■■第十二章■■
翌朝の空は薄暗く、灰茶色の雲からパラパラと小粒の雨が屋根を打った。
…この暗さのせいだろうか、いつもより遅い時間に起きてしまったケリィは、通学路でユアンに会う事が出来ず、慌てて入った教室でようやく、その姿を確かめた。
「ユアン…昨日は、ごめん!」
ユアンの座る机の前に立ち、ケリィは真っ先に謝る。
昨日は余りにも遊びに夢中になり過ぎて、ユアンを家まで送り損ねていたのだ。その事が申し訳無さ過ぎて、ケリィは顔を上げる事ができない。
そして…ユアンはそんなケリィの様子が面白かったのだろう。口元を手で押さえ、クスクス笑い始めた。
「…そんな事、気にしなくて良いのに。
でもまさか、ケリィがあんなに人気者になっちゃうとは思わなかった」
意外だったが、今までにないケリィの表情が見れて嬉しかった。そう言ってユアンは、ケリィの肩に居るパラディに目を向けた。
「君のお陰だよね。ありがとう、パラディ」
その言葉に照れて、ケリィの後ろ髪に隠れてしまうパラディ。その左目には、ユアンの作ってくれた可愛らしい眼帯がある。これを付けたせいかは解らないが、パラディは今朝から機嫌がとても良いのだ。
『女の子だから、可愛くしないと』
もしかしたら、ユアンに言われたその言葉が嬉しかったのかもしれない。
チラチラとユアンの様子を覗き見るパラディの顔は、既に耳まで真っ赤だった。
――パラディの奴…すっかりユアンが気に入ったみたいだな。
彼女はケリィの分身なのだから、その親友であるユアンを好ましく思うのは、当然の事なのかもしれない。ただ、その素直過ぎる反応を前にしてしまうと、妙な恥ずかしさを感じてしまうのは事実だ。
「本当…ごめんね、ユアン。今日は必ず、一緒に帰るから」
照れ隠しのつもりでケリィは言う。途端、始業の鐘が鳴り始めた。
「先生来たぞ、ケリィ!パラディ隠せ」
教室前方で廊下の様子を伺っていたハルが声を飛ばし、ケリィは慌てて席に着く。
机横に置いたサックに入るよう頼むと、パラディは不満気に頬を膨らませた。
「カバンの中は、退屈じゃから嫌いじゃ」
ぶつぶつ言いながらも、それでもきちんと中に潜り込んでくれる彼女に、ケリィは無言で砂糖玉を数個、差し出した。
「…なんじゃ、これ」
きょとんと、手渡された物を見つめ、パラディは問う。
「お菓子。隣の席のコがくれたんだ。パラディに食べて欲しいんだって」
小声でそう説明してやる。パラディはしばらく訝しそうに砂糖玉を睨んでいたが、やがて勇気を出したようにかぶり付いた。
「…うまっ」
「良かったね…」
どうやら、味の評価は大感激に至ったようだ。ケリィは、夢中で砂糖玉を味わうパラディごとサックの口を閉め、それを床に置き直した。
その直後に教師が現れ、そして本日の授業が始まる。
一限目の歴史の授業が終われば、運動の授業が予定されている。それまでに雨が上がってくれれば、と窓の外を眺めていたのだが、それは叶わなかった。
「――今日は雨だからな…次の授業は平気な奴だけ参加しろ。他は自習で良い」
一限目の終了後、教師はそう一言残して壇上を離れる。
雨とはいえ、気温は高いし、ケリィにとっては何の問題もないだろう。
濡れても良いように上着を一枚脱いで、薄いシャツ一枚になった。そんなケリィに、ハルが嬉々として駆け寄ってくる。
「おっしゃ。ケリィ、お前も勿論行くよな?先に外出て、昨日の続きやろうぜ!」
「…え?」
見れば彼の手には、褐色のゴム玉。ゴム玉蹴りは学校の男子の中で今一番流行っている遊びらしく、昨日もケリィはこれに参加した。正直とても楽しくて、一度やり始めたら時間が経つのも忘れてしまえるだろう。
…そう。既にケリィは、ハルたちと一緒に遊ぶ事に抵抗を感じていない。
だがしかし、今のケリィの目の前にはユアンが座っている。丁度二人で雑談していたところだったのだ。突然二人の会話に割り込んできたハルに驚き、ユアンの顔は一気に青ざめていた。
「あ…あの。良いよ、ケリィ。僕の事は気にしないで」
たどたどしく、そう言って笑うユアンだが、彼がハルを良しとしていない事は確かだった。元来ユアンは、ハルのように乱暴な男子を毛嫌いする性質があるのだ。その事を知っているから、ケリィは落ち着かない気持ちになる。
「――だってよ、ケリィ。行こうぜ」
他の面子は既に外で待っているのだと、そう言ってハルはケリィの腕を掴む。
思い切り腕を引っ張られた拍子にケリィの身体はユアンの机に触れ、そこにあったスケッチブックを落としてしまった。
「…ちょ…ハル!」
