僕の日常はいたって普通 その②
親父は仕事へ行き、残されたのは僕と恋子の二人。まあ、何をするわけでもなく、僕はそのままコーヒーの香りが漂うリビングでだらだらと過ごし、恋子は自室へ。結局、忙しいとか言っといて家にいるんじゃないか、あいつ。
リモコン片手にチャンネルを適当に変える。
「あ、またデンジャラスゾーン。すげえな……」
たまたま目に留まった番組に、さっきのミニライブにも出てたデンジャラスゾーンとやらが出演している。三人組の男性アイドルグループということで、僕の学校の女子生徒の間では、かなり人気がある。学校指定のカバンに、このメンバーの名前をマジックペンで書いたり、携帯の着信音がこのグループの曲だったり。
とにかく、もの凄い人気があるのだ。
しかし、男の僕からすれば、「はあ? これの何が良いの?」と、思う。批判する気はないにしろ、まったくもって好きになれない。テレビを消して、昼寝をするべくリビングを出る。二階に僕らの部屋があるから、当然階段を上る。
「「あっ」」
二人同時に声をあげた。ちょうど階段を上り終えたところで、恋子が部屋から出て来たのだ。どうせまた、機嫌の悪そうな顔をしているんだろう。
と思ったけど、違う?
何かに焦っているというか、怯えているというか、いつもの恋子とは明らかにかけ離れた姿がそこにはあった。
「どうかしたのか?」
「あんたには関係ない……」
「関係ある」
僕がそう言うと、恋子は声を荒げて言った。
「あんたに何が分かるっていうの⁉ もういい。早く消えて」
僕を押しのけるようにして、恋子は階段を下りた。恋子の部屋の扉が半開きなことに気づき、僕は何ともなしに入ることに。
アロマでも焚いているのか、ずっとこの部屋にいると頭が痛くなりそうなほどに甘ったるい匂いが充満している。久しぶりに恋子の部屋に入ったが、特に以前と変わったところはない。ピンクを基調としたこの部屋は、正しく女の子の部屋という感じだ。
もしかしたら、恋子の異変の原因がこの部屋にあるかもしれないと思ったものの、やはり何もなかった。去り際に床に落ちていた手紙を拾う。宛名には、東條恋太郎さんへと書いてある。
「東條恋太郎、って誰だ?」
さすがに中身まで確認するわけにもいかないので、そっと元あった場所に戻す。
結局、恋子が不機嫌な理由は何も分からないまま部屋を出た。今度こそは扉をきちんと閉め、僕は自分の部屋の前で立ち止まる。
「本当にあいつは……何考えてるのか分からん」
玄関の扉を開けるような音はしなかったから、リビングにでもいるのだろう。自室へ引き返すか、しつこいかもしれないけど、恋子に何があったのかを聞いてみるか。どっちを選ぼうと、面倒なことになる気がする。
もし、僕がこのまま恋子を放置したとしよう。
「あたしが困ってるんだから、少しぐらい励ませっつうの」
恐らくこうなる。しかし、だからと言って、恋子を励ましてやったとしよう。
「はあ? あんたには関係ないって言ったでしょ? まじ迷惑。うざいんですけど」
そう。要するに、板挟みな状況のわけだ。いわゆる無理ゲーというやつである。いや、クソゲーと言っても過言ではないね。主人公は僕で、メインヒロインは恋子。攻略不可能なギャルゲーなど、やっていて楽しいはずがない。これが妹を持つ兄貴の定めだと言うのなら、僕は声を大にして言いたい。
「お兄ちゃんを便利屋か何かと勘違いすんな!」ってな。
