1話
三月中頃の早朝。
犬塚満景は目を覚ました。
その目に映るのは、小学生の頃から親に住むことを命じられた、明治の初期から倉庫として使っているという古びた納屋の天井。
春に差し掛かる時期ではあるものの、早朝はまだ寒い。
納屋の隙間風が、納屋の荷物を下敷きにして作った寝床の温かさを奪っていく。
満景は、その寒さに対抗するために、同じ布団で寝ているペットの二匹を抱き寄せる。
ペットは、茶トラの老猫アゼンと、雑種の老オシロ。
二匹は、飼い主である満景が起きたことに気づいたようで、アゼンは腕の中から抜け出すと満景の身体の上に座り込み、オシロはペロペロと満景の顔を舐め始める。
「あぶぶっ。二度寝しないから。起きるから」
胸に感じる重さと、舐められた顔が隙間風で冷える感触を受けて、満景はモゾモゾと寝床から起き上がった。
寝床の脇に置いてあったサンダルをつっかけ、オシロと共に納屋の外へ。その傍らでアゼンは布団の中に潜り直していた。
納屋の外は、地面が剥き出しで背の低い雑草ばかり、五歩も進めば端につく程度の狭い庭。
東京都の昭島市にある家と考えると、庭に納屋が立てられる土地があるだけでも立派だと思える。たとえ戦前の土地が多く余っていた頃に買った土地であってもだ。
満景とオシロは、小さな庭を、ぐるぐると歩いて散歩する。
数年前までは外に散歩に出かけるのが日課だったが、オシロが老犬となって足腰と心肺機能が弱くなって外出が難しくなったために、庭での散歩しか出来ない状況だ。
実際、小さい庭を五周するだけで、オシロはハァハァと荒い息を吐いている。
「今日はここまで。ほら、用を足した後で、水を飲んで」
満景は、オシロに庭の片隅で小便を出させると、納屋に戻った。そして、オシロ用のボウルにペットボトルの飲用水を入れる。
オシロがガフガフと音を立てて水を飲む間に、満景はアゼンの食器を洗って新しい水を入れ、双方のエサ皿にペットフードを入れた。
するとアゼンがスルリと布団から出てきて、ペットフードをカリカリと食べ始めた。
オシロも水を飲み終わった後、ペットフードをフガフガ音を立てながら食べ始まる。
満景は、そんな二匹の背中を撫でてから、衣服を替え始める。
寝間着から、海パン姿に。
「うう、寒い寒い」
満景は寒風に耐えながら、庭の一画に備え付けられているポンプ式の井戸へ。
井戸の口の下に古びたブリキのバケツを置くと、ポンプを手で動かしていく。
三度四度と動かしたところで、口から水が出てきてバケツに綺麗な水が満ちていく。
バケツに水が満杯になると、先ほどオシロが出した小便を薄めるように、その水を庭に撒いた。
それから再びポンプでバケツを満杯にすると、光影はそのバケツの淵を両手で掴ながら、大きく呼吸をして自身に気合を入れる。
「懺悔懺悔、六根清浄」
祝詞を唱えながらバケツの水を頭から被る――水でもってケガレを落とす、水垢離の行だ。
外気に比べると温かい井戸の水に全身が濡れた次の瞬間、寒風が全身を強烈に冷やしていく。
満景は歯の値が震え出すのを感じながら、再びポンプを動かしてバケツに水を張っていく。
「六根清浄」
満景は、祝詞と水垢離を八度繰り返した。
満景は身体からボタボタと身体から水の雫を垂らしながら、納屋に急いで戻って海パンを脱ぐと、用意してあったタオルで全身を拭った。その後で、新たに乾いたタオルを取り出し、乾布摩擦で全身を擦っていく。
そうして摩擦による熱で身体を温めてから、満景は次の衣服――中学生の制服である詰襟に着替える。
着替え終わった後、朝食の準備に入る。
両親が、この家の落ちこぼれである満景のために用意してくれるはずもないので、自分で用意するしかないのだ。
納屋に置いてあった手鍋に井戸の水を汲み、それを使い古しのカセットコンロで温めていく。
やがて沸騰を始めた鍋の中に、賞味期限切れ間近で大安売りしていたものを買った、粥と煮魚の二種類のパウチを入れる。そして規定時間温めてから、箸を使って鍋の中から引き上げた。
良い感じにパウチが冷めるのを待つ間に、手鍋の中の湯にインスタント味噌汁の素を入れれて解く。
こうして、粥と煮魚にインスタント味噌汁という、朝食が出来上がった。
「今日は卒業式だから、煮魚を加えて豪華にしてみたよ」
満景はペット二匹に声をかけながら、土床に敷いたゴザに座って朝食を食べ始める。
熱いほどの粥と味噌汁が冷えた体を温め、煮魚のタンパク質が身体に活力を生む。
そうして朝食を食べ終えると、最安SIMで契約したスマホを取る。スマホに繋がれたコードの先は、納屋の天井にある裸電球用のソケットに噛ませたアダプターに接続されている。