俯いて、スケッチブックを拾い上げるユアンが見えた。ユアンに謝りたいのに、ハルは一方的にケリィを引き擦って行く。校庭に出た途端、慌てて教室の窓を振り返った。
そこにはいつも通りユアンが居て、少し寂しそうにこちらを見ている。
…何か声をかけなくては。そう思うのに、雨の音が、ハルに掴まれた腕が思考を乱す。
「――よし。それじゃあ今日はケリィから始めるぞ」
校庭に集まった少年らに向かい、ハルは言う。
目の前に差し出されたゴム玉を反射的に受け取り、ケリィはそれをじっと見つめた。
これを地面に落とし、ケリィが蹴り上げたらゲームスタートなのだ。隣り合った少年がそれを足で受け止めて蹴り上げ、そのまま地面に落とす事なく校庭隅に映えた榛の木まで運んで行く。たったそれだけの簡単なゲームではあるが、成功させることは難しく、思わず意地になって、やり続けてしまう。
「いくよー…」
そう声をかけて、ケリィはゴム玉を蹴る。高く飛び上がったそれをハルが受け、隣へ、隣へとパスが続いて行った。そしてゴム玉が赤毛のチャスの元まで飛んだ時、校庭の少年らを、絶望の溜息が包む。
ゴム玉が遠くに飛びすぎたのだ。チャスは太めの体格が災いして走るのが遅い。明らかに間に合わない速度でボールを追いかけるチャスを見て、ケリィは走り出した。
――僕なら、間に合うかもしれない。
確かに距離はあるけれど。しかしケリィには自信があった。走る事だけは得意なのだ。
ゴム玉の着地直前、僅かに腰を落として足を投げ出す。上手く弾かれたゴム玉を、今度こそチャスが蹴り上げた。
「よ…よっしゃ!」
遅れて走って来たハルがさらにそれを受け、次の瞬間、ゴム玉は榛の木の幹にあった。
ゲームは成功したのだ。
少年たちから、次々と歓声があがる。ケリィが面子に加わってからは、これが初めての成功だった。達成感を飲み込み、一人拳を握っていたケリィは、あっと言う間に少年たちの感激の嵐を受ける。
「すっげぇぜ、ケリィ!やっぱお前、最高!」
そう言って、躊躇いすら見せずにケリィに抱きついてくるハル。他の少年らも思い思いにケリィの肩を叩き、口々にその功績を褒めた。
「は…恥ずかしい奴らだな、お前ら」
思わずそう赤面し、少年らを振りほどくケリィ。だが実のところ、その頬はかなり緩んでいた。
嬉しかったのだ。成功させられた事が、そしてその喜びを共有する相手が居る事が。
――やばい…僕、こいつらの事、好きなのかも。
らしくないくらいに強く、ケリィはそう思った。そしてそのまま振り返り、ケリィは校舎に向かって手を振る。
「ユアン!」
いつも窓際に立って、ケリィを応援してくれるユアンに、この喜びを伝えたかった。
きっと彼もまた喜んで、ケリィに手を振り返してくれる筈。そう信じて疑わなかったのだ。
…なのに。ユアンは俯いていた。
俯いたまま手元のスケッチブックを閉じて、窓に背を向けてしまった。ケリィの聴覚を、雨の音だけが埋めて行く。
「…え?」
雨に濡れた教室の硝子窓は、瞬く間にユアンの姿を隠してしまう。何が起きたのか理解できない。茫然と立ちつくしたケリィの横で、ふとハルが呟いた。
「ユアンって…変わってるよな」
雨音に重なって、始業の鐘が鳴り始める。雨合羽を被った教師が校庭に現れ、直ぐに集まるようにと声を飛ばした。
「――ほら、行くぞ」
促され、ケリィは無理矢理、窓から視線を剥がす。胸が凄く苦しかった。何が原因かはわからない、ただ、ユアンを悲しませてしまった事は確かだった。
――…どうしよう。
地面に落ちたスケッチブックを拾う、ユアンの後ろ姿を思い出す。
…この授業が終わったら、直ぐに謝ろう。そう心に決めて、その後は運動の授業に神経を投じた。可能な限り手足を酷使し、ユアンに対する後悔をごまかす。
短距離走で自己記録を更新した事も、その事を褒めてくれる友達が増えた事も、今のケリィにはどうでも良かった。ただ、ユアンの事が心配で、授業が終わると同時に教室に駆けだした。
「ユアン…先に帰ってしまったぞ」
そしてパラディから告げられた言葉が、ケリィの胸に、鋭く突き刺さる。
「気分が悪いんじゃと…カバンも持たずに帰ってしもうた。大丈夫かのぉ?」
不安そうに宙を漂うパラディ。ケリィはそんな彼女すら、まともに見る事が出来なかった。
「…っ!」
耐え切れず、ケリィは再び外に走り出す。驚いたパラディは、それから数秒遅れて後に続いた。
「ケ…ケリィ!?いきなりどうしたんじゃ!?」
空を覆う雲の色はより濃くなり、雨脚は強まる一方だ。遠くで轟くこの音は、雷なのだろうか。
「ユアンを…追いかけなくちゃ!」