そういうのは万屋に頼め。きっと銀髪テンパーのおっさんが引き受けてくれるから。盛大にため息をつき、僕は上ったばかりの階段を下りる。どの道、恋子に罵倒されるのであれば、少しでも好感度の上がる方を選ぼう。
いや、違うか。
きっと僕は、困ってる恋子を放っておけないんだ。恋子も恋子だが、僕も僕である。こうして優しくしてあげるから、恋子はどんどんわがままになるのだろう。
分かってはいるけど、仕方がない。
どうせ恋子に、「本当にあんたってシスコンだよね」と言われるのが落ちだが、僕は恋子が可愛いんだ。そうだな。僕はシスコンだ。もうどうしようもないほどに。けど、下手したら恋子も、ブラコンなのかもしれない。ごちゃごちゃと考えながら、僕はリビングへと入る。
案の定、恋子はソファーで体育座り。あれはかまって欲しい時の合図。
「なあ、恋子。どうした? 何か嫌なことでもあったのか?」
恋子は膝に顎を乗せ、不貞腐れたような態度である。
「別に。あんたには関係ない」
ほらな。こう言ってくると思った。
「僕には関係ないのかもしれない。けど、お前が困ってるのに放っておけないだろう」
「まじキモイ。どんだけシスコンなわけ」
「そういうお前だって、ブラコンじゃないか」
顔をいきなり上げて、反論、ていうか猛抗議をしてきた。
「はあ⁉ あたしのどこがブラコンなわけ? 適当なこと言わないでよ! あたしはあんたのことなんかそこら辺の小石ぐらいにしか思ってないんだから!」
「小石って……、それもう生き物ですらないじゃん……」
いまさらになって後悔した。触れない神に祟りなし、じゃないけど、やっぱり恋子のことは放置しておくべきだった気がする。とは思っても、時すでに遅し。なかば投げやりな感じで僕は言った。
「それで? 何をそんなに悩んでるんだ?」
「しつこい。あたしは言いたくない」
「言わないなら、ハグしちゃうぞ?」
「……」
なんだろう。これほどまでに冷たい視線を浴びせられたのは、初めてかもしれない。
「と、とにかくだな、お前に落ちこまれると、僕にまでそれが影響するんだよ。だから、さっさといつもの調子に戻れよな」
「なに? 迷惑って言いたいの?」
「そうは言ってない」
「でも、遠回しにそう言ってるじゃん……」
しょぼんと表情を暗くさせ、さらに落ち込む恋子。これだから女は面倒だ。
「いいか、恋子。僕はお前のお兄ちゃんなんだから、お前の面倒を見るのが役目だ。お前が困ってたら助けるし、泣いてたら慰めてやるよ。だからさ――」
恥ずかしい気持ちを抑え、僕はしっかりと目を見て言う。
「もっと僕に頼れ。お前は少し、自分で何でも解決しようとするきらいがある。背負い込みすぎなんだよ、いつもいつも」
恋子の口ぶりからでも分かると思うが、かなり強気な性格なため、なかなか悩みだったり悲しみを人に見せようとはしない。いや、こんな風に体育座りをして拗ねているから、見せることは見せるんだけど、自分の口からは弱音を吐こうとしないっていうのか。僕がしつこく聞いてやることで、背負い込むのを諦め、ようやく話をしてくれるわけだ。だからもし、僕がこうしなければ恋子はいつまで経ってもへこんだままである。
手のかかる妹だよ、本当に。
「それじゃあ、さ……」
貝みたく頑なに閉ざしていた口を開いた。
「もしあたしが……アイドルなんだよねって言ったら、あんたどうする?」
