第38話「四天王の整列」
先頭の使者が立ち上がった。
黒と深紅の礼装が、待合室の蛍光灯の下で場違いなほど鮮やかだった。四天王直轄の紋章が胸元で鈍く光る。
足音は静かだった。
カウンターの前で止まり、番号札をトレイに置いた。それから、両手で書類束を差し出した。
仮担当職員は、その所作に目を奪われた。
魔族の上位種だった。角の形状から判断する限り、魔王軍でも最上位に近い血筋。その存在が、人間の窓口カウンターの前で、書類を両手で——。
ユースは書類束を受け取った。
表紙を開く。申請種別、補給契約更新。起算番号、承認参照、契約主体名。一枚目を読み終え、二枚目をめくる。
三秒。
四枚目の途中で、ユースの手が止まった。
「眷属登録台帳の参照番号が旧体系です」
声に抑揚はなかった。
「特例期間中に付番された承認番号は全件失効しています。新体系での再取得が必要です。差戻し」
書類束がカウンターの上を滑って、使者の手元へ戻された。
使者は書類を見下ろした。
一拍の沈黙。
「——承知した」
それだけだった。書類束を抱え直し、踵を返す。待合椅子へ戻り、腰を下ろし、束の四枚目を開いた。
仮担当職員の手が、端末の上で止まっていた。
カウンターの内側で、ユースはもう次の番号を呼んでいた。
*
二番札の使者は、先頭の使者より一回り小柄だった。
ただし纏う気配は薄くない。四天王直轄紋章の位置が、先の使者よりわずかに高い。序列が上だということを、仮担当職員は紋章学の基礎知識でかろうじて理解した。
書類束がカウンターに置かれた。
ユースが手を伸ばすより先に、隣席のセフィアが端末を操作した。
「教会照合の記録を出しますね」
セフィアの声は柔らかかった。笑顔すら浮かんでいた。
画面に照合結果が表示される。眷属登録台帳の原本記録と、使者が提出した契約書の間で、セフィアの指がゆっくりと行き来した。
「あら」
その一言で、使者の指先がわずかに強張った。
「こちらの召喚獣維持契約ですが、契約主体の眷属登録日と、承認時刻が逆転していますね。登録される前に承認が下りている計算になりますが——」
セフィアは小首を傾げた。おっとりとした所作だった。
「時を遡る認可は、さすがに弊窓口では扱いかねます」
使者は何も言わなかった。
ユースが書類束の表紙に差戻し印を押した。朱い印影が乾く間もなく、書類は使者の手に返された。
使者は受け取り、一礼して下がった。
仮担当職員は、セフィアの笑顔が一度も崩れなかったことだけを鮮明に覚えていた。
*
三番札。
この使者は、前の二人と明らかに姿勢が違った。
書類束を差し出す手つきに、ためらいがなかった。むしろ自信があった。体裁はきちんと整えてあるという確信が、その動作の滑らかさに表れていた。
ユースは受け取り、開いた。
一枚目。問題ない。二枚目。形式は正しい。三枚目——。
ユースは三枚目を読み終えた。四枚目をめくった。五枚目。六枚目。
使者の目に、かすかな期待が浮かんだ。
ここまで止まらない。体裁だけではなく、番号体系も新しい。前の二人の不備は聞こえていた。同じ轍は踏まない。そう判断して書類を組み直してきたのだろう。
七枚目。
ユースは七枚目を裏返し、カウンターに置いた。
「この補給契約の起算根拠になっている承認番号ですが」
使者の目が、裏返された紙面に落ちた。
「元の承認は、失効済みの特例処理に接続しています。番号体系だけ新しくても、根が消えていれば枝も立ちません。差戻し」
使者は口を開きかけた。
開きかけて、閉じた。
根が消えている。
その意味を、この使者は正確に理解したのだろう。体裁ではなく、起算の根そのものが存在しない。書類をどれだけ美しく整えても、土台が失効していれば最初の一行から無効になる。
使者は書類束を受け取り、無言で下がった。
今度は待合椅子に座らなかった。立ったまま七枚目を睨んでいた。
*
四番札が立ち上がった。
待合室の空気が、わずかに重くなった。
他の三人の使者が、一瞬だけ視線を上げた。
四番目の使者は、四人の中で最も長身だった。礼装の仕立てが違う。紋章の位置は胸元の最上部。四天王本人ではないが、直属の第一代理——実務上の全権を委ねられた格の人物。
カウンターの前に立った。
書類束を置いた。
ユースが手を伸ばす。
一枚目。二枚目。三枚目。
セフィアの端末に照合データが表示され、彼女の目が画面を追った。
四枚目。五枚目。
ユースのめくる速度が、ほんのわずかに落ちた。
仮担当職員は気づかなかった。セフィアだけが気づいた。