「しかし…ユアンが教室を出たのは大分前じゃぞ?」
今更追いかけても恐らく意味はないだろう。そう声を掛けるパラディに対し、ケリィは頭を振ってみせた。髪の先に溜まった滴が、白く濁って宙に散る。
「――約束してたんだ…今日は絶対一緒に帰るって。
ユアンは僕との約束、絶対守ってくれるから…!」
だからケリィは走るのだ。校庭を駆け抜けて、林道に入る。緩やかな坂を登り切った先にはケリィとユアンが初めて出会った、あの木陰がある。ケリィの家とユアンの家の中間に位置するそこは、今では二人の待ち合わせ場所になっていた。…そしてやはり、今日もユアンは、そこで待っていてくれたのだ。
「――来なくても…良かったのに」
降りしきる雨を頬に滴らせ、ユアンはゆっくりと振り返る。影の落ちた翡翠色の瞳には、普段のような明るさは無く、ただ無機質にケリィを捉えていた。
「来なかったら…僕は君の友達を辞めれたんだよ。ケリィ」
「…何…言ってるの?」
切れる息を整え、ケリィは眉を潜める。あと数歩進めばユアンに届く距離、なのにケリィはもう、それ以上近づく事ができなかった。…ユアンは、怒っているのだ。辺りを包む冷やかな空気が、それを物語っていた。
「ねぇケリィ。僕はね…今日とっても、反省したんだ。
…君となんか仲良くするんじゃなかった」
濡れた髪を掻き上げ、ユアンは言う。眉ひとつ動かさない、人形のように整った彼の美貌に睨まれ、ケリィの肌は粟立った。
「な、なんでそんな事!…僕、ユアンを怒らせる事したのかな?だったら謝るから」
だから許して欲しい。これからも友達で居て欲しいと、ケリィは懇願する。しかしユアンはそんなケリィに向かい、冷たい笑みを浮かべた。
「嘘つかないで。どうせ僕の事、邪魔な奴だって思ってるんでしょ?」
「――…は?」
一瞬、全ての時が、止まったのかとすら思えた。煩わしい筈の雨音すら聞こえず、ケリィの世界を無音が埋める。
「…ね。笑ってごらんよ、ケリィ。ハルや…皆の前で見せたみたいにさ」
ユアンは言う。濡れた脚を一歩踏み出し、まるでケリィを威嚇するように…
「できないんだ?」
気が付けば、翡翠色の瞳はケリィの間近にあった。
「僕にはあんな笑顔…見せてくれないんだ?」
ユアンに掴まれた肩が痛くて、もう呼吸すらできない。こんなユアン、初めてだ。何が彼をここまで怒らせたのか理解できなくて、ケリィの思考は硬直する。
…不意にユアンの視線が逸れた。
「――なんとか言って、ケリィ。このままじゃ僕が…間抜けじゃないか」
俯いたまま、ユアンは言う。ケリィを守れるのは自分だけだと驕って、ケリィが他の友達を作る機会を奪ってしまっていたのなら、自分なんて居ない方が良かったのではないか。そう言って、小さな肩を震わせる。
「―――…ユアン、僕は…!」
そんな事、一度も思ってない。ケリィにとってユアンは、誰よりも大切な親友なのだ。代わりなんて居るわけがないのだ。しかしケリィが必死に言葉を紡いでも、ユアンはただ頭を振るばかりだった。
「…ごめんね、ケリィ。でも、もう終りしよう。それがきっと、お互いにとって幸せだ」
そう言って、ユアンはケリィに背を向けてしまう。一度もケリィの顔を見ないまま、走り去ろうとしてしまう。
「…っユアン!」
ケリィは叫んだ。振り返って欲しくて、せめて聞いて欲しくて…
「僕は嫌だ…絶対嫌だ!」
「――離して」
華奢な腕を振り上げ、ユアンはケリィに抵抗する。振り向いた翡翠色の瞳には、一杯の涙が浮かんでいた。
…空が光る。数瞬遅れて、とてつもない轟音が辺りに響き渡る。どこかに雷が落ちたのだろうか。…そして、その衝撃に驚いたのだろう。ユアンは小さい悲鳴を上げて、その身体を大きく痙攣させた。
「――…ユアン?」
気が付けば、彼の身体に力はない。グラリと半身を揺らし、そのままケリィに倒れ込む。青ざめた顔、目を見開いたまま痙攣を繰り返すその状態に、ケリィははっとなった。
これは彼の持病の発作だ。しかも重度の…
「…ケリィ、これは!?」
「ユアン…ユアン、しっかりして!」
パラディの乗った頭から、足の先までの血液が、一気に凍りついたのが解る。
強張る足を叱咤して、ケリィはユアンを抱え、走った。
――ユアン死ぬな…死んじゃ…駄目だ!
ただひたすらに祈りながら、雨を切ってケリィは走る。その視界は、木々を包む深い霧に飲まれ、あっと言う間に白く染まる。…正気なんて、保てるわけが無い。身体中が震えていて、それでもケリィは、何度も親友の名を叫んだ。しかしその声は、もう届かなくなっていたのだ。




