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Virtue and Vice  作者:
第四章 最後の戦い
20/22

4-4

 優愛の存在は綺麗さっぱり消えた。隣に彼女はいない。ふらっと現れて、明るく挨拶をしてきそうなものなのに、存在しない。

 それは世界に傷を付ける行為に思える。ただ、すぐに傷口が塞がるような些細なものである。世界などという途方もなく大きなものを相手にしている。

 パラレルワールドならば彼女がいない世界に来てしまったということか。そう思っても、彼女が一緒にいるような気がするのはなぜか。彼女が生きている世界の存在を感じるわけでもない。

 いずれはこの日常に溶けていくのだと思っても、しっくり来ない。

 なぜだか結人は苛立っていた。些細なことにさえ憤ってどうしようもなくなりそうになるのを何度もやり過ごした。希織に会いたいのに会えない。

 居場所はわかっていても押し掛ける勇気もない。希織に嫌われたくないと思えば我ながら女々しいものだと自嘲の笑みが零れる。

 彼女と出会って何もかもが変わった気がするのだ。今も尚何かが変わろうとしている。自分の中に蠢く気配を感じている。

 明日になれば全て忘れているのではないか、そう思えば眠るのが怖くもなる。それでも、やがては眠りに落ちるものだ。


 結人は早々に目が覚めた。寝たという感覚がないのだ。時計を見ようとして体の重さと頭痛に襲われる。どこか気分が悪い。

 風邪でも引いたかと思ってみるものの、頭を揺すぶられている。その感覚には覚えがあった。

 ふと、異様な気配に気付く。白い何かが乗っている。蠢くそれは光や靄と言うには質量がある。次第に形を成していく。

 女の裸体を思わせるその白は何なのか。しなだれかかってくるそれを受け入れてしまいそうになる。それだけで恍惚とした甘い痺れが全身を駆け巡るのだ。

 このまま身を任せてしまえば、欲に溺れてしまえば、とても気持ちがいいに違いない。至上の快楽そのものに思えた。

 頬に伸ばされるのはたおやかな手だ。いつぞやの莉愛を思わせながら、少し小さい。灯りのない闇の中、発光するそれは冷たい。

 完全な人の形となり、顔まではっきりすると言葉が出なくなった。光り輝くのは希織だ。見たこともない希織の生まれたままの姿がそこにある。完全なるファンタジーだ。

 抱き締めて眠ったこともあるが、あの時、下心はなかった。振り返れば兄のような気分だった。けれど、今はどうしようもなく情欲を刺激されている。彼女がほしいとどこかで訴えている。

「結人君」

 聞いたこともない甘美な声が誘いかけてくる。潤んだ目が見下ろしている。優しく微笑んでいる。それは許可だった。

 手を伸ばせば触れられる。彼女を自分のモノに、自分だけのモノにできる。生唾を飲み込んで、そろそろと手を伸ばす。

「そう。私をあなたのものにして。あなただけのもの」

 希織が笑う。ニィッと口角を吊り上げて、目を細めて。

「違う!」

 叫んで結人は希織の姿をした得体の知れないそれを突き飛ばしていた。

 こんなものは希織ではない。希織はそんなことを言わない。希織はあんな風に笑わない。

「結人君、どうして?」

 床の上で悲しげに瞳を揺らして、彼女は首を傾げる。苛立って結人は蹴り飛ばす。罪悪感などなかった。

「ひどいことしないで、結人君」

 尚もそれは希織であろうとするが、全く別物でしかない。

「お前は希織ちゃんじゃない!」

 彼女であるはずがないのだ。希織の姿をした白い女はひどく邪悪なもののようだ。似ても似つかない。

「ふふっ……」

 笑い声はやけに耳に貼り付く。希織ではありえない笑い方だ。そして、霧散して暗闇が戻ってくる。

 倦怠感に襲われて結人はぜーぜーと荒く浅い呼吸をしながらベッドに座り込む。

 結局、何であるかは不明だ。幽霊ではないとわかっても、夢でもない。どこかあの怪人のようでもあった。どちらにしても理解が及ぶものではない。

 希織の姿で惑わそうとしてきた。精神的に犯されるどころか今度は肉体的に犯されていたかもしれない。結人も年頃の少年ではあるが、あんなことは望んでいない。ラッキーだなどとは思わない。だから、拒んだのだ。