六枚目。七枚目。八枚目。
ほぼ完璧だった。
番号体系は新規取得済み。起算根拠は特例に接続していない独立系統。眷属登録日と承認時刻の整合も取れている。契約主体の記載、代理権限の添付、照合用の副本——すべて揃っている。
ユースは最後の一枚をめくった。
そして、添付書類の末尾に視線を止めた。
「照合番号」
使者の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
「副本の照合番号が、旧体系のまま残っています」
沈黙が落ちた。
「本文書類はすべて新体系で統一されていますが、副本の照合番号だけが更新されていない。参照先が食い違う以上、受理はできません」
ユースは書類束を閉じた。
「差戻し」
四番目の使者は、目を閉じた。
長い沈黙だった。三秒か、四秒か。
目を開けたとき、その瞳にあったのは怒りではなかった。
「——副本の照合番号一つで、全体が止まるのか」
問いかけではなかった。確認だった。
「止まります」
ユースの声には、相変わらず何の色もなかった。
使者は書類束を受け取った。
「よく見る」
それが賞賛なのか嘆息なのか、仮担当職員には判断がつかなかった。
使者は踵を返し、待合椅子へ向かった。
*
四人の使者が、待合室に戻っていた。
全員が書類を開いていた。
一番札の使者は椅子に腰を下ろし、四枚目に赤線を引いて修正案を走り書きしていた。二番札の使者も椅子で、セフィアが指摘した時刻の逆転を原本と見比べながら確認していた。三番札の使者だけは座らなかった。壁際に立ったまま、七枚目の起算根拠を遡る作業に没頭していた。四番札の使者は椅子の端で副本だけを取り出し、照合番号の一覧を静かにめくっていた。
誰も声を上げなかった。
誰も窓口に文句を言わなかった。
仮担当職員は、端末の前で指を止めたまま、その光景を見ていた。
魔王軍の四天王直轄の代理人が。黒と深紅の礼装のまま。王都中央庁の待合室で。書類を直している。
彼が中央庁に配属されてから、勇者パーティーの使者が窓口で机を叩くのを何度も見てきた。怒鳴り声。特例要求。俺が誰だか分かっているのか。
この四人は、そのどれもしなかった。
番号札を取り、呼ばれるまで待ち、不備を告げられ、書類を持ち帰って直している。
「すごいですね」
仮担当職員は、自分でも何がすごいのか正確に言語化できないまま、そう呟いた。
セフィアがちらりと待合室を見て、それからユースの横顔を見た。
「すごくはないですよ」
セフィアの声は穏やかだった。
「あの方たちは、ただ正しく理解しただけです。——ここでは、書類だけが通るということを」
ユースは端末に向かっていた。会話には加わらなかった。
処理中の案件を一つ閉じ、次の案件を開いた。
画面の端で、処理件数のカウンターがまた一つ進んだ。
*
四天王の使者たちが書類を直している間にも、窓口は止まらなかった。
通常案件が処理され、差戻し通知が発行され、失効確認が積み上がっていく。
ユースの右手は、午後の初めから続く処理の負荷で、わずかに動きが硬くなっていた。それでも処理速度は落ちなかった。硬い指先が端末を叩く音だけが、カウンターの内側に響いていた。
セフィアが照合結果を一件送り、次の参照記録を開いた。二人の間に余計な言葉はなかった。端末の操作音と、差戻し印の乾いた音。それだけで窓口は回っていた。
午後の光が傾き始めた頃、フロアの連絡口から伝令が一人入ってきた。
手に抱えているのは、封蝋付きの書類束だった。
宛先は第三窓口。差出元は——。
仮担当職員が封蝋の紋章を見て、息を止めた。
監督院上層部。
釈明書だった。
ギデオンの特例処理に関与した上層部門からの、経緯説明と責任範囲に関する文書。伝令は書類束をカウンターの受付トレイに置き、足早に去った。
ユースは端末から視線を動かさなかった。
処理中の案件を閉じた。
受付トレイの書類束に、一瞥だけを向けた。
それからまた、端末に戻った。
セフィアはその一瞥の意味を理解していた。封蝋を開けるまでもない。中身がどういう種類の文書か、差出元と書類の厚みだけでもう読めている。
ユースは現在の案件処理を続けた。
待合室では、四天王の使者たちがまだ書類を直していた。受付トレイには上層部の釈明書が載っていた。端末には処理待ちの案件がまだ並んでいた。
すべてが順番を待っていた。
勇者も、魔王軍も、上層部も。
この窓口では、誰もが同じ列に並ぶ。
ユースは処理を終え、次の案件ファイルを開いた。
「次の方、どうぞ」




