確実に頭を落とされた。
『魅了の魔女』が死んだ事を疑いようのない事実として、記録にも残されたのだ。
そうなっている今、キャロラインが姿を見せたとしても、ただ彼女に似ている容姿を持っているというだけ、と判断されることになる。キャロラインが魔女ではないのか、と疑うことは皇帝・皇妃を疑うことになるのだから。
第十五皇女キャロルは皇帝の部下に嫁ぎ、その仕事に付き添い西の大陸に滞在している。
今、帝国ではそれが事実になっているのだと、ラシドが教えた。
先帝によって名付けられたキャロラインという名前は、帝国に残る生まれた瞬間から記されている記録から消し去られ、カルロだけが呼ぶキャロルという愛称こそが本当の名前だと、書き直し終わっているのだ、と。
これで、キャロラインという本来の名前を呼ぶ者はいなくなる。この名前は俺だけの物だな、と薄暗くラシドは笑ってみせた。
「帰る…。」
「ん?」
「帝国に帰って、兄様を殴る!」
ただの第十五皇女キャロルと成り果てたキャロラインは、ベットの上に立ち上がった。
自分がどんな姿をしているかも気にすることなく、キャロラインはガクガクとこの数日のせいで震える足で必死に立ち上がると、部屋の唯一の出入り口であるドアに向かって足を素早く動かした。
キャロラインを動かすのは、兄の忠実なる味方である彼女までも騙し尽くしたことへの怒りだった。
生きていること。
兄や弟にまた会えるのだということ。
ラシドが生きて、想いを通じ合わせたこと。
キャロラインの中には喜びも生まれ、時間が経つ程に大きく膨らんでいるのだが、兄に怒りの丈を全てぶつけない限りは純粋に喜びへ浸ることは出来ない。
あの澄ました顔に一発。ラシドの前では流石に隠していた、育った農村で培った粗野な部分が向きだしになっているということも頭にはなく、ドアとの間にラシドが居ることも目に入らずに、キャロラインは真っ直ぐにドアに向かおうとする。
「駄目だ。」
当然のように、自分の脇を通り抜けようと試みたキャロラインの体を、ラシドは捕獲する。
ラシドよりも背も低く小柄なキャロラインの腰に手を回し、足が床に届かないように抱き上げることで彼女が部屋を出て行くことを阻止した。
「流石に時間を空けずに、皇妃の前に姿を見せれば不審を生む。少なくとも一年はこちらに居ろという命令だ。」
「命令って…」
「あぁ、これはまだ教えていなかったな。国とあの女を渡す代わりに、俺は新しい名前と身分、お前を皇帝から貰った。」
ラシドの新しい名前は、ラース。皇帝の信頼厚き『影』の一人という身分を得た。そして、有能なる働きによって、主である皇帝の妹を妻に望む事が許された、という話になっていた。
「この西の大陸で皇帝の命をこなす侯爵を助けるのが、俺に与えられた現在の任務だ。その際、夫との別れを嫌がった妹の我侭を、妹可愛さに皇帝が許したということになっている。」
キャロラインは再び、兄の顔を思いっきり殴りつけたくなった。
キャロラインが、我侭を言って、西の大陸にまでラシドに無理矢理同行したなんて…。
そこまで愚かで頭の弱い女だなんて、親しい者たちが違うと分かってくれているとしても、記録に残るのならば許せるわけがない。
両手で自分を抱き上げているラシドの胸元を押し、足をバタつかせて、離すようにとラシドに訴える。
「昨日、侯爵とやらが副官と共にこの家に来る手筈になっていたんだが…どうやら船が遅れているようだな。」
キャロラインの体を片手で抱き締め、その頬にもう片方の手を添えることで、ラシドはキャロラインの動きを封じた。そして、自分の顔をキャロラインの爛々と目を光らせる顔に寄せる。
「侯爵達が来るまで、もう少し蜜月が続けられそうだ。」
「いっ嫌。もう無理。無理だから!やっ…」
腰に響くような声でキャロラインの頭を揺さぶるラシドに、キャロラインは必死に拒絶を示す。先程まで怒りに燃えていた顔を一瞬にして青褪めさせ、全身がぶるぶると小動物のように震わせる。
けれど、ラシドはそんなキャロラインの拒絶の言葉を、自分の中へと飲み込み無かった事にしてしまった。




