あんパンは伊達じゃない その③
事件が起きたのは、ライブ開始十分前。
予定開始時刻を少し過ぎるかもしれない、という内容のアナウンスが流れたのだ。
幸い、中止ではないようなので、ファンの人たちは取り乱したりはせず、冷静に対応していた。
「どうしたんだろう……」
心配そうな春香を見て、僕は言った。
「ちょっとしたトラブルでもあったんだろう」
と、自分で言っておきながら、恋子と玲緒奈が喧嘩をしていたことを思い出す。まさか、あのままいざこざが長引き、ライブに支障をきたすはずはないだろうけど。
やっぱり、心配になってくる。
「悪い、トイレ行く」
春香に一言だけ言い残し、トイレに通じる扉の隣にあるもう一つの扉、つまりは、僕は再度、関係者以外立ち入り禁止の扉を開いたのだ。怒られたら謝ればいいだけ。
状況を把握できるか分からないが、それでも、恋子はデンゾのメンバーである前に、僕の妹なわけだ。
役に立たないのは重々承知だが、ちょっと様子だけでも見に行こうと僕は思う。
「恋子ちゃんのお兄さん来てるんだろ⁉ さっさと探してこい!」
扉を開くとすぐ、怒声が行きかう現場に遭遇。僕のことを探しているらしい状況にドキリとしたが、そのまま歩みを進める。
「あのー……」
無線で誰かと連絡をしている一人の男に話しかける。
「僕がその、恋子の兄なんですが――」
「本当か⁉ よかった、いま君を探していたところだったんだ」
「え? わわ……! ちょ、ちょっと……?」
突然僕の腕を掴み、小走りで廊下を駆ける。意味が分からず、されるがままに走ると、ガヤガヤとした集団が視界に入った。
その中に裕理や玲緒奈の姿があったので、僕は男の腕を払い除け駆け寄る。
「どうした⁉ 何があった⁉」
一斉にこちらに視線が集まり、みんな同じような反応をする。
「恋子の兄貴! ちょっと今ヤバイんだよ……」
真っ先に話しかけてきたのは玲緒奈。
「ヤバイって何が? しっかり説明してくれ」
玲緒奈を押しのけ今度は裕理が。さすがにライブ直前ということあって、裕理は既に男装をしていた。
「戻らないの……」
「戻らない?」
真っ青な顔して裕理は大声で言った。
「恋子から恋太郎に戻れなくなったの!」
これだけ切迫しているのに、理由を聞いてみれば、なんともしょぼい落ちだ。
「そのうち戻るだろ」
「そのうち戻らないからこうして困ってるんでしょ⁉ このバカ兄貴!」
地べたに体育座りをする恋子。なるほど、困っているのは確かなようだ。もう知っているとは思うが、恋子は悩んだり緊張したり、追い詰められるとこうして体育座りをする癖がある。
僕は恋子に視線をあわせるため、腰を屈めた。
「それなら、いつも、恋子から恋太郎になる時は、どうしてるんだよ?」
「分かんない……」
「分かんない? いやいや、そんなはずがないだろ」
せっかく綺麗に髪の毛を整えてもらったのに、既にぐちゃぐちゃだ。きっと、頭を掻き毟ったりでもしたのだろう。
恋子は上目づかいで言った。
「意識してやったことないから……分かんないもん……」
可愛い。じゃなくて。困った、実に困った。とりあえずやって来たはいいが、僕にどうこうできる問題じゃない気がする。
裕理と玲緒奈に僕は言った。
「裕理、玲緒奈。お前たちはいつも、男になる時に意識してることはあるか?」
「うーん」
玲緒奈は言う。
「俺はもう、男装すればそれで、玲緒奈からレオになれるから、特に意識することはねえな」
続いて裕理。
「私は、時間をかけて裕理から裕に変身するかな」
「例えば、どういうことするの?」と、僕は言った。
裕里は長く伸びた後ろ髪をサッと払う。
「デンゾの歌を口ずさんだり、振付の確認をしていくうちに、気づいたら裕になってる感じだと思う」
結局、玲緒奈にしても裕理にしても、無意識レベルで男になれるわけだ。
きっと、恋子も今までそうしてきたのだろうから、恋太郎になれないとなれば、どうしようもない。
「ねえ、兄貴」
恋子は言う。
「あたし……どうすればいいのかな……?」
恋子の顔をよく見てみれば、涙の跡が薄らと残っている。
「一回、落ち着いてみたらどうだ?」
「はあ⁉ ライブまであと五分もないんだよ? これで落ち着けるわけないでしょ!」
「だから落ち着けって言ってるんだよ」
あくまでも冷静に、そして、できる限り低い声で僕は言う。
「そうやって焦れば焦るほど、悪循環に陥るだけ。だからいったん、落ち着け」
恋子は目を丸くし驚いたが、すぐに頷き言った。
「わ、分かった。あんたの言う通りかも……」
僕はしばらく屈めていた腰を上げ、振り返る。
「すいません。少しだけ、少しだけでいいので、恋子を貸してもらえませんか?」
当然、僕は頭を下げた。同時に、全ての責任も引き受ける覚悟を決める。
ここは学校じゃない。大人の社会なんだ。
恐らく、このまま恋子を借りたとして、結局なにも事態を変えることができなければ、僕は怒られるだろうし、下手したら責任を負わされるかもしれない。
「君なら、恋子さんを恋太郎さんに戻せる、そういう解釈で、いいんだね?」
