第36話「悪徳官僚、合法的崩壊」
足音が近づいてきた。
一つではない。二つ。規則正しく、迷いのない歩調。
第三窓口のドアが開いた。
監査局員が二名、フロアに入った。先頭の男は細身で背が高く、灰色の監査服の襟元に銀の局章をつけていた。その後ろに、書記官らしき女性が帳簿を抱えている。
先頭の監査局員は、フロアを一瞥した。
空中に固定されたままの聖剣。柄を握って立ち尽くすアルヴェイン。壁際で座り込んだギデオンの部下二名。壁に背をつけた仮担当職員。
そして、床に両手をついたまま動かないギデオン。
監査局員の視線がギデオンで止まった。
「財務監督院法務局次長、ギデオン・ヴァルカス」
低い、しかし明瞭な声だった。
ギデオンの肩が、びくりと跳ねた。
「監査局より通達します。本日付で、以下の措置を執行します」
書記官が帳簿を開いた。紙がめくれる音だけが、静まり返ったフロアに落ちた。
「第一。臨時戦時特例に係る全案件の即時凍結」
ギデオンの指が、床の上で白くなった。
「第二。戦時一元運用に基づく権限再編の効力停止」
呼吸が聞こえた。浅く、不規則な呼吸だ。
「第三。法務局次長としての職務停止。本措置は、禁則条項違反、監督不全、権限濫用、および記録隠蔽の疑いに基づく正式調査の開始に伴うものです」
書記官が帳簿から一枚を引き抜き、ギデオンの前に差し出した。
受領署名欄。
ギデオンは顔を上げなかった。床に両手をついたまま、その紙の端だけを見ていた。
「……署名、ですか」
声がかすれていた。
「受領確認です。拒否される場合は、その旨を記録します」
監査局員の声には、温度がなかった。事務的で、正確で、それ以外の何でもない。
ユースが毎日そうしていたのと、同じ温度だった。
ギデオンの手が震えながら持ち上がった。書記官が差し出したペンを取り、紙の上に名前を書いた。文字は乱れていた。
*
ユースはカウンターの内側で、端末に向かっていた。
ギデオンの署名の音も、監査局員の通告も、すべて聞こえていた。だがユースは一度も視線を上げなかった。
端末の画面には、処理済み案件の一覧が並んでいる。三十七枚の失効通知。それぞれに紐づく認可経路、接続先、影響範囲。
ユースはその中から、七件を選んだ。
監査局への照会添付に必要な記録だ。余計なものは一枚もつけない。足りないものも、一枚もない。
右手がまだ強張っていた。指の関節が、連続処理の負荷を覚えている。だが動作に支障はない。
端末から記録を出力した。
一枚目。ギデオンが署名した事後包括特例承認の受理記録。日付、時刻、案件番号、署名者名。
二枚目。臨時戦時特例の認可経路図。誰が起案し、誰が承認し、どの案件に接続されたか。
三枚目。戦時一元運用の権限再編に関する決裁記録。第三窓口の裁量権剥奪が、どの条文に基づき、誰の決裁で実行されたか。
四枚目。越権防止命令の発令記録。
五枚目。辺境砦からの正式照会。前線記録との不一致を指摘するもの。
六枚目。地方薬師の流通台帳から抽出された、特例処理時刻との齟齬。
七枚目。教会照合特務室からの参照記録。セフィアの名前が、照合担当者欄に記されていた。
七枚。
ユースはそれらを揃え、端を叩いて整えた。クリップで留め、照会番号を記入した。
感情は、どこにもなかった。
怒りも、溜飲も、達成感も。
ただ、必要な記録を、必要な場所へ送るだけの作業だった。
*
監査局員が、壁際の二名に声をかけた。
「法務局所属の方ですね。事情聴取に応じていただきます」
二名のうち一人は、すぐに立ち上がった。天井を見ていた目が、ようやく焦点を取り戻している。
「……はい」
もう一人は、少し遅れた。立ち上がる前に、一瞬だけギデオンの方を見た。
床に座り込んだ上司の背中。
その視線はすぐに外れた。
「協力します」
二人は監査局員について、フロアを出た。
