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5:幸せの在処

 キッチンでまどかと食事の用意をしながら、朝子あさこは自分の手を眺めて幸せを噛み締めていた。左手の薬指に輝く約束の証。世間ではこれを婚約指輪だと呼ぶのだ。そんなこと考えるだけで、胸の奥に温かな光が宿る。闇も影も跡形もなく払われて、こんなに幸せでいいのかと自分を戒めたくなるくらいだった。

 指輪を眺めてうっとりしていると、傍らのまどかが「綺麗ね」と声をかけてくれる。


「おめでとう、朝子ちゃん」


 まどかは心から祝福してくれる。もう何度祝いの言葉をかけられたのか判らない。今も自分達を祝う豪華な夕食を手がけてくれている。朝子は浮かれている自分が恥ずかしくなって、頬が染まるのを自覚する。


「それなら、私もまどかさんにおめでとうって言うよ」


 同じように、何度目になるか判らない祝福を送ると、まどかは嬉しそうに微笑みを浮かべた。


「ありがとう。だけど、もう朝子ちゃんには数え切れないくらい、言ってもらったわ」

「私もだよ。だけど、まどかさんとお兄ちゃんの子どもか。とびっきり可愛いんだろうな」

「あたしとしては、あきの幼少時代に似ていたら嬉しいんだけど」


 朝子はいつかのクリスマスにまどかに贈った写真を思い出す。映しだされた子どもの頃の兄は信じられない可愛さなのだ。思わず大きく頷いてしまう。


 まどかは昨日の宣言どおりに、今朝から実家の母親を訪れ、そのまま病院まで付き添ってもらって診察を受けたようだった。結果は見事にご懐妊である。

 彼女のお腹の中に新しい命が宿っているのだと思うと、朝子はそれだけで感慨が込み上げてきた。


「それにしても、最後までお兄ちゃんを欺きとおせるかな」

「大丈夫よ。朝子ちゃん達のお祝いだとしか思えない筈だもの」

「うん。今回ばっかりはそうかもしれない。本当に絶妙のタイミングだったね。お兄ちゃん、どんな顔するかな。うわー、ワクワクする」


 朝子が素直にはしゃいでいると、まどかも同じように「ドキドキするわ」と胸を押さえていた。

 幸い兄である晶は、今日も朝から出掛けている。帰宅の時刻については連絡があったので、もうそろそろ戻ってくるはずだった。


「お祝いの準備は万端ね」


 食事の用意が整って、まどかが満足そうに呟く。自分の部屋からダイニングへやって来た風巳も、「すごい」と飾られた食卓を眺めながら席に着いた。

 朝子も食卓を埋め尽くすほどのご馳走を眺めていると、幸せな空気を満喫できて嬉しさに拍車がかかる。

 三人で報告を受けた時の晶の反応をあれこれ想像していると、当の主が帰宅した。みんなで「おかえり」と迎えると、背後にもう一人誰かがいる。朝子はリビングに現れた人影を見て、思わず声をあげた。


吉川よしかわ君っ!」


 彼は相変わらず明るい金髪に日焼けした顔で、愛嬌のある笑みを浮かべる。晶が上着を脱ぎながら、簡潔に成り行きを教えてくれた。


「うちに用があるとかで途中で会ったから、そのまま連れてきた」

「どうも、お邪魔します」


 まどかは「丁度良かった」とすぐに食卓にとおるの席を設ける。料理はこれでもかと作り倒してあったので、一人増えたところで何の問題もない。晶は今夜の食卓が派手に飾られていることは予想がついていたらしく「さすがに、すごいな」と当たり前のように称賛していた。