一番偉い人だと思しき人が、やたらと鋭い目つきで僕を捉える。
「ええ」
「責任を取る覚悟……もちろんあるよね?」
案の定、男は責任について言及。だが、もう決めた。もう僕は決めたのだ。
僕はきっと、恋子が大切なのは当たり前として、デンゾの時の恋子も大事なんだ。リビングで披露してくれた、ミニライブ。あれを目の当たりにし、心を奪われた。
もっと見たい。確かにそう思えた。
忘れかけていた気持ちを、恋子は思い出させてくれたじゃないか。まあ、あの日から僕の人生は、大きく動き出すようなこともなければ、いつもと変わらないのは事実。
挙句の果てには、沢城からエロ本を借りたり、授業についていけず寝たり、下手したら悪化しているとも言える。
でも、それでも、前より人生が楽しく思えるのもまた事実だ。
裕理や玲緒奈と出会い、恋子の思わぬ一面を知り、灰色だった僕の瞳は、徐々に徐々に虹色に輝き始めた……気がする。
とにかく、僕は恋子に少なからずの感謝をしているのだ。
僕は拳を強く握りしめ、この男に負けないぐらいの目つきで言ってやった。
「ありますよ。恋子のことは全て、僕に任せてください」
「ちょ、ちょっとあんた……⁉ 自分がなに言ってるのか分かってるの……?」
勢いよく立ち上がり、恋子は僕の顔に顔を近づける。
「分かってる。僕もそこまでバカじゃない」
「はあ⁉ あり得ない……まじあり得ない……」
男は親指を突き立て、「任せた」とだけ言った。
「恋子」
僕は恋子の肩を掴み言う。
「ちょっと僕についてこい」
なかば強引な形で恋子を連れていく。
「あ、あんた……どこ行くつもり?」
「静かな場所。お前とちゃんと、話せるような場所だ」
しばらく歩くと、ようやく人気のない廊下に到着した。
「それで、あんた……どうするつもり?」
「何も考えてない。いわゆる、ノープランってやつ?」
「んなこと言ってる場合⁉ あんた下手したら、全責任負わされるかもしれないんだよ?」
「分かってる。とりあえず、恋子、後ろ向け」
戸惑いながらも、恋子は僕に背中を向けた。僕は、この細い身体を優しく抱き寄せる。カップルがやるようなハグではなく、母親が子供をあやすように、優しく。
僕にやましい気持ちがないのを理解したのか、恋子は黙って僕に身体を預けた。
「僕はさ、こう思うんだよ」
恋子はわずかに首を動かす。
「お前はたぶん、東條恋子と、東條恋太郎を別物として考えてるだろ?」
「そう……かもしれない」
「けど、どう考えても、二人は同一人物。恋子も恋太郎も同じだ」
「それで……?」
「考えてもみろ。玲緒奈も裕理も、女の時と男の時とで、大した違いはないだろ?」
恋子は首を傾げ、「どういうこと?」と、言った。
「つまり、あいつらは、口調こそ多少の変化はあるけど、基本的にいつもと変わらないんだよ」
「まあ、確かに。言われてみれば……そうかも」
ここで僕は、恋子から離れる。
「簡単な話だよ。東條恋子はどこまでいっても、たとえデンジャラスゾーンになっても、結局は東條恋子なんだ」
季節外れの紅葉を頬に散らし、恋子は目線を下にした。
「ほんと……そんなこと言われなくても分かってるっつうの」
恋子は一瞬だけ、笑った。
「はあ……まったく。俺としたことが、こんな兄貴の世話になるとはな」
ようやく恋子は覇気を取り戻し、男勝りな顔つきになる。
「手のかかる妹だよ、お前は」
僕はほっと胸を撫で下ろし、恋子の背中を軽く押す。
「行ってこい。ファンの皆が、待ってる」
「言われなくても分かってる。んじゃ、行ってくるよ、兄貴――」
「随分と長いトイレだったね。お腹でも壊したの?」
のほほーんとした笑顔の春香。
「まあな、ちょっとばかし、手間取った」
「そっかぁ、お疲れ様、月人君」
横目で春香を見れば、全てを悟ったような表情である。僕が恋子のために、奮闘していたことを知っているはずはないのだろうけど。
まるで僕の心が見透かされたようで、気味が悪い。
「あ、見て見て! 恋子ちゃんたち出て来たよ!」
両手をバタバタとさせ、他のファンと同様に興奮状態。僕はすっかり疲れていたので、腰を椅子に落ち着けたまま、ステージへと視線を移す。
「待たせたな! お前ら!」
玲緒奈の一声を皮切りに、黄色い歓声が沸き起こる。
「今日はいつも以上に全力で行くぞぉぉぉぉぉ!」
すっかり調子を取り戻した恋子は、観客席へとマイクを向け煽る。
「それじゃあ、まずはこの曲」
リーダーの裕理がそう言った瞬間、一気に場内は静まり返る。恋子を含めた三人は目をつむった。
わずかにライトが落ちると、爆発音と共にステージから白い煙が渦を巻き、メンバーを包み込む。
僕は息を呑んだ。
視界が良好になり、メンバーを確認するもステージから姿が消えていた。
ファンがざわつき、会場が少し混乱した刹那、音源が流れ、メンバーが一斉にステージの下から飛び出す。
「すごい、すごいよ月人君!」
「そうだな……本当にあいつは、すごいよ」
僕はため息を一つ。
ライブは予定よりも多少、遅れてしまったが、僕の奮闘もあり、どうにかこうにか開始されるのであった。




