選択
住之江の古びた埠頭、神谷才は、遠くを見つめながらタバコを吹かしていた。錆びた雨どいの音と、電車の通過音だけが夜を引き裂く。黙ってスピンの小袋を見つめていた。
そのときだった。
「おい」
才がビクリと反応する。
(とうとう、見つかった……)
心臓の鼓動が速くなる。才は音を立てないようにゆっくりと振り返った。
――そこに立っていたのは、数年ぶりに見る、御影アキラだった。
タバコの煙の向こう、かつての総長は、少しやつれて見えた。だが、目だけは変わっていなかった。その目を見て、才の脳裏に遠い昔の記憶がよぎった。
***
住之江の団地は古く、壁のコンクリはくすんだ灰色をしていた。
その四階、402号室。そこが、施設の次の才の“家”だった。
幼い頃は、三崎邦親がときどき訪れていた。高級車でやってきては、ポケットから菓子を出し、母と少し言葉を交わすと、また夜の街へ帰っていく。
才にとってその姿はヒーローそのものだった。
あの頃の母はまだ笑っていた。
「いつかあの人が私たちを迎えに来てくれる」とよく言っていた。けれど、三崎の足は次第に遠のいていく。
才が中学に上がるころには、もう年に一度も来なくなった。代わりに送られてくるのは、少しばかりの現金と、無言の「終わり」の気配だった。
母は壊れていった。
初めは、ただ眠れない夜が増えただけだった。次に、不眠をまぎらわすための酒が始まり、そしてやがて、心療内科で処方された薬と、安酒とがセットになる。
泣いたり、笑ったり、怒鳴ったり。才には理解できなかった。
母の目は日に日に焦点を失い、生活は荒れ、団地の部屋はゴミで溢れ、昼間でもカーテンは閉められ、まるで棺桶のような部屋になった。
才は不良ではなかった。学校にも通っていた。けれど、友達はいなかった。
制服は汚れ、給食費も忘れられ、
「何かあったら先生に言ってね」と形式的に声をかけてくる教師。
家に帰れば、母はベッドで寝たきりになり、廊下には倒れたビール缶と眠剤が散らばっていた。母のすすり泣きを聞くのが嫌で耳を塞ぎテレビの音量をあげる。
その日も家にいたくなくて夜の団地を抜け出した。行くあてもなく、ただ“息ができる場所”を求めて歩いた。そしてたどり着いたのが、住之江の古びた埠頭近くの空き地だった。電灯の切れた公園のベンチ、遠くで吹かれるバイクの音。誰にも話しかけられず、誰の視界にも入らない場所。
そこで出会ったのが、御影アキラだった。
アキラはスカジャンを羽織り、缶コーヒーを飲んでいた。その目は眠っているようで、どこか醒めていた。
不良のようで不良ではなく、ただ“自由”を身に纏っているように見えた。
「おう、坊主。ええ夜やな」
才は最初、無視をした。けど、足を止めた。
「お前、こんな時間になんしてんねん。ここらのやつか?……なんや? 死にたいって顔に書いてんぞ」
アキラの声を聞くとなぜか落ち着いた。
「……まぁ、別に話さんでもええけどな」
それだけ言って、アキラは空を見上げた。煙草の煙が風に流れ、彼の声が夜に溶けた。
「俺も、なんか疲れた時にここに来るんや。しがらみだらけの自分の街をでて、たまに外から見たくなる。でもな、誰にも気づかれんようになったら、逆に怖なんねん」
そう言ってアキラは優しく笑った。才の心が、ふっと反応した。
「お前、ええ目してるやん。歪んでへん。まだギリ、間に合うで」
それが何を意味するのか、才には分からなかった。ただ、アキラの言葉はどこか“あたたかかった”。その日は取り止めないことをアキラと朝まで話した。
あの空き地の男が「闇天狗の総長」だと知ったのは、それからすぐのことだった。
御影アキラ。西成の不良たちを束ねる伝説の男。信じられなかった。
あの夜、ただ隣に座ってくれた、あの人が――。
けれど、どこか納得している自分もいた。あのまなざし。あの静かな声。アキラは、ほんまに「生き残ってきた」人間の目をしてた。
家に帰ると、母がまた同じテレビをつけっぱなしにしていた。無表情で缶ビールをあおって、同じ話を繰り返す。
「パパはあんたのこと可愛いって言うてたんやで」
「パパは忙しい人なんや。きっと疲れてるんや、だから待っといてあげなあかんねんで」
笑いながら泣いている顔が、何度も頭に焼きついた。そして、自分を施設から救いあげてくれた三崎の顔もよく思い出せなくなっていた自分に気づいた。
もう限界やった。
冷蔵庫の中には、腐った弁当とアルミホイルにくるまれた残飯があった。
