分岐
数日経った寝苦しい夜。スラムに灯るランタンの下、愛は医療バラックの奥で記録ノートを見ていた。
一日で診た子どもは三十八人。うち、高熱が続く子が十三人。呼吸器症状のある子が五人。薬が足りない。支援団体は次々と撤退。あの記事の影響は想像以上だった。
そんなとき、外から差し入れの箱を持った三崎が現れた。
果物、常備薬、そして新品の包帯やマスクが入っていた。
「本当は許可が必要なんだけどね、輸入品だから。でも、今は緊急事態だから」
さりげなく言った言葉が、あまりに現実的で、頼もしかった。
“やれることをやってくれている”。ただそれだけで、十分だった。
「ありがとうございます……本当に」
「感謝なんていりません、あなたを支えることはこの国の未来を支えることですから」
その言葉に、愛は一瞬、目を伏せた。
慎吾が口にしたことのない、ストレートな感情表現。でも、押しつけがましくはなかった。不思議と、温度があった。
その日以降、三崎は毎日のように来た。時に通訳を連れて、地元役人に掛け合い、時に現地スタッフの不満を聞き取り、調整を買って出た。
「慎吾くんが悪いわけじゃない。でも、彼は“夢”にいる。君は“ ここ”にいる」
三崎のその言葉が、胸に刺さった。慎吾は何も悪くない。ただ、助けられなかった。言葉で、現実で、愛を。
そんなある日、愛が高熱を出して倒れた。スラムの過酷な気候と重労働。無理がきていた。三崎は黙って氷水と薬を用意し、ずっとそばにいた。
「全部を背負うの違いますよ」
彼の声は、誰よりも冷静で、誰よりも優しかった。その夜、愛は熱に浮かされながら、自分の手が三崎の手を握っていることに気づいた。
拒まなかった。
むしろ、その手の温度に、涙が出た。
「……ごめんなさい。私、あなたを……」
言葉の続きはなかった。でも三崎は、愛の頬を一つ、ゆっくりと撫でた。
「たまには看病される側でもいいでしょう?」
それは、恋に落ちる音だった。愛がそれを「恋」と認めたのは、数日後だった。
慎吾と会っても、どこかぎこちなくなる自分に気づいていた。会話が浅くなる。目を見られない。自分が悪いのか? 三崎のせいか? わからなかった。
でも確かに――愛の心は、救いの手を差し伸べてくれた三崎に、少しずつ傾いていた。
(私は……あの夜、手を握ったときに、もう戻れなくなってたんや)
その気づきは、後悔ではなかった。むしろ、どうしようもない現実のなかで、「誰かに救われたい」と思った、ただの一人の女の本音だった。




