第5話 星降る渓谷のひそやかなデート
吸い込まれるような深い群青の空。
今にも零れ落ちそうなほど広大な星々が輝いていた。
王都の喧騒から遠く離れた、アルディスの所有するプライベートな避暑地。その奥深くにひっそりと佇む『星降る渓谷』は、人間が滅多に足を踏み入れない秘境であり、極上の希少素材がひしめく宝の山でもあった。
「はわわぁぁ……! アルディス様、見てください! 苔が……苔がこんなに青く光っています!」
静寂に包まれた森の中。
歓喜の悲鳴を上げたのはエルネだった。
普段の泥だらけの作業着から一転、今日の彼女はアルディスが用意した可憐な小花柄のワンピースに身を包んでいる。
しかし、装いがどれほど清楚になろうとも、彼女のやることはいつもと何一つ変わらなかった。
エルネは膝を突き、地面にへばりつくようにして、青く仄かな光を放つ植物を穴があくほど見つめている。
「これは『月光苔』の群生……! 夜の間しか光らなくて、朝日を浴びると一瞬で枯れちゃうっていう、幻の苔なんです! しかもこんなに密生しているなんて……まるで星空を地面に敷き詰めたみたい!」
目をキラキラと輝かせ、少女のようにはしゃぐエルネ。
その隣で、彼女が転ばないようにとそっと腰に手を添えている男がいた。
漆黒の軍服の上から白銀の飾りが施された外套を羽織る、美しい男、氷竜公爵アルディス・ヴァルハイトであるが、彼もラフな冒険者風の衣装だ。
普段であれば、一瞥しただけで強大な魔物を怯ませ、敵国を震撼させる絶対零度の死神。
だが、今の彼の瞳に宿っているのは、甘く溶け落ちそうなほどの深い情愛と執着だけだった。
「ああ、本当に綺麗だね……エルネ」
アルディスが囁いた声は、驚くほど柔らかい。
彼が見つめているのは地面の月光苔ではない。
その光を瞳いっぱいに反射させて輝いているエルネの横顔だった。
「あ、アルディス様! 苔を見てください、苔を! 私の顔を見ても素材の価値は分かりませんよ!?」
「私にとっては、君が世界で一番の価値を持つ存在だよ。どんな国宝級の霊草も、君の髪一筋の美しさには叶わない」
「ま、またそういう大袈裟なことを……!」
エルネは頬をカッと熱くさせ、慌てて視線を苔へと戻した。
アルディスからのストレートすぎる好意には、いくら経っても慣れることができない。
彼にとってみれば「事実を述べているだけ」なのだが、エルネの心臓は持ちそうになかった。
(だ、ダメよエルネ! 今は素材採取に集中するの! こんなに状態のいい月光苔、一生に一度出会えるかどうか……!)
先日の大騒ぎで森に行けなくなってしまったエルネを、お詫びと称しアルディスが連れて歩いているのだ。
エルネは気を取り直し、腰のポーチから専用の小さな銀ナイフを取り出した。
「月光苔を採取するときは、根元の土ごと優しく切り取らないとダメなんです。鉄のナイフを使うと酸化して効能が落ちちゃうので、絶対に銀か木製のナイフで……」
「手伝おう」
当然のように手を出すアルディス。
「えっ? でもアルディス様のお手を汚すわけには……」
「君の手助けをさせてほしいんだ。君が愛する世界を、私も一緒に感じたい」
そう言われて拒否できるはずもなかった。
アルディスは躊躇なく膝をつくと、高価な革手袋を外し、エルネの小さな手に自分の大きな手を重ねた。
「ひゃいっ!?」
「ふふ、力を抜いて。どこを切ればいいか教えてくれるかい?」
アルディスの体温が、重ねられた手を通してダイレクトに伝わってくる。
背後から抱きすくめられるような姿勢になり、エルネの耳元で彼の低いしっとりとした声が鼓膜を揺らす。
「あ、あの……根元の二ミリ上あたりを……すっと……」
「ここだね? ——よし」
二人の共同作業によって、傷ひとつなく美しく切り取られた月光苔。
エルネの手の上で、青い光がぽわんと優しく弾けた。
「すごいです、アルディス様! 初めてなのに完璧な切り口です! まるでプロの採取士みたい!」
「君の教え方が良いからさ。……喜んでもらえてよかった」
アルディスは満足そうに目を細めると、重ねた手のまま、エルネの指先に優しく唇を寄せた。
「……っ!? あ、アルディス様!?」
「よく頑張ったね」
