120話 アズリア、状況は一変し窮地に
片手で持ち上げ、足が地面から浮いているために何も抵抗が出来ない男の腹に。
アタシはもう片手で握っていた両手剣の鋭い先端を向け。そのまま男の身体を刺し貫こうとした。
──その時だった。
「アズリアっ!」
突然、自分の名前を呼ばれた事に驚き、アタシは剣が男の腹に刺さる直前で止めた。
その時点で男は白目を剥き、口枷代わりの布の隙間から泡を吹き。股間からは小便をだらしなく漏らし、完全に意識を失ってしまっていたが。
まだアタシは男を解放する事なく、名前を呼んだ人物へと振り返った。
「何だいランディ、まさか止める気じゃないだろう……ね?」
そう、報復の一撃を邪魔するかのようにアタシの名を呼んだのはランディ。
最初は先程のアタシ同様、この場でナーシェンの取り巻きを殺す事に反対しての呼び掛けとばかり思っていたが。
振り返ってみると、名前を呼んだのにもかかわらずこちらを全く見ずに。焚き火の灯りの届かない暗闇をランディは凝視していた。
つまり、足音の主をずっと監視してくれていたのだ。
そのランディがアタシを呼んだという事は。
「何かあったのかい」
「……拙いことになった」
今、判明しているのは徐々に接近してきている足音の相手が複数体いる事、その程度であり。それが獣なのか魔物なのか人なのか、接近する目的すら一切分からない。
幸いにもいち早く察知が出来た足音は、徐々に接近しつつはあっても。まだ目視が出来る距離にまで迫るまでは時間の余裕があったため。
アタシらは、足音の正体が目視出来る距離に迫るより前に。戦うか逃げるか、身を潜めるかの選択を余儀無くされていたが。
残念ながら、まだアタシはその決断を出来ずにいる。
どの選択を取るにしても、一番の足枷となるのが他ならぬ、ナーシェンら四人の存在だった。
アタシは邪魔な存在の排除と、背中に負った火傷の報復にと。取り巻きをアタシ自らの手で始末するつもりだった──が。
「足音が、急速にこっちに近づいてくる。おそらく向こうは俺たちが野営をしてる事に気付いてる」
「な、なんだってッ?」
相手の行動が突如として変化し、接近が早まった事をランディから告げられ。
相手の想定外の行動と、こちらの対応がまだ決まっていない事の二つの理由でアタシは驚く。
イーディスを止めるまでは、アタシも耳を澄まして足音を聞き、相手がどう動くのかを注意深く観察していたつもりだ。
それまでは、足音の主は接近こそしていたものの。警戒していたのか、完全な接近を許すまではまだまだ時間的な猶予はあると思っていたが。その想定は脆くも崩れ去る。
相手が急速に接近してくるとなると、もう悠長にナーシェンら四人の相手をしている暇などない。
もし、足音の正体がヘクサムや近隣の村落に住む農民や狩人らだったと想定し。運悪く、四人を殺害している場面を目撃されれば、話はややこしくなってしまう。
いくらアタシらが養成所の訓練生であり、「これは報復だ」と弁明したところで。側から見れば、こちらが悪事を働いた様にしか見えないだろうから。
「……ち、ッ」
そう思ったアタシは口惜しさからか、思わず舌打ちを一つ鳴らした後。既に意識を無くしていた男の胸ぐらから手を離し、アタシから解放された男の身体が地面に落下する。
アタシは転がった取り巻きにはもう目も暮れず、ランディの隣に屈み込んで暗闇へと目を凝らす。
「で、ランディ。足音はこの先で変わってないかい?」
「いや、少しばかり横に回り込もうと移動してる。あっちだ」
と同時に視線の先へと耳を傾けて、ランディの言う急速に接近してくるという足音を感知しようとし。
ランディも指で方向を指し示しながら、アタシが音を拾うのを援護してくれる。
お陰でアタシは一度はこの場での監視を離れながらも、即座に足音を察知する事が出来た。
「なるほど、ね」
確かにランディが言った通り、先程までアタシが知っていた動きではなく。複数の足音が歩幅を早めて、しかもこちらへ接近する速度を早めている。
しかも複数の足音がひと固まりとなって。
「ランディがアタシをわざわざ呼びつけたのは、こういうワケだったのかい」
「ああ、妙だとは思わないか?」
「ああ、妙だね」
足音を聞いたアタシは早速、ランディと言葉を二、三交わし終えた後。両手剣を握り直し、警戒心を一段強めていく。
隣にいたランディも同様に、腰の剣に手を伸ばし、鞘から抜き放ち警戒を強めていた。
「お、おい? どうしたんだ二人ともっ……」
アタシとランディ、二人がまるで事前に申し合わせたように武器を構えた事に。
近くにいたにもかかわらず、足音等の見えない気配を探るのが下手なサバランと。ナーシェンと取り巻き二人を監視しているイーディスは、二人揃って首を傾げてみせた。
状況を理解させるため、疑問を払拭する説明役を買って出てくれたのはランディ。
「いいか、サバラン。さっきの小鬼を思い出してみろ。数が優勢だと知った小鬼はあの時どう動いた?」
「そりゃ、俺たちの回りを取り囲むように……あっ!」
足音を探るのが苦手だったり、魔法の詠唱を覚えられなかったりと。頭を使う事が不得手に思えるサバランだったが。
実際に三日ほど顔を合わせ、一緒に過ごしてみると意外にも頭の回る人間だったりする。
それが証拠に。今のランディの説明を聞いて、足音が滲ませた違和感をサバランは即座に理解してみせた。
そう。
小鬼ですら、複数ならばまず襲撃する相手を包囲し、四方からの攻撃を考えるのだ。相手が野外に生息する癖に、焚き火があるのに接近してくる魔狼や群野犬等の獰猛な中型の獣だと想定した場合。
複数が包囲に動かず、ひと固まりに纏まって行動する事などあり得ない話なのだと。
しかし人間だった場合、照明を持たずに夜に出歩く事は基本的に、ない。
まだ夜空を遮るもののない平地ならば、月明かりで何とか視界を確保出来るが。夜の暗闇に包まれた木々が立ち並ぶ一帯を、照明を焚かずに歩く事はほぼ不可能だ。
にもかかわらず、ランディとアタシで目視していたが、炬火や角灯のような照明の光を発見する事は出来なかった。
だからこの時点で、ヘクサムや近隣の村落の人間である可能性は消える。
つまりは、獣のように複数が包囲する動きを見せず。人間ならば当然持っている照明を持っていない。
そんな得体の知れない正体不明の何かが、確実にこちらへ接近していたのだ。
アタシだけでなく、魔力が枯渇しようやく動ける程度になったランディまでもが警戒を露わにした訳だ。
「アズリア、そろそろ相手が見える距離だ」
「わかってるさ」
警戒を強め、足音を注意深く拾っていたアタシは。いよいよ足音の主が、夜の闇に閉ざされた森でも目視が可能な距離に入ってくるのを悟り。
ランディの警告と同時に、突撃を仕掛ける予備動作として。両手剣を肩へと担ぎ、いつでも地面を蹴って飛び出せるよう低く腰を落とした体勢を取る。
こちらの位置が既に知られている以上、「身を潜める」選択は意味を為さない。また、ナーシェンら四人を連れ、今から「逃げる」という選択肢を実行するのは不可能だ。
となれば、残る選択肢は一つしかない。