「とりあえず、席について食事にしましょう」


 まどかに促されて各々が席に着く。グラスを重ねて乾杯をしてから、賑やかな晩餐がはじまった。透は何事かと目を丸くして豪華絢爛な食卓を眺めていた。


「何か、祝い事ですか」

「そうなの。実は朝子ちゃんと風巳かざみ君が、この度おめでたいことに婚約したのよ」


 まどかが嬉しそうに説明してくれる。透が「ええっ?」と驚いたように自分と風巳を見るので、朝子は恥ずかしい気がしたが、頷いて見せた。


「すごいな、おめでとう。結城ゆうき吹藤ふとう君」

「なんか、改めて吉川君に言われると、恥ずかしい」

「俺も」


 風巳と二人で照れていると、兄である晶が「風巳は気が早いからな」と茶々を入れている。


「まぁ、でも吹藤君の気持ちも判るかも。結城って大人しいわりには、密かに野郎に人気があったりして。悪い虫がつかないようにするには、一番の良策ですよ」


 晶は面白い話を聞いたというように、ちらりと意味ありげに風巳を見る。


「へぇ。それは知らなかったな」

「残念ながら、晶。俺はとっくに知っていたよ。朝子と出会った時も同級生に告白されたりしていたし」

「ちょっと、そんな昔の話を掘り返されても虚しいよ」


 朝子は慌てて話題を変えようとしたが、透はケロリと信じられない台詞を吐いた。


「ちなみに、俺の初恋も結城だった」

「ええっ?」


 これにはさすがに風巳も驚いたらしく、声をあげている。晶は面白そうに二人の様子を眺めて笑っていた。


「吉川君、もうっ、何を言い出すのよ」

「ん?でもこれはマジ話。つっても、小学生の頃の話だけど」


 風巳は「はぁっ」と大きく息をついて、肩を落とした。


「それを知ったのが今で良かったかも」


 朝子も心の中で風巳の意見に同調した。そんなことが以前から判っていれば、きっと無駄に風巳に嫉妬をさせただけだろう。朝子は話題を変えるついでに、思い切って透に気になっていたことを尋ねてみる。


「吉川君、祥子しょうこさんはその後、どう?」

「うん。実はそれを報告しに来たんだ。体はすっかり回復したようで元気らしいよ。うちの両親が良い弁護士をつけてくれたみたいだし。ようやく裁判も始まったけど、おそらく正当防衛が認められて、情状酌量の余地もあるみたいだから、最悪でも執行猶予がつくだろうって」

「本当に?」


 朝子は心の底から良かったと安堵した。彼女は自身の罪と向き合える女性なのだ。だからこそ死を望むほどに心を痛めた。もうこれ以上、彼女を追い詰める必要はない。


「元気になったのなら、本当に良かったわ」


 給仕をこなしながら、まどかも安心したようだった。透は「ありがとうございます」と殊勝に礼を述べてから、ちらりと上目遣いに風巳を見た。


「それで、俺、ちょっと吹藤君にお願いがあるんだ」

「俺に?」

「そう。実は祥子から手紙をもらったんだけど、俺宛に曲が同封されていて。でも、俺は楽譜が読めないから。できたら吹藤君に歌ってもらうか、演奏してもらうかして頂けると、すごく嬉しいんだけど」

「うん。俺でよかったらいいよ。ここにはピアノがあるから、弾いてもいいし。祥子さんの曲なら、俺も音にしてみたい」


 風巳は快く透の申し出を受けた。朝子もこれまでの彼女の楽曲のファンとして、祥子の書いた曲は聞いてみたかった。

 きっと、切なく心を打つ美しい旋律であることは間違いがないだろう。

 間宮祥吾のためではなく、透のために書いた曲。今まで以上に、綺麗な調べであるのかもしれない。


 とりあえず祥子の曲を奏でてみるのは、食事をすませてからということになった。五人で食卓を囲んで賑やかなひとときを過ごしたが、朝子はそろそろまどかの野望を形にしてもいい頃ではないかと彼女を見た。

