第0話 伝説の騎士団長死す!?
「……死ねば、この痛みも消えるのだろうか」
頭蓋を内側から万力で叩き潰されるような激痛。
アルディス・ヴァルボートは荒い息を吐きながら、漆黒の外套を深く羽織り直した。
王都から遠く離れた、霧深い辺境の森『幻霧の樹海』。
冷たい雨がシトシトと木々を濡らし、宵闇が迫る一角。
彼は巨木に背を預けて崩れ落ちるように座り込んでいた。
この国で『氷竜公爵』と呼ばれ、敵国からは『血も涙もない凍える死神』と恐れられる男。
しかし現在の彼は、鎧の下で全身の筋肉を痙攣させ、冷や汗に濡れた前髪の間から血の走った蒼穹の瞳を覗かせるだけの、ただの瀕死の病人に過ぎなかった。
『魔力過多症』
生まれつき強大すぎる魔力を体内に宿した者に訪れる、呪いのごとき奇病。
溢れ出す魔力が体内の神経を焼き、脳を苛み、数日間にわたって不眠と狂気の激痛をもたらす。
王宮の最高峰の魔術師も、聖なる神官の治癒魔法も、何ひとつこの激痛を和らげることはできなかった。
「公爵様! お気をしっかりと……! 今、本隊を呼びに」
「……来るな、ギル。私に近づくな」
ついてきた副官ギルバートは動けずにいた。
かすれた声で制するアルディスの指先から、抑えきれない氷の魔力が漏れ出し、周囲の草木が一瞬で白い凍土へと変わっていく。
暴走する魔力は、近づく者すべてを無差別に凍結殺傷する死の領域を作り出していた。
「私が暴走すれば……私ごと、この森を氷漬けに。その前に絶命させろ」
「そんな……ッ! アルディス様!」
ギルバートが悲痛な叫びを上げるが、アルディスの視界はすでに赤く染まり始めていた。
ここまでの討伐で疲弊し、魔力を練ることが難しくなっていた。
このままではあふれる魔力を放出するすべがない。
持ってきた魔石も全部使い、魔力を吸わせた。
もう手がない。
意識が途切れ、破壊衝動だけが脳を支配しようとしている。
もうだめだ。
数か月ぶりの発作は遠征中に起きた。
いよいよ彼の限界を超えようとしていた。
◇◆◇
その頃。
同じ『幻霧の樹海』の少し離れた場所で、ひとりの少女が呑気に鼻歌を歌いながら、湿った土を掘り返していた。
「ふふんふ〜ん♪ あったらいいな、あったらいいな〜……あったぁぁぁ!『雪虫草』の自生地!」
少女エルネは、泥だらけの手で小さな白い花をそっと包み込み、目をキラキラと輝かせていた。
彼女は近郊の冒険者ギルド『銀の翼亭』で「魔法が一切使えない役立たずの雑用係」として扱われている。
だが、エルネ自身はそんな評価など露ほども気にしていない。
彼女にとって世界は、まだ見ぬ不思議な『素材』に満ちあふれた巨大な宝箱だったのだ。
泥だらけのエプロン。
短く括られた瑠璃色の髪まで泥で真っ黒だ。
「よしよし、根っこを傷つけないように……っと。これがあれば、ギルドの倉庫で眠ってる風邪薬がもっと効くようになるのに。みんな『ただの雑草』って捨てちゃうんだから、もったいないなぁ」
エルネが丁寧に採取用バッグへ真っ白な芋虫のような花を収めた。
その時だった。
ズズズ……。
大気が震えるような不気味な冷気が森の奥から押し寄せてきた。
雨粒が瞬時に氷の粒となり、パラパラと音を立てて葉を叩く。
「ん……? なにかしら、この冷気。……すごく強い魔力だけど、なんだかすごく『苦しそう』な気配がする……?」
持ち前の特異な鑑定眼と直感が、ただならぬ異変を察知した。
普通の人なら恐怖で逃げ出すような死の冷気。
だが、エルネの足は躊躇なく、その不穏な冷気の源泉へと向かっていた。
◇◆◇
巨木の根元で、アルディスの意識はほぼ途絶えかけていた。
全身を巡る狂乱の魔力が、内部から体を破壊していく。
死の安らぎすら拒絶されるような激痛。
(……ここまで、か)
氷の結晶が彼の胸元までを覆い尽くし、命の灯火が消えかけた、まさにその時。
「うわぁ……ひどい氷。これじゃあ周りの植物がみんな凍え死んじゃうわ」
鈴の転がるような、朗らかな声が響いた。
アルディスが重い瞼をわずかに開ける。
視界に飛び込んできたのは、泥と葉っぱにまみれた服を着た小柄な少女だった。
ギルバートでさえ恐怖で近づけない「死の領域」。
彼女は何の防護もなくすんなりと踏み越え、あろうことか暴走する氷竜公爵の目と鼻の先まで歩み寄ってきていた。
「な……。逃げ……ろ……」
アルディスは振り絞るように声を絞り出した。
自分が吐き出す冷気は、生身の人間なら数秒で凍死するレベルだ。
「あ、大丈夫ですよ。私、寒さには強いんです。それよりお兄さん……すごく痛そう。体の中で魔力がケンカしちゃって、出口を探して暴れてるんですね?」
少女は、恐怖するどころか、心配そうに眉をひそめてアルディスの顔を覗き込んできた。
その瞳には、彼を『死神』として恐れる色は微塵もない。
ただ「苦しんでいる人間」を気遣う優しさだけがあった。
「魔力つまりですかね」
「……君に……何が……わかる……」
今まで誰にも治せなかったのだ。
いきなりあった少女が国の最高医でもできなかった病に何を言う。
「わかりますよ! だって、その体から溢れてる魔力、すっごくキレイだけど……悲鳴を上げてますもん。私目だけはいいの。ちょっと待っててくださいね、今、良いものを作りますから!」