「作業をしたのは私とアルディス様で……って、指にキスはズルいです!」
顔を真っ赤にして指を引っ込めようとするエルネだったが、アルディスはフッと意地悪く微笑むだけで、離してくれなかった。
「指だけでは足りないかい? では、次はどこがいい?」
「違います! そういう意味じゃありませんからー!」
甘い空気に耐えきれなくなったエルネは、バタバサと手を振りながら「ほ、ほら! 向こうにも珍しいキノコが自生してますよ!」と、強引に話題を逸らして駆け出した。
「あっ、危ないよエルネ、走ると——」
アルディスの制止も虚しく、足元の濡れた腐葉土に足をすべらせるエルネ。
「きゃっ!?」
「まったく、慌てん坊だな」
一瞬だった。
風を切る音とともに、エルネの体は浮遊感に包まれた。
気づいたときには、アルディスの強靭な腕の中にしっかりと抱き留められていた。
パサリと、彼の外套がエルネの肩を包み込む。
至近距離で重なる、氷の結晶のように澄んだブルーの瞳。
そこには、深い愛しさと、ほんの少しの呆れが含まれていた。
「怪我はないかい?」
「あ……は、はい。すみません、助けていただいて……」
「謝る必要はないさ。君を抱きしめる正当な理由ができたのだから」
「も、もう! アルディス様ったら! いつもの服ならこんなことないのに!」
抱き上げられたままの姿勢で、エルネはポカポカと彼の胸を叩いた。
そしてその触れた体の、アルディスの胸の奥で打っている鼓動が、自分のそれと同じくらい早く、激しく打っていることに気づいて、エルネはハッとした。
(アルディス様も……緊張してる……?)
冷酷無比と恐れられる「氷竜公爵」。
けれど、自分の前で見せる彼は、いつだって一人の恋する男なのだ。
持病の痛みに苦しんでいた彼が、自分が渡した薬草茶で救われたと言ってくれたあの日。
「君は私の世界を照らす光だ」と言って、公爵という地位も名誉も投げ打つ勢いで自分を守り続けてくれている。
(……ズルいのは、私の方かもしれない)
こんなにも大切にされて、甘やかされて。
素材のことばかり考えているふりをして、本当は彼の存在が、気になり始めている。
「……アルディス様」
「なんだい、エルネ?」
エルネは腕の中でそっと手を伸ばし、アルディスの首元に柔らかく抱きついた。
「……いつも、護ってくれてありがとうございます。私、アルディス様とこうして草を摘んでいる時間……すごく、幸せです」
一瞬、アルディスは息を呑んだ。
そして次の瞬間、彼は狂おしいほどの愛おしさを込めて、エルネを強く、強く抱きしめ返した。
「ああ……エルネ。君が私に与えてくれるものは、いつだって眩しすぎる。私の方こそ、君なしでは生きていけない体になってしまったというのに」
首筋に埋められた彼の髪が、くすぐったい。
夜風が森を吹き抜け、月光苔の光が二人の影を優しく照らしていた。
「さあ、そろそろ館へ戻ろうか。今夜は地元貴族たちとの夜会がある。憂鬱だが……君と少しでも長く一緒にいられるなら、悪くない」
「え? 夜会?」
エルネはアルディスの「一緒にいられるなら」そこに引っかかった。
「そうだ。今日君を連れてきたのはそのためさ」
心底楽しそうな顔をしたアルディスは、エルネと過ごす夜会の時間がもう目に見えている様だった。
「そんな! 私は夜会なんて」
「大丈夫。夜露に濡れた珍しいキノコが生えているって噂だよ」
「あれ? そういえば誰かの館の裏庭のキノコが……レアかもって。もしかして噂の!!」
「……ふふ、結局そこへ行き着くんだね」
しばらく観察し尽くして、エルネの特性は分かりきっていた。
珍しい素材の噂があれば彼女がついてくることも。
その噂さえも彼の手中にあることにエルネが気がつくことはない。
アルディスは可笑しそうに笑うと、エルネを抱き上げたまま、優しくお姫様抱っこをした。
「ええっ!? ある、アルディス様! 歩けます! 歩けますからー!」
「だめだ。また滑って転んだら大変だからね。それに……もう少しだけ、こうして君を独り占めしていたいんだ」
「〜〜〜っ!」
真っ赤になったエルネを抱えたまま、氷竜公爵はご機嫌な足取りで秘境の森を後にするのだった。
この後、夜会であの嫌味な令嬢シエルカが乱入してくるとも知らずに。