 透と風巳を相手に、晶は話に花を咲かせている。一瞬だけ兄の様子を横目で眺めてから、朝子はまどかにこそこそと囁いてみる。


「まどかさん、そろそろケーキを登場させて、報告しても良いと思うよ」

「――そうね」


 まどかは幾分緊張した面持ちで頷いてから、何気なくキッチンへ入っていく。朝子はいよいよだと胸が高鳴った。まどかについてキッチンへ入ると、傍らで紅茶の用意をする。風巳もまどかの動向で気がついたらしく、キッチンで準備を整えている朝子と視線が会うと、どことなく意味ありげに笑った。


 兄である晶は、計画通り全く気付いている気配がない。

 まどかは自作のホールケーキを抱えて、ゆっくりとキッチンから運び出す。朝子は兄の反応に期待しながら、ティーカップに注いだ紅茶を食卓へと運んだ。

 はしゃいだふりをしながら、兄達に声をかける。


「紅茶が入ったよ。とりあえず、最後にケーキで締めくくりだね」


 透が見事に作られたケーキを見て、「おおー」と歓声あげた。風巳も「美味しそう」と素直に感嘆している。朝子がこの後の展開を想像してわくわくしながら食卓に戻ると、切り分けるためのナイフを手にしたまま、まどかがケーキの前に立った。


 大切な報告をするための舞台は完璧に出来上がっている。朝子は期待に膨らむ胸を押さえて、じっと彼女の発表を待つ。まどかは和やかな空気を壊すことなく、恥ずかしそうに微笑んだ。


「えーと、実は、ここであたしからも報告があります」


 兄は興味をひかれたように、ふっとまどかに眼差しを向けた。既に何かを予感したのかもしれないが、まさかという思いもあるのだろう。

 まどかの謳うような声が、嬉しい事実を伝えてくれる。


「今日、病院に行ってきました。妊娠七週目で、お腹に赤ちゃんがいます」


 その時の兄の表情の変化を、どんなふうに表現すればいいだろうかと朝子は感じた。一瞬見せた驚きの後でわずかに視線を伏せたとき、彼が震えているように見えたのは錯覚だっただろうか。

 駆け抜けた激情を堪えるように、彼は固く目を閉じてから、真っ直ぐにまどかを見る。

 まるで眩しいものを見るかのように、綺麗な眼差しを細くして。

 泣き出しそうにも見える、柔らかな微笑みが浮かんだ。


「まどか」


 報告を終えて恥ずかしそうに俯いている彼女に、彼はゆっくりと手を伸ばす。低く響く声はいつもより甘く、そして弱くて、かすれているようにも聞こえる。朝子は伸ばされた彼の指先がわずかに震えていることに気付く。兄を支配している感動の片鱗を見た気がして、胸が締め付けられるような気持ちになった。


 突如、兄の中に芽生えた言葉にできない喜び。

 愛する彼女と自分を繋ぐ、新しい命。それが更に揺ぎ無い絆を結ぶ。

 彼はまどかに触れて、大切なものを抱くようにそっと彼女の身体を引き寄せた。


「――ありがとう」


 簡単な一言に込められた想いが、とても深い。短い言葉なのに、これ以上はない祝福だと思えた。まどかを讃える兄の気持ちが伝わってきて、朝子はじんわりと涙が浮かぶ。透と風巳が「おめでとう」と手を叩いていた。

 朝子も負けずに、精一杯二人を祝福した。


「お兄ちゃん、まどかさん。おめでとう」


 寄り添う二人は喝采を受けてこちらを向いた。まどかが濡れた瞳で「ありがとう」と笑ってくれる。

 二人で何かを囁きあって一緒に笑っている様子は、この上もなく幸せに満ちていて微笑ましい。

 見飽きることのない、綺麗な構図だった。





 まどかの告白が終わり、いつのまにか自家製のケーキも見事に姿を消した。あらゆる意味で満足感いっぱいの食事を終えて、朝子はとりあえずまどかと一緒に食卓を片す。

 風巳は晶と透と三人でリビングのソファへ移っていた。

 透の携えた楽譜を三人で眺めているようだ。


「将来は、彼女が作曲家として活躍するかもしれないね」


 楽譜を一通り眺めてから、風巳は透にそんなふうに声をかけた。彼女の関わった事件の真相は、時間をかけて世間にも広がっていったようだ。


 これまで数多くの人の心を打った曲が、間宮祥吾の手によるものではないことも明らかになった。それでも故人の功績について、今更厳しく批判する者は少なく、純粋に彼を悼む声は多かった。同時に、罪を犯した祥子についても、同情の声が上がっている。