エルネは手際よく地袋を下ろすと、小さなお手製の手動小鍋と魔法瓶を取り出した。
そして、今日探索で摘んできたばかりの『銀脈スズラン』と、一見すると不気味な紫色の葉『蛇の目草』を取り出し、銀のナイフで手早く細かく刻み始めた。
ギルバートが遠くから悲鳴を上げる。
「おい貴様! 何をしている、公爵様に近づくな! それにその紫の葉は『毒紫草』だぞ! 毒殺する気か!?」
「毒草じゃありませんよー! 確かにそのまま食べたらお腹を壊しますけど、銀脈スズランの根と一緒に煮出すと、暴走した魔力を優しく包み込んで冷ます『最高の鎮静剤』になるんです!」
エルネは気にも留めず、ポータブルの魔導コンロに火をつけ、お湯を沸かした。香ばしくもどこか甘い、不思議なハーブの香りが立ち込める。
「魔力つまりには『シナシナ』の木の皮と、『ジンジャー』と、あ!」
「何だ! 急に大声で」
人の話を聞かないと、ギルバートが苛立っていた。
「『ウサギ猫』の血液がいるんです! 今日採取しようと思って手持ちがなくて」
ウサギの耳のような羽でとぶ猫だった。
この近辺で大量発生していて、騎士団が討伐に来ていたのもそれだった。
「それなら我々の拠点にあるぞ」
「よかった! 急いで持ってきてください。この人あと半刻もしたら口まで氷になっちゃう」
「……承知した」
ギルバートがその場を去ろうと振り返る。
自分たちでは何もできないと周りで聞き耳を立てていた騎士団員がすぐに引き返した。
ギルバートを含め、全員が最後の望みに期待していた。
ほんの数分だった。
ほかにも薬草を数種類、騎士団の持ってきたウサギ猫も使った。
エルネは木製のカップに完成した温かいお茶を注ぐ。
フーフーと息を吹きかけて冷まし、動けないアルディスの口元へと寄せた。
「はい、お兄さん。熱いから気を付けて飲んでみてください。苦いですけど、絶対に楽になりますから」
アルディスは朦朧とした意識の中で、目の前の少女の澄んだ瞳を見つめた。
毒ではないのか……?
構わない。この地獄のような激痛から逃れられるなら。
それが毒であろうと構わなかった。
アルディスは促されるまま、弱々しく口を開き、温かい液体を飲み込んだ。
喉を通り、胃へと落ちていく熱いお茶。
じんわりと体があったまり、アルディスの口から温かさが戻っていく。
コップ一杯をようやく飲んだ頃。
奇跡が起きた。
「……あ……? 痛みが……消えていく……?」
脳を叩き割るようだった激痛。
まるで猛吹雪のあとに訪れる春の日差しのように、すうっと引き引いていく。
体内で暴れていた凶暴な魔力が、温かいものに溶かされ静まり返り、穏やかに体内に収まっていくのが分かった。
数年間、どんな魔法も、どんな高級薬も成し得なかった「痛みの消滅」。
アルディスの視界を覆っていた赤い霧が晴れ、数年ぶりに訪れた平穏と静寂。
「……嘘、だ……。治った!」
遠くで見守っていたギルバートがガタガタと震えながら崩れ落ちた。
少し離れて見守っていた者たちも歓喜の声を上げた。
公爵の周囲を覆っていた死の氷脈が、みるみるうちに溶けて消えていく。
そして何より、あの「死神」と恐れられるアルディスの顔から、激痛の苦悶が完全に消え去っていたのだ。
「ふふ、効いてきたみたいですね! よかったぁ」
エルネはほっとしたように胸を撫で下ろし、満面の笑みを咲かせた。
泥で少し汚れた頬、太陽のように温かい笑顔。
「私、エルネ・ミルフィっていうんです。しがない素材採取士なんですけど……お兄さんの役に立ててよかった!」
アルディスは、呆然と目の前の少女を見つめていた。
(私を救った……? この小さくて、可憐な少女が……私の長年の地獄を、たった一杯の薬草茶で……?)
全身を駆け巡る感覚は、痛みからの解放だけではなかった。
激痛の氷原に投げ込まれた彼の心臓に、熱い、熱い炎が灯った瞬間だった。
救世主。いや、それ以上だ。
自分の人生のすべてを捧げるべき、唯一無二の太陽。
アルディスは手袋を外し、震える手でエルネの小さな手をそっと包み込んだ。
氷のように冷たかった彼の手が、今はじんわりと温かい。
「……君は、神の遣いか……?」
「ええっ!? い、違いますよ! ただの草オタクです!」
「エルネ……エルネか」
「はい。この薬あと3杯は作れています。魔力つまりは小さい子どもがよくなるけど、飲み続ければ直るはずですよ。持ち帰って飲んでくださいね」
アルディスは膝をついたまま、まるで聖女に祈りを捧げる騎士のように、エルネの手の甲に深く、長く唇を寄せた。
「私の名は、アルディス・ヴァルボートだ」
「君が私を救ってくれた。私の命も、心も、これからの生涯すべて……君のものだ」
「ひやぁぁぁっっ!? な、なに言ってるんですかお兄さん……じゃなくてヴァルボート公爵様ぁぁ!?」
赤くなるエルネの手を離さない。
アルディスの青い瞳には、溶けるような甘さと、一生逃がさないという狂気的なまでの執着の光が宿っていた。
これが冷酷無比の氷竜公爵が、一人の素材オタク少女に永久の愛を誓った、すべての始まりの物語である。