自分がこの家にいる意味が、わからんかった。何も信じられなくなった。
才はその夜、荷物も持たずに家を出た。三崎の愛人の子として生まれて、母と二人で生きてきて、最終的にはその母さえ、壊れていった。
もう、誰にも期待したくなかった。
向かったのは、西成だった。
空き地でアキラと出会ったあの夜が、ずっと胸から離れなかった。
何もない人生の中で、あのときだけは、自分の存在が“誰かのまなざしに引っかかった”気がした。――だから、西成に行った。何もあてなんてなかった。ただ、あの男がいた場所に、いきたかった。
アキラはいた。
そして、迎えてくれた。
「おまえ、生きてとったんやな」
アキラは笑って、才の肩を叩いた。
「俺ら、同じ痛みを持った兄弟やねん」
アキラの周りにいる漢たちは皆んな笑ってた。その言葉に、才は泣いた。声も出せず、ただ肩を震わせて泣いた。あの空き地での偶然の出会いが――やっと、自分を救ってくれる縁になった気がした。誰にも繋がれていなかった自分が、ここでようやく誰かと繋がれた気がした。
才は、アキラを心底、信じた。父でも兄でもない。けれど、自分を拾ってくれた、唯一の人。
その信頼は、やがて――裏切られることになる。
潮の匂いを孕んだ風が容赦なく二人の頬を刺した。足元では波が鈍く鉄骨を叩いている。
「……どうやってここがわかってん」
夜風がわずかに流れ、タバコの火が揺れる。才の声は低く、しかし震えていた。
「こう見えても、街では顔広かったんや」
苦笑いを浮かべながら、アキラはポケットから缶コーヒーを取り出して開けた。
シュッという音が、場に妙な間をつくった。
「……友介か」
視線を逸らしながら、才は唇の端で名前を漏らす。
「あいつと関わっとる元・闇天狗のやつからや」
「……ちっ」
舌打ちが、苛立ちと焦りを隠しきれず漏れた。
「お前のこと、相当慕っとるみたいやで。そいつ」
才は黙ったまま、スピンの小袋を弄ぶ。白い粉が、まるで逃げ場のない現実の象徴のように、そこにある。
アキラの目が鋭くなった。
「猛をやったんか?」
静寂を纏い才は動かない。目も合わせない。
「なんでや、才。なんでそんなこと。お前ら、何があってん」
才がゆっくりと顔を上げる。表情は怒りと悔しさが入り混じり、もうかつての少年の面影はなかった。
「……やかましいんじゃ」
声が震えているのは、怒りか、それとも別の何かか。
「今さら何しにきたんじゃ! お前が壊したんやろが。信頼も……仲間も、居場所も……全部!」
才の声が埠頭に響いた。夜の静寂が裂けた。
アキラは言葉を失い、視線を才の手元へと落とす。スピン。それが何かを、彼はわかっていた。
「……お前、それでどうするつもりやねん」
言葉は静かだったが、確実に刺すような鋭さがあった。
「やかましい言うてるやろが……今さら、何をガタガタ……! お前に説教される筋合いなんか、あらへんわ!」
怒鳴りながらも、才の指先はわずかに震えていた。
ふと、アキラがかつての夜と同じ声色で言った。
「……お前の目。まだ歪んでへん。ギリ、間に合うで」
その瞬間、才の目に光が揺れた。
だが、すぐにかき消される。
「……戻られへん。何を甘いこと言うとるんや。俺は猛を、人を……殺しとるんやぞ」
一瞬、風の音だけが聞こえた。
「あんたには、力がなかったんや! 守れへんかったやろ。仲間も、家族も、全部」
声が、少しずつ感情に乗っていく。
「……せやな。お前の言う通りや。俺には、力がなかった」
アキラはまっすぐ才を見た。
「だから守れんかった。仲間も、お前も。だから……もう放っとかれへん」
才は眉をひそめ、歯を食いしばる。
その目には怒りと、そして、深い哀しみが混じっていた。
「笑わせんなや……!」
才が吐き捨てるように言った。
「 “守れんかった”やと? ちゃうやろ! お前は逃げたんや。俺らを捨てたんや!」
拳を握りしめる才。足元のアスファルトに、ポタリとスピンの袋が落ちた。
「俺はあれから必死に親父に自分の価値を証明した。俺は……俺は……力を持つんや。裏切られんために。誰にも奪われんように」
才は睨みつけるようにアキラを見据える。
「もう、信じへん。俺は突き進むだけや」
アキラの表情が強張った。何かを言いかけて、やめる。
夜の住之江に、再び静寂が戻った。波打ち際に転がるスピンの袋だけが、風に揺れていた。
二人の間には、もはや言葉すら届かないほどの距離があった。