 いや、一瞬でも触れようとしたのは事実だ。あんな風に笑わなければ溺れていたかもしれない。

 すると急に自分がひどく汚らわしいものに思えて、結人は襲い来る吐き気に口を押さえる。彼女に劣情を催した自分が許せなかった。

 脳髄をドロドロに溶かされてただのケダモノに成り下がってしまいそうだった自分が怖い。大げさなようで、確かに自分が変わってしまいそうなのを感じている。

 彼女のことは好きだが、今は守りたいという気持ちしかない。彼女には死んでほしくない。

 優愛は怒りの感情に取り付かれ、公平を求めた。悪意にさらされていたとは言っても、優愛は確かに希織を疎んでいたのだ。

 無い物ねだりはやめられないとは言っても、希織は優愛にないものを持っている。反対もまた然りだ。希織は優愛のようになれないことを諦めるタイプだが、優愛は諦めが悪い。何でも欲しがる。何もかも手に入れなければ気が済まない。

 全てが魔女としての彼女とは言えない。元々の性質というものがある。

 派手好きはついているものの影響だと希織は言ったが、彼女も優愛の全てをわかってはいないと言える。姉の影響もあるだろう。それもきっと本来のものだ。

 希織もまた真実からは遠いのかもしれない。彼女にもわかっていないこともあり、先輩達の言うことを信じてきただけだろう。

 あれが優愛の本性だとしたら希織には辛いだろう。悪意のせいにしてしまった方がいい。いや、彼女はわかっているだろう。綺麗なだけの心はありえない。

 そこまで考えてから改めて時計を確認すれば、一時間ほどしか眠れていなかった。悶々としてやっと眠れたのに、こんなことがあって、また眠りに落ちるのは恐ろしい。


 ひたすら悶々と思いつくがままに考察して、よく眠れるはずもなかった。何かを考えていなければよからぬモノに取り入られてしまいそうだったのだ。あんなものに再び体を許すと考えれば怖気立つ。治まった吐き気がぶり返す。

 朝は曇天、重々しい空は結人の心をそのまま現しているかのようでもあった。とにかく気分が悪い。どうしたらいいかわからなくて辛い。

 駅を出てももう怪人が現れることはないのだと思っていた。あれは異常なことで、優愛の死でなくなるならばいいのではないかと思い始める。希織が死にながら生きていたように、彼女は生きながら死んでいた。

