11.父の彼女
──ただいま。
モスキート音のようなか細い独り言ちで、幸枝は玄関を開けた。内向的で人間不信の彼女にとって外の世界は基本、地獄だ。今日もなんとかかんとか、生きて帰って来れた。とっとと家事を終わらせて、自室でマンガに没頭し、世知辛いこの世とおさらばするんだ、と期待を胸にローファーを脱いだ。
渡り廊下の西側に位置するお茶の間の雪見障子が、目に入った。西日の差し込んだ茶の間を見るともなし見ると、ガラス越しに貴実子の正座した足裏の黒い靴下が見えた。さては勤務先の百貨店で、催事の余りのお土産でも貰って来たなと思い、障子戸を勢いよく開けた。
「お姉ちゃん、お土産。あ……」
と声が漏れ出たが、後の祭り。茶の間の下座に貴実子と和葉。上座にはお父さんと、どなたか存じ上げぬ中年女性が、隣に位置していた。皆正座をして、形式に則った顔合わせだった。
おっちょこちょいの幸枝は玄関の来客の靴も、障子戸の前に揃えられた来客用のスリッパも見落として、この有り様だ。不在の幸枝に変わって園美が、お茶を用意してくれたらしい。キッチンからお茶の入ったお盆を、慎重に運んで来た。
「幸枝。丁度良かった。こちら竹中塔子さん。お父さんの電気会社の、下請け企業の営業の方だ」
そうすると彼女は礼儀正しく、
「竹中塔子です。はじめまして」
と丁寧に頭を下げて挨拶した。幸枝はすぐさま正座の姿勢をとり、
「失礼しました。はじめまして。三女の荻原幸枝です」
とさっきの非礼の意も込めて、深々とお辞儀した。
「まぁー。荻原さんの娘さんは皆様礼儀正しいですね」
と竹中さんは言うと、
「幸枝は一家の家事を主立って担当して頼り甲斐があるんですけれど、この通りおっちょこちょいでしてね。いやはや」
とお父さんは笑って、場を和ませていた。
「ウフフッ。フフッ」
竹中さんはざっくばらんなのか、甲高いキーで笑い声を上げた。お父さんは彼女の応対に、
「そんなにおかしかったかい?」
と聞くと、彼女は若い男の子を誑かすように、
「なんでもない。なんでもな・い・で・す」
と小悪魔的に返事をした。
ストレートの黒髪を一つに結い、お父さん同様眼鏡を掛け、フォーマルワンピースで地味な第一印象と不釣り合いの蠱惑的な挙動に、私の感性のアンテナはピンと立った。この女性、怪しいと。
「全員揃ったことだし報告しようかな。お父さんね。この竹中さんと交際しようと思うんだ。真剣にね」
義母が亡くなり、父は癌になり、それを貴実子お姉ちゃんがジュジュを買ってくれて、和葉が面倒をみて明るさを取り戻し、園美お姉ちゃんが合格した。姉妹の難題をどうにかこうにか潜り抜け、コンサートの外出を一家全員で行けるようになるまで、こうして安らかな日々に漸く舞い戻ったのに。お父さんは何を言ってるんだろう? 言語としては理解したが、腑に落ちたかというと、全く腹に据えかねた。
お父さんの言葉を受けて、しおらしくしていた塔子さんは背筋を伸ばし、鷹揚に私達姉妹達を見回した。まるで、妻の席はもう頂きましたから、とも言わんばかりに。
それを受けて長子として貴実子お姉ちゃんは、
「付き合うぐらい、いいんじゃない。ねぇ?」
と園美姉ちゃんに話を振った。そして、
「いいんじゃない。付き合うだけなら」
とマイペースなお姉ちゃんは、関心事じゃないようだった。
私が過敏なのだろうか? それとも私の帰宅前、そんなに好印象だったのだろうか? 上二人は容認した。
「じゃあ。お付き合いするよ。塔子ちゃんよかったね」
とお父さんは鼻の下を伸ばして見つめ、
「はい。これからよろしくお願いします」
と言って私達に軽く会釈だけして、お父さんと視線を交わした。
そうして塔子さんも加え、家族で一頻り談笑した。おもたせの各種ケーキを頂いて。
塔子さんは正座を崩して女の子坐りに変わり、勤め先の内部事情を明け透けに語り、座持ちとして場を暖めていた。
しかし幸枝は疑心暗鬼だった。体裁を繕っていたが中身はこの図太い方が本物で、魅惑な色香でお父さんを手玉に取ろうって腹積りじゃないのかと。
現におもたせがそうだ。お父さんを気遣うならケーキは身体に毒だと、心配りするはずだ。それを娘達のいる前で「荻原さん。お口にクリームが」などと言って、彼女の指で拭い取り自分の口に入れ、いやらしく舐って見せたのだ。
幸枝には、また一家の巡りを悪くする汚泥が侵食するのでは? という勘が働いた。
この場の空気の澱みを感じているのは自分だけのようで……。と周囲を見渡したら和葉が変だ。じーっと和葉は塔子さんを見つめている。
「お姉ちゃん。それ食べないの?」
と和葉は塔子さんのケーキの皿を指差した。クリーム色の薄い襞みたいな何かが、お皿にある。よーく目を凝らすと、ショートケーキの食べ残しの下の段のスポンジ部分が、アルミ箔の上にあった。それを受けて塔子さんは、
「うん。お姉ちゃんお腹いっぱい。和葉ちゃん食べる?」
と和葉は聞かれて、
「いらない」
とぶーたれて答えた。「何だ。お腹減ってたんじゃないんだ? やーねー子供は」とお父さんやお姉ちゃん達に目線を配り「アハハ」と誘い笑いをした。けれど気付いた。和葉の意図を。
和葉は食べたかったんじゃない。「残して勿体なくないか?」と意味合いを込めて言ったのだ。現に残されたスポンジの上にあったと思しきクリームは、一片の残りもなく食べ切られ、園美お姉ちゃんが出した、うちの煎餅に塔子さんは口を付けていたのだから。私だけが勘ぐっていたんじゃない。味方がいた、と力が湧いて来た。
和葉とのやり取りを終え、「じゃあそろそろ、水樹さん。お暇しますね」と声を掛け塔子さんは帰り自宅を始めた。最後にお父さんを、「水樹さん」と呼んだ。油断ならない女だな、と更に力が湧いた。荻原家一同はお見送りに立ち上がると、
「幸枝お姉ちゃん。彼女ってなーに? あの人お父さんの彼女になるんでしょ。彼女ってなーに?」
と和葉は塔子さんの立ち位置を聞いて、上着の裾を引っ張った。幸枝は和葉にも分かるように思い巡らせ、
「お母さん亡くなったでしょ。その次の和葉のお義母さんになるかも、しれない人ってこと」
と噛み砕いて答えた。それを受けて和葉は、
「あの人。お義母さん、やーだ! あの人。お義母さん、やーだ!」
と大泣きした。そうすると塔子さんは、
──チッ。
と密かに舌打ちして、玄関を出て行った。




