10.コンサート
「チーフ。今週末、空いてますか?」
部下の男性社員から、唐突に言われた。貴実子は急な申し立てに、ドキッとした。
貴実子は百貨店の贈答品コーナーのチーフ。
スレンダーで派手さもなく、地毛が赤茶色のストレートで、万国共通の格調高い容貌でもって、羨望の的だ。度々こういう場面に出くわす。口説かれたことは純粋に嬉しいが、私はあの一件以来、男性不審だ。
あの一件とは高校を卒業し、入社して半年経った辺り、当時の配属先の年上のチーフと不倫関係にあった。チーフは既婚者。貴実子も年上に憧れを抱いたうら若き頃で、上司も火遊びが長く続いたものだと、割り切った関係だと思っていた。が、この男、見栄っ張りだった。
ある年の新年会の席で、同僚の男性と貴実子が仲睦まじく話していたのが、気に食わなかったのか。その上司は酔った勢いで男性社員に、「俺の女に手を出すな!」と吠えたのだ。そうして内情が明るみに出て、その上司は左遷。貴実子も配属先の転換の辞令が下った。
そして、何とかこうとか贈答品コーナーのチーフの地位まで這い上がってきたが、あれ以来、男ってのは食えない生き物だな、と関係を絶つようになった。
そこから貴実子の配属店舗では、スタッフ同士の色恋は御法度。という、暗黙の了解が交わされていた。
この男性社員も承知の事実だと思っていたけれど、ここでホラを吹いたら却って始末が悪い。正直に応対することにした。
「アイテルヨ」
たったこの一言が貴実子に取っては、非常に難儀なものだった。それを受けて、
「あぁーそうですか。実は今週末、クラシックのオーケストラコンサートがありまして。うちの父の会社がそのコンサートの協賛で、チケットが余ってるんですよ。生憎、俺、仲間と飲み会で。父も仕事が入ったらしくて。余ってるそうなんですよ。よかったら行きませんか?」
なぁーんだ。思い過ごしか。無駄に脳味噌使った。そんな口説くような遠回しな言い回し、しなきゃいいのに。スッキリして話を詰めていった。
「そのチケット何枚まで?」
「スポンサーですからね。いくらでも」
「五枚でも大丈夫?」
「勿論、いいですよ。五枚ですか?」
「ちょっと確認取らなきゃだけれど、じゃあ五枚。お願い」
「解りました」
そうして、昼休憩の際に家族に確認を取った。
お父さんはアウトドア派で都合が付くか怪しかったが、空けてくれるそうで、とりあえず確定。
園美と幸枝はインドア派で時間の都合が付くのだが、何せ腰が重たいので、外出には難色を示した。しかし「オーケストラだよ。オーケストラ」と私が、力を入れて押しまくったら、渋々同意した。
和葉は長女の私の意向で、無条件で参加させることにした。
そして、ジュジュにとっては初のお留守番で、一家総出で週末、県民会館にワゴン車で向かった。
夜の部の開演で普段なら一家団欒の夕食の時間だったから、お預けを食らった園美はコンサート前に、丼一杯に梅干しやら納豆やら混ぜこぜのご飯を平らげて、万全の体制で向かった。
道中、腹一杯で睡魔の襲った園美は眠りこけ、貴実子は母の生前以来の外出に、口が滑らかだった。それとサービス精神旺盛な父さんが拍子を取り、ワゴン車は賑やかに盛り上がっていた。
県民会館の大ホールの指定席は一階の前から三列目の舞台の真ん前で、特等席だった。
貴実子は部下の男性社員の心配りに、邪推して申し訳ない、と思いながら特等席に着いた。そして入場口で渡されたパンフレットを見ると、さほど音楽に詳しくない貴実子でも勝手知ったる有名楽団で、再度心の内で、ありがたやありがたや、と唱えた。
そうしてコンサートは始まった。始まりから、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」だと貴実子にも分かり、聞き覚えのある旋律に心が奪われた。そうこうして寝息が聞こえ隣を見ると、まだ寝足りないのか太っちょの園美は眠りこけ、お父さんも体力が戻ってないのに、車中ではしゃいだのが祟ったか? コクリコクリと首を傾げていた。そうこうして感慨に耽っていて集中していると、
──お姉ちゃん、お姉ちゃん。
ともうかたっぽの隣の幸枝が、トントンと肩を叩いた。聞き入っていたので、何事かと思ったら、
──みんな寝ちゃった。
と耳元で囁いた。見ると、幸枝の隣の和葉も美しいメロディーが子守唄となったか。スヤスヤと眠りに付いていた。
──せっかくのオーケストラなのにね。
と幸枝に囁いたら、
──けど、寝る子は育つ、って言うから。
と、五人中三人が健やかな眠りの世界に入って、コンサートはフィナーレを迎えようとしていた。




