プロローグ
星も月も雲に覆われた深夜。
城下町の裏街道を、息を切らして駆けてゆく足音が響いた。
初めは一つ。
続いて、三つ。
カチャンッと左腕に抱えた布袋の中で、古い王冠が小さく揺れた。
――認めさせてやる。
一人前だと。
……親父に。
身体が跳ねるように軽い。
少年は、振り返った。
(もう少しで、撒ける……!)
貴族と平民を隔てる大通りを横切る。
ぼろ切れのシャツ、つぎはぎの半ズボン。
走り続けて火照った肌が、街灯の光を受けて、幻想のように白く輝いた。
――白い妖精。
追跡者達の目からは、そう見えた。
やがて、跡形もなく、闇に溶け込む。
平民街に入った少年は、
迷路のような分岐を、細い方へ、暗い方へ走った。
完全に追手の姿が消え、口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
逃げ切れた。
――はず、だったのに。
いきなり頭上から、行く手を阻むように、
何者かが降ってきた。
「うわっ」
勢いのまま、額がぶつかる。
固い腕が少年の背中を縫い留め、
身動きができなくなった。
白を基調とした服。
胸元には星と三日月の刺繍。
聖騎士。
「……捕まえた」
「――っ! は、なせ!」
男の腕が伸び、少年が抱えていた布袋を強引に奪う。
「お前、これが何か、分かってんのか?」
「――は?」
聖騎士は、一切躊躇うことなく、袋を地面に投げ捨てた。
王冠が乾いた音を立てて、物陰に転がり込む。
少年の心臓が痛みを伴って跳ね上がった。
「な……っ!」
「お前――あれをどうする気だった?」
低い声が、妙に重たく感じた。
「声がした!」
闇の奥から、追手の声が響く。
少年の背中に、冷やりとしたものが流れた。
(――逃げ、ないと……!)
固い胸板を押して、抜け出そうともがくが、
そんなものは抵抗にもならなかった。
逆に――
「……静かにしてろ。見つかりてぇのか」
舌打ちをした聖騎士に口を押さえられ、
身体を引き寄せられた。
タバコとは違う――薬草に似た苦みと、ほのかに甘い匂いが肺を掠め、
心臓が一気に跳ね上がる。
聖騎士は建物の影に隠れた。
……どういうことだ?
何のつもりだ?
頭の中が真っ白になる。
心臓がやけに早く脈打って、キィンと耳鳴りに襲われた。
足音が近づく。
鎧と剣がぶつかるカチャカチャした音が、真横で鳴り――
やがて、通り過ぎた。
(……)
ほ、と肩の強張りが緩んだ。
しかし。
「……」
追手の一人が急に足を止めた。
そして、振り返る。
「――っ!」
少年の心臓が飛び跳ねる。
深い緑色の目が、まっすぐこちらを見た――気がした。
少年を抱えている聖騎士も予想を外したようで、頭上から舌打ちが聞こえた。
「――おい、どうした?」
追手仲間が声をかける。
立ち止まった人は、答えない。
先頭を走っていたもう一人が、焦りを滲ませて急かした。
「確かに声が聞こえただろ? このあたりにいるはずだ。探せ!」
立ち止まった人は、ぼそりと呟く。
「……俺は、もう戻ります」
二人は同時にどよめいたが、
それを無視して一人で踵を返し、暗闇に溶けていった。
「――おい……」
「やめとけ。あの新人は、後で処理すればいい。いや、躾、か」
一方の男が乾いた笑いを上げた。
「で、どうする? 探すか?」
「ああ」
二人は平民街を進み、めぼしいと思った角を曲がったようだった。
少年の口から手が離れる。
「間抜けどもめ」
悪態をついた声は、冷え切っていた。
「さて本題だ」
聖騎士が少年を腕の中に収めたまま話を戻す。
「お前の返答次第で、逃がしてやってもいい」
聖騎士に乱暴に顎を掴まれ、くっと持ち上げられる。
深青の目が間近で合った。
その時――
「何をしているのですか、パルチェス」
暗闇のどこかから、静かな声が響いた。
うげぇ、と声を漏らし、聖騎士の腕がピクリと反応した。
闇の中から、藤色の瞳が浮かぶ。
「……何でもねぇよ、クレディス」
あれほどきつかった腕の拘束が、嘘のように離れた。
クレディスはパルチェスから視線を外し、少年の前に立った。
そして、身をかがめて目を合わせる。
「――あなたは、なぜこんな時間に出歩いているんですか?」
ただ事務的に確認するような、静かな声だった。
「ちょっと、イラついたことがあったから……家を飛び出しただけです」
少年は、自分と同じくらいの年の子供の口調を真似して言った。
クレディスは立ち上がり、真正面からパルチェスを見る。
「パルチェス。あなたはなぜ、少年を抱えていたのですか?」
二人の視線が外れた――。
少年が気配を殺し、闇に溶ける。
投げ捨てられた王冠を手に取り、パルチェスの死角を利用して角を曲がった。
――危なかった。
今さらのように、心臓がバクバクと激しく打ち、ぶわっと汗が噴き出る。
捕まるわけにはいかない。
やっぱり価値があるんだ――これには……!
ぽつ。
ぽつ。
頬に、雨粒が落ちる。
少年が空を見上げた瞬間に――ザアアと本降りになった。