登校までの時間つぶしに、ニュースサイトで情報を集める。
並んでいるニュースの中に、なかなかにショッキングな見出し記事があった。
『悪霊に憑りつかれた女性、多数を殺傷。警官も投げ飛ばす。霊障犯罪における罪の是非』
「自然霊に憑かれたか、呪術をかけられての錯乱かで、捜査が難航しそうな事件だな」
満景は感想を口にしながら、自分の生家の仕業ではなさそうだと胸を撫でおろす。
犬塚は呪術師の家だが、対象を呪って直接的な害を与える方向の呪術を得意とする。
だから記事の女性のような、他者に悪霊を憑りつかせる呪術とは系統が違う。
そして満景は、そうした他人に不孝を呼び込む呪術という存在が生理的に嫌いだからこそ、生家で落ちこぼれ扱いを受けている。
「人を呪わば穴二つ。人に施せば双方の徳。やっぱり人が喜ぶような行いをしないとだよね」
満景は、何時の間にか膝の上に来ていたアゼンを撫でながら、登校の時間まで過ごすことにした。
中学校の卒業式は、満景の両親不在の中、無事に終了した。
学校にあった荷物と卒業証書を手に、満景は家に到着。正面玄関を通り過ぎ、裏手の潜り戸を通って中へ。
住処である納屋へ行こうとすると、その途中で声をかけられた。
「テメエみたいなゴミが、中学校を卒業して何になるっていうんだ、おい」
満景が声の方向に振り向くと、そこには三つ歳上の兄である英孝が立っていた。
英孝の立ち姿を見て、満景は思わず顔を顰めてしまう。
その表情の変化を見られたようで、英孝が顔に怒りを浮かべる。
「なんだ、その顔は。この家の跡取りである俺に、そんな顔して良いと思ってんのか!」
英孝が指を組んで印を作ると、腐乱した肉のような生臭い臭いが周囲に充満し始めた。
その臭いを嗅いだ瞬間、満景は制服の内ポケットから人形の護符を三枚取り出して掲げる。
「狗神を嗾ける気なのかい。兄さん」
「呪術の才能がないお前は生きていても辛いだけだろ。そんなゴミが俺の糧になれることを嬉しく思ったらどうだ?」
「……人を呪うことを誇るなんて、人間としてダメなことだよ」
「ハンッ。良い子ちゃんぶりやがってよ」
一触触発の空気が流れるが、数秒経って、急に英孝が態度を変えた。
「ほほーん。そういうことなら、今日は見逃してやるよ。お前がどう選択するかが楽しみだからな」
英孝は手指の印を解くと、機嫌良さそうに母屋へと戻っていった。
満景は、英孝の態度の急変に不思議がりながら、手にある護符を懐に仕舞い直した。そして荷物を持って、納屋の中に入った。
「ただいま、アゼン、オシロ」
ペット二匹に声をかけると、アゼンが胸元に飛び掛かってきた。
満景は慌ててアゼンをキャッチする。
「どうしたんだ、アゼン」
「にゃー、にゃー」
何かを訴える泣き声に、光影は嫌な予感を覚えた。
「オシロ。オシロはどこ!」
周囲を見回すと、オシロが土床の上でぐったりと横にあっていた。
満景が慌てて近寄って状態を確認すると、呼吸が浅く繰り返されていて、体温が何時もより低くなっていた。
オシロの体調の急変に、満景は思わず英孝の関与を疑った。
しかしそうでないことを、満景はオシロの苦しそうながらも穏やかな表情を見て理解する。
「そうか。オシロは、もう寿命なのか」
オシロだけでなくアゼンも、元は両親が保健所から貰ってきて満景に与えたもの。オシロは狗神の呪法のため、アゼンは猫恨の呪法のために、殺す予定で連れてきた存在。
しかし満景がオシロとアゼンの命を惜しみ、今日この日までペットとして買い続けた。例え両親が、満景のことを落ちこぼれと評して粗雑に扱ってきたとしても。
だからオシロとアゼンの本当の年齢は、満景にも分からないため、平均寿命から残りの寿命を計ることも難しい。
しかし昨今のオシロの衰え具合を見ていれば、寿命が残り少ないことは、自ずと満景は察していた。
「そうか。オシロは、僕が中学校を卒業するのを見届けるまで、根性で死なないよう踏ん張っていたんだね」
満景の言葉を肯定するように、オシロは首を伸ばして満景の手をペロリと舐めた。
満景は、オシロの頑張りを感じて、優しい顔と涙が出始めた目という表情になる。
「安心して。僕は四月から高校生だ。しかも、占いの館の師匠たちの助力もあって、霊能者の登竜門っていわれている、熊野高等専修学校の生徒だ。こんな人を呪うことしか能のない家から出て、自由になれるんだから」
オシロは、満景の言葉が分かる様子で、嬉しそうに微笑む。
一人と一匹の間に穏やかな時間が流れるが、満景の脳裏に先ほどの英孝の存在が陰りとなって浮かび上がる。
(どんな選択を僕がするか、とか言っていた。オシロが死にそうなことを死っての発言だとしたら、どういう意味があったんだろう?)
