■■第十三章■■
――ある日、パラディは夢を見た。今は亡き、友の夢だ。
翡翠色の瞳を持った彼は泣き虫で、パラディが傍に居ないとすぐに落ち込んでしまう。
今日も彼は泣いていて、だからパラディは声をかけた。
「…どうしたんじゃ?」
悲しい事があったのなら話して欲しい。そう言って頭を撫でてやると、彼はゆっくりと首を横に振った。
「違うよ。悲しいんじゃなくて嬉しいんだ。
ケリィに沢山の友達が出来て、僕は本当に嬉しいんだ」
そう呟いて、顔を上げた彼は既に亡き友ではない。
…そこに立っていたのはユアンだった。
「…ありがとう、パラディ。君がいてくれたお陰で、
ケリィは本当に笑えるようになったんだね。
僕が出来なかった事、君が全部やってくれたんだね」
…ずっと、ケリィを守れるのは自分だけだと思い込んでいたけれど、違ったのだ。
そうユアンは言う。
「ケリィは僕なんかよりもずっと強いんだもん。僕の助けなんて…いらなかったんだ」
そう言って、ユアンはパラディに背を向けてしまう。
――…ユアン?
待ってくれ。と、そう手を伸ばして、パラディは気付いた。ユアンが死んでいる。
サナトスに喉を食われ、ユアンが息絶えている。それはパラディの友の最期と、全く同じ光景だった。
『――…っ~~っ!―ぁああ!!』
瞬間、自分の物とは到底思えない狂気が心を埋め尽くす。
本当はパラディは知っていた。大切な友に死の運命が迫っている事も、サナトスというスリープシスが現れ、パラディの仲間たちを殺してしまう事も…全てエルピスから聞いていた。
…だからパラディは逃げたのだ。エルピスの封印された箱を抱え、一人舟の奥に身を潜めていたのだ。地上の平和を守る為ならば、ケリィを守る為ならば仕方が無いと自身に言い聞かせ、仲間の危機に背を向けた。
『…っ…すまぬ!すまぬ!』
助ける事の出来なかった仲間の名を呼ぶ。一緒に死ぬ事の出来なかった友の名を呼ぶ。しかし、どれだけパラディが叫んでも、声は届かなかった。
張りつめた糸が切れるように、プツリと終わったその悪夢は、パラディの意識をぼんやりと濁らせる。目を開けば、涙が、後から後から零れ落ちていた。
白いシーツに滴る滴を、袖口で拭い、パラディは上半身を起こす。
「…いつまでも、過去を引き擦っては…駄目じゃ…」
不本意に漏れてしまう嗚咽を噛み殺し、パラディは自身に言い聞かせた。
「今出来る事を…しなくては。また無力なままで、終わってしまう」
…それだけは、何としてでも避けなくてはいけない。そう強く思って、パラディは顔を上げた。
まだ薄暗い部屋の窓に、温い雨粒が滴って行く。
あの日振り始めた雨は、数日が経過した今も止む事が無い。長いこの雨は今年が酷暑になる証拠なのだと、ケリィは言った。湿気が島の気温を上げ、本格的な夏を呼び込むのだ。
『雨が止んだら、学校の皆と湖で遊ぶんだ』
そう言って、寂しそうに笑っていたケリィは今、深く毛布を被って、ベッドの上で寝息を立てている。
「…ユアンもいないのに、か」
ぼそりと、パラディは呟いた。人前では笑顔でいるよう努めている様子だが、ケリィが報われない孤独の中に漂っている事は確かなのだ。
もう間もなくすればケリィは目覚め、そして一人外に出て行くだろう。
あの日から学校に来る事がなくなったユアンを迎える為、ケリィは雨の降る道を歩いて行くのだ。
ユアンは今、深い昏睡状態に陥っていた。
雨の中で倒れたユアンは一度病院に運ばれたが、既に医者の手に負える状態ではなかったのだ。
『ユアンの病気って…治療がすごく難しくて。
酷い発作が起きたらそれで終わる命なんだって…義父さんから聞いてた』
…でも、最近は発作も殆ど無くなっていたから。だから心配していなかったのに。と、そう言ってケリィは唇を噛みしめる。
――ユアンはもう、長くない。そうエルピスに言われ、崩れ落ちたケリィは、それでも涙を見せなかった。
悲しいとも悔しいとも口に出さず。ただ毎朝、ユアンの部屋の窓の下に立って、心優しい友人が顔を覗かせるのを待ち続けた。
始業時間ぎりぎりまでケリィは待って、そして学校に向かう。そんな毎日がケリィの心を壊していく事に、パラディは気づいてた。しかし、ユアンの元に行きたがるケリィを止める事など、出来るわけがないのだ。
ふと、ケリィの目覚める気配がする。
それと同時に、とても切ない感情がパラディを襲った。
…目が覚めたら手を握ってあげよう。ケリィが無理して笑おうと頑張るのなら、自分も決して、涙を見せないようにしよう。そう考えて、パラディは窓際に向かう。
窓硝子に写る顔を見て、涙の跡を隠そうと思ったのだ。
薄い硝子の向こうには、相変わらず暗い空が広がっていた。パラディはそこに写る自分の顔を覗きこみ…次の瞬間驚愕した。
窓の下にユアンが立っている。
雨に煙り、今にも霞みそうな蜂蜜色の髪を濡らし、パラディを見上げて、嬉しそうに手を振っている。
…夢の続きを見ているのだと思って、目を擦った。しかしそれでも、そこに居る人影は消えなくて。…耐え切れず、パラディは窓の外に飛び出した。
視界を遮る雨粒すら忘れ、ユアンの元に飛んだ。結局溢れてしまった涙が、パラディの頬を掠め、雨と一緒に遠く流れて行く。
――ユアン!
口の動きだけでそう叫ぶ。ユアンの、そのゆっくりと差し出された腕の中に飛び込み。その胸に顔を当てる。
パラディは嬉しかった。ユアンの病気が治った事が、これでケリィが、あの悲しみから解放される事が。とても嬉しくて、幸せで。
…だから、ユアンの心臓の音が聞こえない事に、気付く暇すら無かった。
「…っぁ…っ!!」
腹を突き破る、何かの感触。赤い血が唇から、そして体中の傷口から溢れ出す。
驚愕に目を見開いて、パラディはユアンを見上げた。
パラディに突き刺さった何かが、今、ゆっくりと引き剥がされる。
数秒の後、ユアンの手から、血のついた果物ナイフが一本、地面に落ちたのが見えた。
視線を動かせば、目の前には、綺麗で優しい笑顔を浮かべたユアン。
彼は愛おしげにパラディを抱き締めて、そして囁いた。
『オイ・・・シィ』
ぞろりと空気が動いて、ユアンの背後から幾つもの鎌首が伸び始める。
小さな瞳は赤く怪しく光り、その長い舌でパラディの血液を拭った。
――…サナトスじゃと?…これは…っ…なんで
何もかも理解できない。パラディの身体は徐々に冷たくなり、そして視界はぼやける。
…消えて行く意識の中で一瞬見えたのは、パラディとユアンが初めて出会ったあの日の光景。サナトスの核が、パラディの手の中からユアンの身体へと向かい、ゆっくりと移動していく姿だった。