4-5
放課後、未だ連絡がないことに不安を覚える。いつしか雨が降り出していた。
誰が泣いているのだろう。そんなことを考えながら荷物をまとめ、教室を出る。いつかのように、どこかで会うこともあるかもしれない。
靴を履いて出て、結人は違和感に気付く。誰もいない。
ざわざわとする。彼女がいる。そう認識して全身が喜びと怒りで震える。傘を差して、外に出る。切り離された世界でも雨は降っている。
校門に寄りかかるようにして、雨に打たれている。ここまで傘も差さずに来たのだろうか。たとえ、彼女が濡れながら歩いていても気付く者もいないのかもしれない。
「駄目だよ、希織ちゃん、風邪引いちゃうよ」
傘を差し掛けても希織は俯いたままだ。泣いているのか、ただの雨か。頬を滴が伝う。
彼女は制服姿ではない。最初の頃のように寒そうなコルセット姿で、けれど震えてはいない。胸元には彼女の魂の在処が輝いている。手を伸ばせば壊せる。そんな邪念が生まれて、自らの手で腕を抑えつける。
こんな雨の中でも彼女の炎の剣は燃えている。
「希織ちゃん」
もう一度呼びかければゆっくりと顔が上がる。心なしか赤い目が見上げてくる。
「嘘吐き」
小さく唇が動く。二人きりの世界でさえかき消されてしまいそうな声だった。
「優愛に何もされてないなんて嘘」
視線に責められている。けれど、結人は彼女の恋人ではない。嘘だって吐く。そうなりたいと思ったからこそ隠した。それについて責められる理由がないと感じている。
「君だってわかってたんだろう?」
玻璃から聞いたのかもしれないが、あの時、既にわかっていたと思うのだ。罪がうつされたことを感じていたのではないか。
「大体、君が俺に何を話したって言うんだ」
不満は口をついて出る。自分の中で炎が燃えている感覚だ。苛立ち始めている。
部外者に全てを話す筋合いなどないと理解していたはずなのに、彼女もまた自分の置かれている状況の全てを把握しているわけではない。玻璃だけが全てを知っている。
わかっているはずなのに、彼女を傷付ける言葉ばかりを吐き出してしまう。
「ごめんなさい」
希織が俯く。彼女が悪いわけではない。
「違う、違うんだ。本当はわかってる。でも……」
どうにもできない。自分で自分が制御できない状態に陥ろうとしている。
「落ち着いて。怒らないで」
希織に宥められて、我を忘れるほど怒れば即ち死ぬことを悟る。それは怒りを糧として求めている。
「俺はもう怒ることもできないのかよ……!」
長く保たないわけだ。
「嫌だよ、こんなの」
耐えられるはずがない。楽になりたい。助けてほしいと願う。それは誰に、か。神か希織か。
「俺の罪だけを浄化することはできないの?」
自分はまだ自分であって、押し付けられた罪さえ消えれば良いのではないかと思うわけだ。
「まだ夢魔と交わってもいない。まだ誰も堕としていない。結人君自身は罪を犯していない。でも、この炎に耐えられる?」
炎の剣が首筋に宛がわれて、結人は飛び退く。傘を投げ捨てて、雨に濡れることなど、もうどうでも良かった。
「……っ!」
急に襲ってきた胸の痛みに蹲り、手を当てれば何か別の生き物が住んでいるようにさえ思える。
「暴れているのよ。滅ぼされたくないって。君を支配してしまえば力を得られるから」
自分を見下ろす希織が今の結人には強大な存在に見えた。いつでも斬れるように彼女は剣を手放せないのかもしれない。
器を欲しているのはひしひしと感じているのだ。
「俺は誰を堕とすの?」
「私がいる。それに君の罪は優愛から引き継いだもの。条件が違ってくる」
対であることに意味があるのだ。優愛の対は希織だった。
「いっそ俺が死ねば」
「それは体を明け渡すだけ」
「俺ごと焼き尽くすとか」
希織の炎なら、肉体も魂も消滅させられても不思議ではない。しかし、彼女は首を横に振る。
「そうしたら、私は魔女になる」
「そ、そんなルールまであるんだ」
「罪を犯したら魔女と同じだもの」
「ああ、そうか……」
魔女とは罪人のことだった。激情で人を死に至らしめた人殺しでしかなく、得体の知れない力が作用しているだけにすぎない。
「でも、私が魔女になっても玻璃がトドメを刺してくれるから」
それでも構わないと言わんばかりの希織に結人は焦りを覚える。
力に飲まれるなと玻璃は彼女に警告してきた。世界を飲み込む紅蓮と称された彼女は恐るべき早さで進化してきたが、強大な力に振り回されがちなのは否めない。そのまま魔女になれば危険な存在になるだろう。
希織が決めることだと玻璃は言った。それだけは選んではいけないに違いない。選ばせてはいけない。
「だ、ダメだよ、そんなの!」
自分のために罪を犯すなどということはあってはならない。彼女に罪を犯させようとするのなら、それはきっと胸に宿る罪がさせることだろう。