 ロータリーに彼女は立っていた。彼女も気付いて手招きする。

「玻璃さん?」

 なぜ、彼女がここにいるのか。待ち伏せされているのか。

「ちょっと時間くらいあるわよね?」

 ないとは言えない雰囲気だった。多少の余裕もある。

「学校までお姉さんが話し相手になるわ」

 そう言って彼女は結人の隣に並んで歩き出す。玻璃もなかなかの美人だ。変な噂になるのは避けたいが、どうせ、彼女の存在も薄いのだ。

「夢魔が出たと思うけど」

 唐突に玻璃は言った。

「夢魔?」

 耳慣れない言葉を繰り返して結人は首を傾げる。

「夢に出る悪魔」

「あれは夢なんかじゃあ……」

 思わず言ってからはっとした。玻璃は確信に満ちた表情をしている。

「時間もないし、遠回しに言っても仕方がない」

 悪いことだと直感している。

「単刀直入に言う。正木結人、君は大平優愛の後釜になる」

 自分が、まかさ、と思う一方で納得もしていた。

「どこかでは、やっぱりと思ってるんじゃない?」

 玻璃は見透かして笑う。

「君は死に際の彼女に罪を押しつけられたのね」

 罪、記憶にないと振り返って結人は手で口を押さえていた。

「心当たりはあるようね。キスでもされた?」

 玻璃は何でもわかっているのではないか。そう思うと怖くもなる。

 まさかあんなキスで、そんなことあってたまるかと結人は憤る。

「図星? 全く積極的なお嬢さんだこと。希織も少しは見習った方がいいと思うけどね」

 宥めるように玻璃は肩をポンポンと叩いてくる。

「接触したらそれだけ支配しやすいものよ。元々、種は植え付けられて今にも芽吹こうとしていたわけだし」

「どうすればいいか、なんて聞いても無駄ですよね」

「夢魔に抗えばまだ留まっていられる。元々、君の激情から生まれたものでないだけにまだ抵抗できる余地がある」

 それは純粋に結人の罪ではない。自らの激情を制御できなくなって梨愛や優愛はあんな風になってしまった。

「でも、長くは保たない」

 余命宣告のように玻璃の言葉が結人の胸に突き刺さる。

「だって、君の心には濁りがある。奴らにとって居心地のいい汚い水と腐った土壌、やがて全てそうなる」

 綺麗なだけの心なんてありえないと希織は言った。彼女にも汚れた心を見られていただろうか。

「救う方法があるとは言わない。私が決めることでなく、希織が決めることだから」

 何の犠牲もなく終わることはできないと言われているようなものである。

「悲観しないことだ。なるようにしかならない」

 破滅しかないとわかっていて、楽観できるものか。自分はそこまで脳天気な生き物ではないと言いたくもなるが、無駄なことだ。

 なるようにしかならない、それが現実でしかないだろう。

「悪魔に魂も肉体も捧げてしまったら死ぬ。そして、誰かを道連れにする」

 玻璃がそうされたように、伊万里や謙、希織がそうだったように。

 そうはなりたくない、なってはいけないということはわかっている。だが、自分の中で荒れ狂おうとする存在を感じる。御しきれなくなるのは時間の問題だろう。

「種は撒き散らされて芽吹く時を待ってる。新たな主を待ちわびてる。君はそれを咲かせることだってできてしまう」

 蒔かれた種は魔女がいなくなっても消えない。自分が新たに蒔くことだってできる。そこからシモベを作り出せる。悪魔に自分を売り渡せば誰かの命を代償にそういう力を得られる。

 そうしたくはない。そんなことを望んでいるわけではないのに、拒絶しても意味がない。抵抗も虚しく時が経てばそうなるとわかっている。

「何が正しいかは君が決めること」

 彼女にとって正解とは何なのだろうか。彼女の正義はどこにあるのだろうか。

「あなたは希織ちゃんにも本当のことを言ってないでしょう?」

「答えはいつだって自分で見付けるもの。でも、これでも私はあの子を甘やかしているし、期待しているのよ」

 優愛を倒した今、彼女は尚希織に何を期待するというのか。一体、何をさせようとしているのか。

「あなたは残酷だ」

「長引けば心が冷え切っていくものよ」

 非情でなければ彼女はもう世から消えていた存在かもしれない。

「あなた方の言う魔法って何ですか?」

「誰も救わない幸せにしない、イカレた正義を振り翳す魔女共を倒すためだけの対の力に適当な名前を与えただけに過ぎない。何でもできるようなお幸せなものじゃない」

 それだけ言って玻璃は去って行ってしまった。彼女は救ってくれない。わかっていても突き放されれば辛くもなる。何かを知っていながら教えてくれないのだから恨めしくもなる。


 自分は魔女側に堕ちた。今、正に堕ちようというところで踏み留まれているのか。自覚したところで、ただ憂鬱になるばかりだ。

 理不尽だ、不条理だと憤ってもぶつける相手はもうこの世に存在しない。出会うはずのなかった過去に死んでいるのだから馬鹿馬鹿しいものだ。

 しかし、こうなって初めてわかったこともある。希織が汚らわしいと言っていた意味だ。あれに身を委ねるのはおぞましい。あんなものと交わっていたのなら、売女と言われても、どんな誹りを受けても仕方ないだろう。

 けれど、結人は男だ。魔女でなければ何なのか、悪魔かと考えて頭を振る。魔法使いと言うのはおこがましい。

 いずれは醜い姿に変わるのか。それとも優愛のように白と赤の服を着るのか。魔法少年を自称するなど冗談ではない。絶対に流行るはずがない。

 わからないまま、ただざわつく心を抑え続けた。ただ希織に会えば少しは心も救われる気がして、連絡を待っても返ってこない。何度も携帯電話を確認しては落胆して、それから憤る。

 彼女が今何をしているかわからない。彼女のように空を飛ぶことはできない。彼女の元に行くことはできない。

「俺は彼女の何なんだ。何になりたいんだ」

 自問して答えが出るはずもなかった。恋人でもないのに、彼女を独占しようとしているのが、あまりにも滑稽だ。自分の中に潜むものがそうさせているのか。

 もしも、このまま自分が壊れてしまうのなら、彼女に壊されたいのかもしれない。だが、本当は助けてほしいのだ。

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