プロローグ
朝の駅の匂いが好きだった。正確には行き交う人々に醸し出される朝の息吹きだったかもしれない。
スタンドで買ったコーヒーの湯気に浴しながら、構内を行く人々のそれを遠巻きに感じる。
目覚めたばかりの人々が、店に、会社に、学校に、まとわりつく眠気を散らしながら足早に動いていく。
それは生まれたばかりの朝で、喧噪の中にも一日に臨もうとする生の雰囲気が秘められている。そしてそれが幾重にも重なって駅にある独特の生の息吹きを作り出す。
学生、作業員、サラリーマン、店員……
これだけ大勢の人が喧噪を作り出しながら、一人一人の独立した人生が交錯しているのだ。
(これって一つの文化じゃないか。形はないけど)
そっと、温い甘みのある苦汁を飲み下して思った。
(自然に出来上がって日々の一場面を織りなす……)
地下に降る階段のそばに佇む制服の少女は、友人でも待っているようだ。早足で歩く背広姿の男の視線は朝食をとれる場所を探っている。
地響きのような唸りとともに電車の姿が見え隠れし、それは忙し気に一日を過ごす鉄の馬車の荒い吐息でもある。彼の内に迎え入れる乗客と同じく、一日に挑む姿勢の現れでもあるのだ。
発車ベルが甲高く響く。その音が空気を震わすと幾人かが何かに追い立てられるように走っていった。
……群衆の中の一人としていると、駅の匂いを感じることができない。昔の自分もそうだった。
ぼんやりと思い起こす。
ともすれば目覚めたばかりのぼうっとした頭の中で、時刻を気にする慌ただしさの中で、埋もれてしまうのだ。
その中にいると、そこにある目に見えない何かを感じることができない。
今のように駅を織りなす一人でありながら一歩引いて見れるのが一番なのかもしれない。
清新な目覚めの息吹きを感じ、同時にゆっくりと味わい……
「何ぼやっとしてんのよ」
明るくよく通る声が私の物思いを破った。美里はリスのような黒目をくるくるさせて、奥のガラス張りの部屋を指差した。
「聞いてきたわよ、あれ」
「えっ、え?」
回想に浸っていて現実に戻るのに時間が戻る。美里はあきれたように頬をふくらませた。
「もう、しっかりしてよ。時刻表のことよ、あの幽霊電車」
「ああ、あれな」
「時刻表、分かる人がいたのか」
「うん、駅長さんにも聞いたもん」
「駅長さんが? よく相手してくれたなあ」
いつもながら美里の行動力に愕然とする。
「窓口の人に事情話して、深夜に不思議な電車が線路走ってたんですって押し問答してたらね、中に通してくれて。ほら」
名刺をひらひらさせる。ここの駅長さんのものらしい。よく忙しい時間に妙ちきりんな話に付き合ってくれたものだ。こいつの押しの強さというか変な社交性には脱帽する。
「だって聞いてこいっていったじゃない」
「まあ、それは時刻表のことでだな……」
「窓口の人がよく分かんないって言うから責任者出してくださいって言い続けてたのよ。そしたらちょうど通りかかって話聞いてくれて。運が良かったわ」
「おまえは将来生保レディにでもなったがいいぞ。いい契約とれる」
美里はけらけらと笑った。いつもながらの快活さが弾けている。
私は気を取り直して聞いた。
「それで結局はどうだったんだ。あの電車の話」
すると美里は顔をしかめて首を振った。やや真剣な表情になる。
「やっぱりね、ありえないらしいの。そんな夜更けの時間……あの路線に電車は一切走らせてませんって」