「君は生きなきゃいけない。絶対に生きなきゃいけないんだ」
彼女が生きることが結人の望みだったのだ。それなのに、やっと掴んだ希望を投げ捨てることなど、あってはならない。
「その罪がある限り私は戻れない」
希織は弱々しく頭を振る。震える細い指が示すのは結人の胸だ。やはり、ここに何かがいると思えば絶望的な気分になる。
「それに私のせいだと思うから」
責任を感じているのだろうが、違うと結人は思う。優愛や莉愛との繋がりがあったから希織と出会ったのだ。
いや、もうぐずぐずしている暇はないのだ。覚悟を決めて、結人は息を吐く。立ち上がり、希織を見つめる。
「好きだよ、希織ちゃん」
あれほど躊躇った感情をぶつけるのは嫌われて苦しむ明日が存在しないと察しているからだ。こうしていられる時間も無限ではない。
「な、何を……」
明らかに動揺している希織が可愛らしく思えて笑みが零れる。そんな顔も見られるなら悪くはない。
「きっと、これが最後になると思って。だから、後悔しないように言っておこうと思ったんだけど」
これは遺言でもある。悔いさえなければ耐えられる気がした。未練など捨ててしまえばいい。いや、捨てなければならないのだ。
「君が好きだよ。いつからか、何でかなんて自分でもよくわからない。一目惚れかな? まあ、理屈じゃないよね」
小さくて可愛いものを愛でたいのが性かもしれない。彼女の強いようで脆い部分を見てしまったから庇護欲を掻き立てられるのかもしれない。
「守りたいと思ってた。支えになってあげたかった。俺じゃあ力不足だってわかってたのに、君といたかった」
彼女がいつも儚げだから自分にそんな力もないのに幸せにしてあげたい、笑わせたいと願った。終わるまで彼女の心が解放されることはないと、魂を取り戻したあとの彼女の幸福に自分が立ち会うこともないとわかっていた。
狭いようで、やはり途方もなく広い世界にそう何度も偶然も奇跡も起こらない。
「だから、耐えてみせる。君が好きだから」
希織は何を言わずに結人を見つめている。真実を探ろうとしているのか。
気持ちに偽りはないと胸を張って言えるし、返事を強要するわけでもない。
キスをしたいとは思っても、優愛に触れられた唇では彼女を汚してしまいそうで嫌だった。これで最後、互いに忘れるとは思っても、彼女の気持ちを無視するようなことはできなかった。
「さあ、広い場所に行こうか。君が思いっきり燃やせるように。グラウンドのど真ん中ででも派手にやっちゃってよ。最後は豪快にさ」
笑ったところで、希織がつられて笑ってくれることもなかった。
グラウンドの中心で希織は何も言わない。剣を手にしたまま俯いている。
だから、結人はぼんやりと意識を飛ばす。どうして、こんなことになってしまったのか。こんな形で彼女向かい合いたくなかったのに。結局、自分の存在とは何だったのか。こうなるために生まれてきたわけではないはずだ。
そう思えば、体が熱くなって、また自分の中の怪物が元気になるのがわかる。だから、深呼吸して落ち着かせようとするのだ。もう終わらせなければならない。
「その魔法でみんなを救ってあげて、なんて変だね。君は戻るのに、なぜだか君は誰かを救える魔法使いになれると思うんだ」
これまで彼女は魔法使いらしい魔法使いではなかった。少なくとも、結人の中のイメージとは違っていた。これは可愛らしいおとぎ話ではありえない。
けれど、彼女は幸せな結末を迎えるお姫様でもあってほしい。最後の願い、それさえ叶うなら他に望みなどない。
「少しの間、後始末をしなきゃいけないから」
優愛達の残した爪痕は深いか、玻璃のように狭間の世界に留まるのだろう。種を焼き尽くせば、皆は救われるのか。
悪意は尽きないのに、人間が皆汚れのない心のままで生きていけるはずもないのに、終わるのか。それこそ、戦いは永遠に続くようにも思える。これが人の心から生まれた化け物なら、際限なく生まれるのではないか。
古来より鬼や妖怪と言われるものがいる。空想上の生き物と言い切るには、そうと思えなくもないというのが結人の感想だ。宇宙人などというよりもよほど理解できる。
「いいよ、やって」
このままではいつまでも希織が躊躇う気がした。それこそタイムリミットまで粘るかもしれない。彼女は優しすぎる。
だから、結人は彼女が持つ剣の刀身を握って自分の胸へと向けるのだ。雨は激しさを増したが、炎の強さもまた然りだ。それだけが使命を知るように。希織を突き動かそうとするように。
炎は意思を持つ生き物のように結人に燃え移る。
「うぐっ……」
感じる痛みや熱さは外からではない。
自分の内で、暴れ回っているのがわかる。逃げ場を求めても出て行くことができないのだろう。だから、結人を支配しようとする。炎はそれを許さないように強さを増す。