思わず僕は吹き出す。
しかし、恋子にきつく睨みつけられたことで慌てて持ち直した。
「ご、ごほん。そうだな……まあ、驚くだろうな」
「それだけ?」
それだけって言われてもねえ。逆に「お兄ちゃんはアイドルなんだ、てへ」って言われたらどう反応するんだよ。絶対、抱腹絶倒するだろこいつ。僕は適当な言葉で取り繕う。
「あとは……尊敬、するかな」
「そっか……ふうん、そっか。あんたにしては上出来な返答じゃん」
今にも鼻歌を歌い出しそうな程、恋子は顔色を明るくした。単純な性格だ。
「お前がアイドルだったらの話だから。勘違いするなよ?」
「分かってるって。じゃあさ、次の質問!」
さっきまでの態度が一変し、嬉々とした顔で恋子は言う。
「あたしがデンゾのメンバーだって言ったら、あんたどうする?」
「デンゾ?」と、おうむ返しに聞くと、恋子は顔を顰める。
「はあ? あんたデンゾも知らないの? デンジャラスゾーンのこと」
デンジャラスゾーン……。ああ、さっきテレビで観たやつか。なるほど、デンジャラスゾーンを略してデンゾ。実に綺麗な略称である。それはいいとして、女性から圧倒的な人気を誇るあの男性アイドルグループのことだ。だが、僕は今の恋子の言葉を聞きますます「嘘だ!」という思いが強まった。
「おいおい、お前がそのデンゾのメンバーだって? 冗談にも程があるってもんだ」
不機嫌なのかそうじゃないのかよく分からない顔をする恋子。
「なんでよ?」
「だってあれは、男性アイドルグループだぞ? お前は女だから、なあ?」
振り子のように人差し指を左右にちらつかせる。
「ところが、そうでもないんだよねえ」
「どういうことだ?」
トランポリンを使ってジャンプするみたく、恋子は勢いよくソファーから立ち上がると、両手を広げ自慢げに言った。
「実は……あのデンゾはね、みんな女性なわけよ!」
「ないない。それはない。万が一にもない。あり得ない絶対にない」
否定に否定を重ね、僕は鼻で笑う。
「ちょ、ちょっと。そこまで否定しなくてもいいじゃん……」
どうしてこんな嘘をついたのかは知らないが、僕はちゃんとこの目で確かめた。さっき見た番組のデンゾのメンバーは、どっからどう見ても男性である。
だいたい、恋子がテレビに出たりしたら、すぐに僕は気がつくはずだ。いや別に、シスコンだからとかそういうことじゃないよ?
「お前がその、デンゾのメンバーだって証拠は?」
「証拠……か」
こめかみを押さえ、恋子はうんうんと呻る。
「どうしてこんな分かりやすい嘘をつくのかねえ……」
「嘘じゃないもん」
もん。可愛い。
「じゃあ証拠」
「ちょっと待てっつうの。いま考えてるんだから」
頭を悩ませる恋子を尻目に、僕は想像してみた。恋子が男装して踊る姿。まあ、有り得なくはないか。ていうか、男装した女性が歌って踊るグループは確かに存在するわけだから、無理な話ではないはず。それにしても、恋子は声が低い方ではなくむしろ高い方だから、すぐにばれそうなもんだけど。と、そこで僕は、大事なことを思い出した。
女性が男装する際に、最も隠すのが難しい個所。それは、胸だ。どんなに上手く化粧をしても女性特有の、あの胸囲だけは誤魔化せない。
まじまじと見るわけにもいかないから、僕はそれとなく恋子の胸を見た。やっぱり、あの胸じゃ男装は無理……でもない。
いや、いける。あれならいけるぞ!