廊下では、先に出ていた報告役がすでに別の監査局員と話をしていた。声は聞こえなかったが、報告役は手元の書類を広げ、何かを指し示していた。
上司の指示を仰ぐ姿勢は、もう、どこにもなかった。
*
ギデオンは、署名を終えた後も動かなかった。
膝が床についている。両手は太腿の上に置かれ、背中は丸まっていた。
監査局員が一歩、近づいた。
「ヴァルカス次長。認可経路の照会過程で、複数の承認者名が浮上しています」
ギデオンの指が、太腿の上で僅かに動いた。
「臨時戦時特例の起案承認に関与した上位決裁者について、追加の照会を実施します。これは次長個人の案件に留まらず、関連する決裁権者全員を対象とするものです」
派閥貴族。
その名前が、認可経路の線をたどれば出てくることを、ギデオンは知っていた。自分が利用してきたパイプが、今度は自分から火を引き込む導線になる。
だが、もうそれを止める手段は何もなかった。
職務は停止された。端末へのアクセスは遮断されている。法務局の決裁権限は凍結されている。
かつてユースから奪ったものと、同じものを。
今度は自分が奪われている。
ギデオンは口を開いた。何かを言おうとした。
視線が、カウンターの内側に向いた。
ユースは端末の前にいた。照会添付用の七枚を処理し終え、次の案件に目を移していた。
ギデオンを見ていなかった。
声をかける隙間すら、そこにはなかった。
ユースにとって、ギデオン・ヴァルカスの崩壊は、三十七枚の失効通知と同じだった。処理すべき案件の一つ。感情を向ける対象ではない。
ギデオンの口が閉じた。
言葉は、出なかった。
監査局員が、静かに促した。
「別室での聴取にご協力ください」
ギデオンは立ち上がった。膝が一度、揺れた。
背を伸ばそうとして、伸びきらなかった。
フロアを横切る足取りは遅く、革靴の音だけが不規則に響いた。
ドアの前で、一瞬だけ足が止まった。
振り返らなかった。
振り返っても、窓口の向こうにいる男は、こちらを見ていないと分かっていたからだ。
ドアが閉まった。
フロアから、ギデオン・ヴァルカスの気配が消えた。
*
静かになった。
フロアに残っているのは、ユースと、アルヴェインと、仮担当職員だけだった。
アルヴェインは、まだ聖剣の柄を握っていた。空中に固定された刀身。光のない金属。
口が半開きのまま、何かを呟いていた。言葉にはなっていなかった。
ユースは端末を操作した。
アルヴェインの案件ファイルを開いた。
無認可聖剣行使。虚偽報告。公費不正使用。監査妨害。保護対象職員襲撃。
五項目。
ユースは各項目に、対応する記録の参照番号を紐づけた。辺境砦の補給記録、教会の治療時刻台帳、公費精算の二重計上記録、そしてたった今この窓口で起きた暴力行為の現場記録。
処理区分の欄に、ユースは入力した。
「正式審理回付」。
差戻しでも、却下でもない。窓口で裁ける範囲を超えた案件を、上位の審理機関へ送る処理だ。
端末が受理音を返した。
ユースの指が、エンターキーの上で一瞬止まった。
それから、次の画面へ移った。
端末の隅に、新しい通知が入っていた。
教会照合特務室からの送信。送信者名——セフィア・ルミナレス。
内容は短かった。
照合記録の最終確認完了。添付資料の整合性に問題なし。
そして、末尾に一文。
「第三窓口の復帰をお待ちしています」
ユースはその一文を読んだ。
表情は変わらなかった。
だが、強張っていた右手を開いて、一度だけ、握り直した。
端末の画面を切り替えた。
監督院からの緊急協議招集。第三窓口運用権限の復帰。そしてその先にある、魔王軍補給契約群への波及処理。
まだ終わっていない。
ユースは万年筆を胸ポケットから取り出し、手帳に一行だけ書いた。
魔王軍案件。未処理。
万年筆を戻した。
窓口端末の青い光が、変わらずカウンターを照らしていた。




