第1話:サヨナラと、ビールと、最悪な朝
「えっ?! 別れる?!」
オフィス街の喧騒が遠くに聞こえる、金曜日の夜。お洒落なイタリアンのテラス席で、あたし、郁島夏美は、パスタを口に運ぶ手を止めた。目の前に座る冬弥は、申し訳なさそうな顔を一ミリも見せず、淡々と告げた。
「ごめん、夏美。オレ、仕事ばっかりでなく、もっとこう……守ってあげたくなるような、かわいい女がいいんだ」
頭の中で、何かがブチリと音を立てて切れた。
あたしは郁島夏美、花のOL27歳。仕事は真面目にやってきたし、キャリアだって順調。 shadow。でも、それが可愛くない理由になるなんて、いつの時代の話よ。
その日、あたしは3年付き合った彼氏に、あっけなく振られた。
「う〜い……冬弥のバカヤロー!!」
場所を変え、あたしはガード下の居酒屋でジョッキを煽っていた。お洒落なワインより、今は喉を焼くビールの方が相応しい。
「なっつー、お前どうした?!」
聞き慣れた、 shadow。少し低い声。顔を上げると、そこには職場の同僚で、席が隣の三浦行人——通称ユッキーが立っていた。
「なっつー言うな……!」
彼は、入れ替わりの激しいあたしたちの職場でも数少ない同期だ。お互い仕事のスタンスが似ているせいか、いつも憎まれ口を言い合っている。弱っている時に一番見られたくない相手だった。
「いや、だって職場での飲み会でもそんなにぐてんぐてんになるまで飲まないじゃん、どうしたの?!」
行人は呆れたように言いながらも、あたしの向かいに勝手に座った。
(くっ、コイツ、こんな時に限って優しい目をしてるのが余計に腹立つ……)
ぼんやりと彼の顔を見つめる。整った顔立ちが、今は妙に心配そうに歪んでいる。
「彼氏に振られたの! 悪いか!」
ドン、とまだ半分くらいビールの入ったジョッキをテーブルに叩きつける。
「……なっつー、彼氏いたんだ」
「いたわよ、悪い? あたしだって人並みに恋愛くらいするわよ」
「別に悪いなんて言ってないだろ。……俺で良かったら、いくらでも愚痴を聞くから言いなよ」
「ホントにぃ〜? 途中で寝たりしないでよ」
「いいからドンと来い!」
彼はそう言って、頼もしく自分の胸を叩いた。
それから数時間。次々と空けられていくジョッキやグラスの数に比例して、あたしの不満は溢れ出した。冬弥への愚痴、仕事でのプレッシャー、27歳という年齢への焦り……。行人は「うん、うん」と、一度も否定せずに聞き続けてくれた。
ふと店内にある時計へ目をやる。針はもうすぐテッペンを回ろうとしていた。
「ユッキー、今日はいろいろ……ありがとう。スッキリしたわ」
「いいって。なっつーはいつも仕事に真剣に向き合ってるし、助け合ってるんだからお互い様だろ」
その言葉に、あたしの胸は柄にもなくキュンとなった。
店を出ると、夜風が火照った顔に心地いい。足元がふらつき、あたしは行人の肩に掴まった。
「こんなに飲むなよ、いい歳した大人が」
「うるさいわね、飲まずにいられなかったのよ!」
「はいはい。ほら、駅行くぞ。終電逃す」
駅へ向かおうとする行人の袖を、あたしはギュッと握りしめた。
「ねぇ……もう一軒行こうよ」
「お前、何考えてるんだ、終電逃すぞ!」
「いいの。今日は……家に帰りたくない」
「はあっ?!」
「ユッキーと朝まで一緒にいたい。……あたしのこと、嫌い?」
上目遣いでそう言うと、行人は絶句した。沈黙が怖い。あたしは恥ずかしさで下を向いた。
「……自分の言っている意味、分かってるのか?」
「わかってる。ユッキーに、朝まで慰めてほしいの」
震える声でそう告げると、行人は大きなため息をついた。 shadow。そして、あたしの肩にそっと手を置き、駅とは反対方向にある、ネオンの光へと歩き出した。
お互いシャワーを浴び、ホテルのベッドの上に座る。
アルコールはまだ残っているけれど、意識は妙に冴えていた。
「なっつー」
「……今晩は、夏美って呼んで」
「わかったよ、夏美。じゃあ俺のことも、行人って呼べよ」
それが瞬間だった。
行人は驚くほど優しく、でも時には抗えないほど激しくあたしを抱いた。冬弥に言われた「可愛くない」という言葉が、彼の熱で溶かされていく。不安も失望も、全部塗り替えられていくような感覚。
そして翌朝。土曜日の眩しい日差しで目が覚めた。
隣には、まだ眠っている行人の顔。
(まさか、コイツと一線越えることになるとは……)
昨夜の記憶を反芻し、顔が火が出るほど熱くなる。酔った勢いとはいえ、彼に対して今まで抱いたことのない感情が芽生えてしまったのは事実だ。
その時、行人がゆっくりと目を開けた。
「……おはよ、夏美」
「お、おはよう……」
気まずさに耐えきれず目を逸らそうとした時、行人がふっと微かに笑った。
「これ、一晩だけのことだからな。月曜日から会社が始まったら、いつも通りの二人でいよう。いいな?」
心臓が冷たく跳ねた。
行人はそう言って、いつもの「ユッキー」らしい爽やかで少し意地悪な笑顔を見せた。
「……ええ、もちろんよ。あたしもそう思ってたわ」
強がって答えたけれど、心の中はぐちゃぐちゃだった。
いつもと違う感情。そして、自分だけが動揺しているような悔しさ。
月曜日、あたしはどんな顔をして彼の隣に座ればいいの?
あたしたちの「いつも通り」が、ガラガラと音を立てて崩れていく予感がした。
第1話をお読みいただきありがとうございました!
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【次回予告】
第2話「ポーカーフェイスの裏側」
月曜日のオフィス。何事もなかったかのように振る舞う行人に、夏美のイライラは最高潮! そんな中、周囲から「二人の怪しい関係」を疑う声が上がり……?