 彼女達の過去にまつわる真相も密やかに広まり、世間では一つの物語のように語られていた。

 緩やかに、人々の好奇心も収束に向かっている。


「吉川君、私にも楽譜を見せて」


 片づけを終えてから、朝子もまどかとリビングへ移動した。彼の手から受け取った楽譜は、五線も含めて全てが丁寧な手書きだった。

 音符を書き綴ったものとは別の白紙に、その曲のためにつけられた詩もあった。


「朝子、楽譜をかして」


 風巳は音符の記された楽譜だけを手にとって、リビングの隅にあるピアノに歩み寄った。蓋を開いてから、手書きの楽譜を見やすいように並べる。結城邸のピアノは、今となっては滅多に音を奏でることがない。それでも両親が兄と朝子のために与えてくれた大切な楽器なのだ。そこにあるだけの置物に等しくても、思い入れだけは深い。調律だけは常に馴染みの業者に頼んでいるので、音色には問題がなかった。


「初見でどこまで弾けるのか判らないけど、間違えても愛嬌ってことで許して」


 風巳は椅子に掛けて自信なさげに笑う。透は「全然かまわない」とソファから気安く声をかけた。


「じゃあ、僭越ながら演奏させていただきます」


 柔らかな仕草で、風巳の指が鍵盤を叩いた。音は心地よく響いて、美しい旋律を形作る。

 朝子は奏でられる曲の美しさに言葉を失った。

 変わらず繊細に流れる音の連なりは、優しくて切ない。


 透に向けられた祥子の想いが、こんなにも美しい曲を作り出す。兄とまどかも感動を与えられたらしく、寄り添うようにソファに掛けて美しい旋律に聞き入っていた。


 朝子はそっと透の様子をたしかめる。彼は真っ直ぐに演奏者を見つめていたが、曲に込められた想いを通して、しっかりと祥子の心を感じているようだった。

 一つの曲に繋がれて、二人は羨ましい位に心を通わせている。


 奏でられる美しい曲に耳を傾けたまま、朝子はそっと手元に残された紙片に視線を落とした。祥子が綴った詩を、彼女の中から生まれ出た曲と共にたどる。

 心が洗われるような、美しい旋律。柔らかなのに、穏やかなのに、強く胸に響く。

 朝子は声には出さず、心の中で彼女の言葉を歌った。



  「 闇が明けて朝が訪れた瞬間(とき) 傍にいてくれたのはあなた

    失った私に いつもあなたが与えてくれた

    ささやかな気持ちに 何よりも満たされた

    あなたの手で開かれてゆく扉なら 私は迷わず越えてゆける

    悦びの在処(ありか)を知っている あなたが私に教えてくれた

    自分の中に芽生えるもの 世界に触れて気付くこと


    私の心の声を聞いて 綺麗な言葉にはできないけれど

    今なら迷うこともなく この想いを伝えることができる 



    独りよがりな世界を壊して 連れ出してくれたのはあなた

    佇む暗闇の中 降り注いだ一筋の光 

    悲しみの向こう側にある 手に入れられる幸せの在処ありか

    あなたが導いてくれるのなら かならず辿りついてみせる

    目を逸らさなければ見えるもの 私をとりまく温かな想い


    私の心の声を聞いて 綺麗な言葉にはできないけれど

    今なら迷うこともなく この想いを謳うことができる


    自分の中に芽生えるもの 世界に触れて気付くこと

    伸ばした掌の先に 手に入れられる幸せの在処ありか 」



Sの休暇 END

この物語に触れて頂き、本当にありがとうございました。

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