中と外で荒れ狂うものに必死に耐えようと希織を思い浮かべる。狂炎の中で目を開けることも構わないから瞼の裏に彼女を見る。
愛があればなどと言えば安っぽいが、彼女のために何でもしてあげたかったからこそ、これもまた運命なのだ。
「ぐぅっあぁっ……」
いよいよ抵抗が強まって抑えきれないのではないかと感じ始める。
圧倒的な炎をもって一瞬で焼き切ってほしいのに、彼女の姿は変わらなかった。炎のドラゴンが出てくるわけでもない。迷いなど断ち切って容赦なく断罪してほしいのに。
「結人君」
希織の声はクリアに、すぐ近くで聞こえた気がして目を開ける。希織が自分に抱きついている。
「希織ちゃん……?」
「大丈夫。私が一緒に抑えるから」
迷いのない目で希織が見上げてくる。安心させるように微笑む。
「ダメだよ、君は生きなきゃ!」
幻覚ではないかと思っても、しがみつく力は強く離れてくれそうにない。引き剥がそうとすれば怪物に全てを明け渡してしまいそうになる。
「君が生きることが俺の望みなのに」
このまま、謙のように希織も生を放棄する気だと気付いてしまった。そんなことを望んだわけではない。それでは、自分が彼女のいない世界で何もかも忘れてのうのうと生きることになる。たとえ、何も覚えていないのだとしても、今後悔したくはない。
「私も……」
希織の言葉は遮られた。パンパン、とその音は不意に響いた。炎が弱まって消える。結人が希織を見ても自分ではないと戸惑った表情で首を振る。だが、彼女はすぐに気付いたようだ。
「玻璃……?」
振り返る先にいた。二人っきりだった世界に黒い影が立っている。雨が止んでいる。
「二人で文字通り燃え上がってたところ悪いけど……希織、約束を忘れた?」
「約束って?」
結人が希織を見ても彼女は目を伏せる。
「希織が言い出したことよ。私の代わりになるって」
「えっ?」
「希織は言ったのよ。私を解放して自分が監視者になるって」
つまり、彼女は後始末で少しどころか、ずっと狭間に留まって玻璃の後任を務める気がったということか。その約束を違えようとしたから玻璃が邪魔をしにきたのか。
「まあ、どう考えても向かないわよね」
玻璃だからこそできたことだろう。希織は優しすぎるが、玻璃は冷酷にもなれる。
「希織は私が今まで出会ってきた中で一番メンタルが弱い。最初だって、伊万里が支えなきゃどうにもならなかったわけだし」
結人と出会うまで希織は伊万里といた。二人はどんな関係にもなれるような無敵さを感じさせた。
「彼がいなくなって、一人で大丈夫なの?」
明らかに自分を指しているとわかって結人は真意を問うように玻璃を見る。しかし、彼女は希織を見ている。
「最近の急激な成長は彼がいたからありえたこと。彼の存在を感じてこそ力を発揮できた。わかってるでしょ?」
結人も半ば無理矢理希織に白状させて、そんなことも聞いたものだ。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。私はまだ大丈夫だもの。本当はこの座を明け渡す気なんてなかったから」
希織には無理だったという話だ。だから、彼女は日常に戻れるのだろうか。
「だから、幸せになるのよ、希織」
優しく玻璃は笑む。希織はきょとんとして、結人も説明がほしかったが、玻璃は続ける。
「真実の愛は裏切らない。大丈夫。愛の結びつきは強いものよ、きっとね」
なぜだか希織は耳まで真っ赤にしている。
「えーっと……何のことだかさっぱり」
「私達には他にも救いがなくもないってこと。見付けたものにしか得られない究極の救済」
玻璃は最後まで親切に教えてくれるつもりはないのか。
「おめでとう。真実の愛を見付けたのは希織が初めてだわ」
「真実の愛?」
先ほどから言うそれは何だろうか。結人は首を傾げる。
「愛が勝つとか全てを救うとか、安っぽくて好きじゃなかったけど、案外いいものね」
「いや、あの、何なんですか」
「それは、お・た・の・し・み、なんてね。私らしくなくて笑えるわ。でも、大丈夫。全てから解き放たれて、でも、また必ず出会える。引き寄せられる。そうしたら今度は必ず幸せになるのよ」
だから、何なのか。それを問うことを彼女は許してくれそうにない。
「二人に祝福を、救済を!」
玻璃が右手を高く掲げて言うや否や光が溢れて彼女の姿は見えなくなった。光の奔流の中で怪物は消え、自分が浄化されているのを感じる。それどころか、この光に溶けてしまいそうだ。
ふと見れば驚いた顔をしている希織がいる。彼女が流されてしまいそうで手を握れば嬉しそうに笑顔を見せる。それが可愛らしいから離れたくなくて、放したくなくてより強く抱き寄せる。
彼女の唇が動くが、音は聞こえない。けれど、心の奥底に伝わった気がした。
そうして、何もかもが白く飲み込まれていった。