いまさらだが、恋子の胸はまな板で塗り壁であることを忘れていた。
ずっと昔に恋子と喧嘩をした際、「このペチャパイ貧乳塗り壁が!」と悪口を言ってやったら、もの凄い勢いで顔面を殴られたことがあったっけ。そんな昔のことを思い出し、なんだかヒリヒリと古傷が痛みだす。
「あ、そうだ!」
右の頬を押さえている僕を指さす。
「今から歌ってあげるよデンゾの曲。それならちゃんとした証拠になるでしょ?」
「あ、ああ。そうだな」
廊下は走るなじゃないけど、我が家は走るなの家訓を無視し、恋子はリビングの方へ駆けていく。何やら探し物をしている様子だ。その姿をしばらく見守り、待つこと約一分。
使い切ったサランラップの芯を片手に、恋子はこちらへやってきた。僕にソファーに座るよう促すと、恋子は咳払いを一つ。
「それじゃあ、聞いてください。デンゾの新曲です」
「……!」
僕は息を呑んだ。いきなり雰囲気の変わった恋子を前にして、まさかという思いが全身を稲妻のように走り抜ける。大きく息を吸い込むと、恋子はサランラップの芯を強く握りしめた。この状況を文字だけで説明すれば「どんなコメディーだよ!」とツッコミたくなるかもしれない。いかんせん、恋子が握っているのはマイクではなくサランラップの芯だ。
しかし、しかしだな、僕にはしっかりと見える。恋子の片手に握られたマイクが、きっかりしっかり見えるんだ。
歌声が恋子の口から紡がれていく。
初めて歌っている姿を見たが、一言であらわすとすれば、下手糞である。これだけの雰囲気がありながら、こうも音痴な歌を聞かされると一瞬面を食らってしまう。
だが、それもわずかの時間。
下手なはずなのにどうしても聞き入ってしまう。魅力があるというか、見ているこちらまでが幸せになれる、そんな感覚。次第に恋子も乗って来たのか、振付を交える。踊りの方は、さすがにアイドルだと言い張れるだけの実力があり、素人目から見ても、凄い、圧巻だ。気づけば僕は手拍子を始め、このリビングがまるでライブステージであるかのように錯覚してしまった。
さあ、いよいよラスト。
これを最後に、死んでしまうのではと思うほどに全力。どこまでも全力である。僕がすっかり忘れてしまった、小学生の時に感じた高揚感。毎日が楽しくて、毎日が刺激的で、あの時に感じた思いを恋子が代弁するかのように、歌とダンスで表現してくれる。
あっという間の時間。
肩で息をしながらニコリと笑った恋子を目にし、僕はできる限りの拍手を送った。
もっと見たい。もっと、もっと。
「恋子……お前は本当にデンゾのメンバーなんだな! すげえよ、感動したよ!」
そこには東條恋子の姿はなく、デンゾのメンバーとしての恋子の姿があった。
「サンキュー兄貴。東條恋太郎……それが俺の名前だ!」
「え?」
興奮が一気に冷め、何が起きたのかと僕は戸惑う。
「あ、ご、ごめん……。つい、癖でやっちゃった……」
「あ、ああそういうことか。今のはデンゾのメンバーに成り切ったわけね」
「そういうこと……。ま、まあ気にしないで!」
微妙な雰囲気が流れ、互いに黙り込む。僕はこういう時間が一番苦手である。何かを話すべきなんだろうけど、何を話せばいいのか分からない。それは友達のみならず、妹の恋子とて同じことだ。しばらく無言の時間が続いたところで、口火を切ったのは恋子。
「その、どうだった? あたしのステージ楽しんでくれた、かな……?」
不安な感情を隠せず、恋子はかなり緊張した面持ちで僕の意見を待った。
「まあ、なんだ……素直に感動したよ。柄じゃないけど……アイドルって悪くないなって、そう思えた」
恋子はほっと胸を撫で下ろし、その場に崩れ落ち女座りをした。
「よ、よかった……。もしかしたら、信じてもらえないかもって思ってた……」
あれほど完璧な歌と踊りを披露してもなおやはりプロ意識というものなのか、納得のいくライブではなかったようだ。とんだ大物である。バストは小さいけど。
「疑って悪かった。お前は正真正銘のプロだよ。僕はお前のことを、ちょっとばかし尊敬しなくちゃな」
冗談めかして言ったつもりが、恋子は本気に捉えてしまったようで。
「当たり前でしょ? あんたはもっとこのあたしを敬いなさいよ、今すぐに」
「はいはい。それを言うならお前だってそうだろ。もっとお兄ちゃんを敬えっての」
どこら辺を敬えばいいのか自分でも疑問だが。それはいいとして。
いつもであれば、ここで軽い小競り合いが始まるところだが、今日はどうやら違うみたいだ。二人して笑い合う。これが兄妹のあるべき姿なんだ。心から僕はそう思えた。