満景が、英孝の考えそうなことを予想して、ある考えに辿り着いた。
(もしかして、僕がオシロとの死別を惜しんで、オシロを殺してその魂を狗神として手元に残すと考えたとか? いや、まさか……)
もし英孝がそう考えていたとしたら、彼は満景の性格のことを何も理解していないことになる。
満景は、英孝のことよりも、今まさに命の灯が消えかけているオシロに寄りそうことに集中することにした。
「大丈夫だよ、死は怖くない。どんな魂も、彼岸に向かい、やがて輪廻へと至るんだから」
満景が優しい声色で語りかけながら、オシロの身体をゆっくりと撫でていく。
オシロは、顔を緩めた安心顔で、呼吸だけがゆっくりと小さくなっていく。
それから十分も経たずに、オシロの呼吸は止まり、目から光が失われ、体温がどんどんと身体から抜け始め、老衰死へ至った。
満景が、オシロの死を受けて、その目からひとりでにボロボロと涙が零れ落ちる。
泣き続ける満景の頬を、アゼンが前足の肉球で押す。まるで泣くなと慰めるように。
「しっかりしろ、満景。そしてオシロを霊視しろ。ヤツめ、犬の神の神遣になって、満景のもとにもどってくる気だぞ」
満景は、急にかけられた声に驚て涙が引っ込み、そして声の主に目を向ける。
この納屋に、生者は二つだけ。
満景の声でないとすれば、候補は一つしかない。
「今の声は、アゼン?」
「そうだよ。少しまえに、ネコマタになってな。人のことばがしゃべれるようになったんだ。オシロとおなじく、満景が中学そつぎょうを待ってから、ネコマタの修行にでようとおもって、しゃべるのをがまんしてたんだ」
たどたどしい言葉を使いながら、アゼンは尻を満景に向けて、根元から二つに別れた尻尾を見せつける。
満景は、呆然とした後でハッと我に返り、アゼンが助言したくれたようにオシロを霊視することにした。
利き目とは反対の目を閉じ、その瞼の上に指で丸を書き、その丸を縦半分に割るような線を指で引く。
これは猫目の紋という、術者の霊視の力を高める模様だ。
その猫目の紋を描いた方の目を開くと、オシロの肉体から抜け出たオシロの魂が中空にいて、その背後には神聖な空気を発する円環の輝きがあった。
「神界の門が開いている。オシロ。本当に僕のために、神の遣いになる修行をする気なの?」
満景が声をかけると、オシロの魂は一つ鳴くような動きを見せてから、円環の輝きの中へと飛び込んだ。オシロが入った瞬間、その円環は消え失せ、霊視でも何も見えなくなった。
初めての現象に満景が驚いて固まっていると、その手にアゼンが頬を擦り付けてきた。
「満景。ぼくも、ネコマタの学校にいくよ。また会う日まで、おわかれだ」
「アゼンも去ってしまうの? もう何日かいたっていいじゃないか」
「ダメだよ。人にしゃべっているすがたを見られたネコマタは、すぐにでもネコマタの学校にいかなきゃいけないんだ。ほら、お迎えもきちゃったし」
アゼンが納屋の外へと踏み出すと、そこには見知らぬ猫が三匹もいた。
アゼンがその三匹に近づき、そして集まった状態で庭の片隅へと移動していく。
「待ってよ、アゼン!」
満景が慌てて後を追いかけるが、猫たちが庭木の裏に入り込んだ次の瞬間には、もう猫たちの姿は庭の中から消えていた。
満景が猫が消えた場所を探し回り、何処へ行ったかを探ろうとするが、猫の姿どころか足跡一つすら発見することはできなかった。
新しい物語を始めます。
よろしくお願いいたします。




