150話 ヘクサム、その遥か北では
セス大氷原。
ドライゼル帝国の領土の外、その北には果てしない氷の大地が広がっていた。
常に氷の粒が混じる烈風が吹き荒れ、一片の雑草も生えない荒地と極寒で凍りついた地面。そして地面を覆う厚い氷は、侵入する人間の行く手を阻み。
食糧の調達や確保すら困難なこの大氷原は、とても人間が生活、いや生存出来る環境でないため。帝国もセス大氷原へ領地を拡大する事は不可能だったが。
北への領地拡大を躊躇理由が、さらにもう一つ。
それは、セス大氷原と帝国の領土との僅かに氷と雪に覆われてない地域には。
帝国の国民らが「北狄」──と呼ぶ、小鬼や豚鬼ら下位魔族らの無数の集落が理由だった。
伝承によれば、世界の最北端とも言われているセス大氷原のさらに北の果てには。人間以外を守護すると言われている四体の魔王、その一体がいると言われているが。
おそらくは、遥か北の果てに降臨すると伝承で言われた魔王の一体である「古の巨神・ヒルガル」を信奉し、下位魔族が次から次へ集結したのだろう。
何故ならば「北狄」と呼ばれる下位魔族は、通常に見られる小鬼や豚鬼よりも体格が大きく、性格や腕力が凶悪化している事がほとんどだったから。人々はその変貌ぶりを「魔王の影響だ」と信じている、という理由からだ。
だが、ここで疑問が一つ出る。
帝国が領地拡大を躊躇したのとは逆に。集落を形成する程の数の下位魔族らは、何故に帝国領を踏み荒らしはしてこないのかという。
それは、帝国という国家が建国するよりも過去に遡る。
一〇〇年以上も前。大陸を統一した英雄王クレウサが建国したアスピオ魔導帝国の時代には、既に存在が確認されていた「北狄」に対抗するため。
ヴェルゴの北壁、と帝国の人間は呼ぶ頑強な石造りの壁を建造し。人間の住む世界と大氷原とを隔離し。
ヴェルゴの北壁は今なお建造された時の姿を残し、何なら帝国最北端の国境として扱われており。一〇〇年以上も下位魔族らの大規模な侵入を防いでいたのだ。
だが、しかし……である。
一〇〇年以上もの歳月は残酷にも、城壁の至る箇所を劣化、崩壊させるには充分すぎたためか。
大規模な侵攻こそ妨害にはなっていたものの。破損した城壁の隙間より何体もの下位魔族が、帝国領内に侵入を成功させていた。
先にヘクサム近隣を荒らした「村喰いのグリージョ」という、異名を付けられた凶悪な小鬼の変異種もまた。城壁を乗り越えた北狄の一体だったのだが。
実は、この悪名付きには血を分けた兄弟とも呼べる小鬼が存在していたのだ。
その小鬼は、北壁の向こう側──極寒の地で兄弟の死を知る事となる。
偶然にもアズリアやランディと、悪名付きとの死闘に遭遇し、戦いに巻き込まれまいと身を潜めていた小鬼の一体が。
埋められた悪名付きの亡骸を地面から掘り起こし、幾許かの所持品を遺品として持ち帰ったからだ。
◇
「オ……オ……オオオオオオ‼︎」
兄弟の死を知った小鬼は、血の涙を両目から流しながら絶叫し。
遺品を持ち帰ってきた小鬼へと、怒りと殺意の込もった視線をギロリ……と向けた。
睨まれた小鬼は、人間の子供程の小柄な体格。
故に、巨大すぎた悪名付きの亡骸を丸々と運搬する事が出来ず。所持品や一部の箇所を持ち帰るのが限界だった。
──かたや、血の涙を流しながら報告した小鬼を睨み付けたのは。アズリアの頭一つ抜けた巨体であった悪名付きを、さらに超えた巨躯だ。
つまり、農村を三つ壊滅させ、モードレイの岩人族を始め、数々の討伐隊を返り討ちとした「村喰いのグリージョ」と同等か。それ以上の脅威であるという証明。
「キィ⁉︎ キ……キィ……ッ……」
睨まれた途端、小さく悲鳴を漏らした後。ガタガタと大きく身体が震え出す小鬼。
まさに巨人と小人、それ程の体格差の相手に睨まれたのだ。恐怖で震えるのは小鬼でなくとも当然、と言えた。
その場から動けなくなっていた哀れな小鬼は、次の瞬間。
「──ギ……⁉︎」
腰から上の部分が突如、胴体から離れ。吹き飛ばされた上半身のみが付近にあった岩の表面へと衝突し、潰れて絶命する。
グリージョの兄弟であった巨大な小鬼の拳が横に振るわれた威力で。上半身と下半身が両断されたからだ。
人間とは違い、小鬼の社会構造は野生の獣とほぼ同様に。強者が弱者を支配するという理屈で、それは同族でも異種族でも変わらない。
凶悪な腕力と恵まれた体格を持つ小鬼の変異種が、ごく一般的な小鬼を歯牙にも掛けない扱いも。小鬼らの集落では当然の振る舞いなのだが。
それでも。
遺品を持ち帰り、兄弟の死を知らせた小鬼に怒りをぶつけた理由──それは。
頭部を、奪われていたからだ。
既に殺してしまった小鬼からの報告によれば。
掘り出した兄弟の亡骸には首から上が切断され、人間と岩人族によって持ち去られてしまったと聞いた。
小鬼の集落の中でも、兄弟はかなりの強者であった。弱き種族である人間に負けるはずがなく、もし戦いで敗れたなら卑劣な罠を使ったに違いない。
そして弱き人間が、兄弟の首を強奪したのであれば取り返さなくてはならない。
巨大な小鬼は血の涙を拭うと、空を見上げた後に大きく口を開き。
「ヴ……オオオオオオオオオオオオ‼︎」
激しく喉を震わせながら、とんでもない大音量での咆哮を発する。
それは、小鬼が群れで大きな戦いに挑む際に鳴らす戦闘歌であり。同時にこの北狄の地では、人間の地に攻め入る事を意味していた。
辺り一帯に響いた咆哮を聞き付け、早速駆け付けたのは、小柄な小鬼が数体──いや、通常の小鬼とは様子が違う個体だった。
目付きが鋭く、獣や人間、或いは同族の犠牲者の返り血を絶対に洗おうとせず、常に血塗れでいる事から「血帽子」と呼ばれている隠密と暗殺技術に長けた小鬼の変異種。
次に空から現れたのは、皮膜の翼で飛行する「幼魔族」だった。
下位魔族にこそ分類されてはいるが、知能は人間並みに狡猾で、魔法を行使する事も出来る。
さらに時が経過すると、同族である小鬼や戦鬼。そして異なる種ではあるが、北狄に分類されている豚鬼、食人鬼といった下位魔族らも次々と集結していく。
その数、およそ一〇〇体以上。
しかも、咆哮を鳴らして相当の時間が経った今でも、下位魔族らの集結が打ち止めとなる気配はない。
「──グオアアアアアァァァァッッ‼︎」
盛大な雄叫びとともに、小鬼が集結した魔族らに攻撃指示を出した。
その指差し、攻撃目標として示した箇所とは。これまでの小鬼らが帝国領に侵入する際に用いる、石壁が崩れ落ちた箇所ではなく。
ヴェルゴの北壁、帝国の兵士や騎士が常駐していた城砦部分だったのだ。




