第一話 一日目 十二時十分
side 王国
「アニエス。お前との婚約を破棄する」
昼下がりの王宮で、王太子レオナールはそう告げた。向かいに立つアニエスは、わずかに目を見開いた。だが、取り乱しはしなかった。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「お前が聖女ではなかったからだ」
三日前、神殿で正式な神託が下った。この国に現れた聖女は、長年聖女候補とされてきたアニエスではない。妹のミレーヌだった。
ミレーヌには傷を癒やす力がある。毒や病による穢れを祓うこともできる。神殿の祭壇に触れた瞬間には、聖なる光が広間を満たしたという。
疑う余地はなかった。
「これまでお前が聖女だと考えられていたからこそ、私はお前を婚約者として遇してきた。だが、それが間違いだった以上、この婚約を続ける理由もない」
「そうですか」
「随分とあっさりしているな」
「神託が下ったのでしたら、仕方ありません」
アニエスは静かに答えた。
「婚約破棄について、承知いたしました」
「そうか」
レオナールは満足そうにうなずいた。
「今後は、本物の聖女であるミレーヌにお前の役目を引き継がせる」
「妹に?」
「ああ。王都の結界に関する仕事もだ」
そこで初めて、アニエスの表情が変わった。
「……ミレーヌに、結界を?」
「当然だろう」
「ミレーヌ本人から、結界術を扱えると聞かれたのですか?」
「まだ話してはいない。聖女としての務めで忙しいらしくてな。これから神殿に面会を申し入れる」
「そうですか」
アニエスは少し考えた。
「結界管理局に、私の研究記録と中枢調整の手順書があります」
「そんなものまで必要なのか?」
「必要です」
「まあいい。ミレーヌなら問題ないだろう」
「……そうですか」
アニエスはそれ以上何も言わなかった。
「それから」
レオナールは机の上から一枚の書類を取った。
「お前には国外へ出てもらう」
「国外へ?」
「偽りの聖女が王都に残っていては、民に無用な混乱を招く」
差し出された書類を、アニエスが受け取る。国外退去命令。王太子レオナールの署名。王家の印章。
「本日を含め、三日目の日没までに国外へ退去せよ、ですか」
「ああ」
「分かりました」
アニエスは書類を鞄にしまった。
「これまで、お世話になりました」
頭を下げる。それだけ言って、部屋を出ていった。
レオナールは息を吐いた。これでいい。偽の聖女との婚約は終わった。これからは本物の聖女であるミレーヌがいる。
「神殿へ使者を。今日中にミレーヌと面会したい」
だが、戻ってきた返事は期待したものではなかった。
「本日は難しいとのことです」
「なぜだ?」
「ミレーヌ様は聖女として認定されたばかりです。本日は大神官との面談、聖女就任の儀式、治癒能力の確認、その後も各部署から説明が――」
「私が会いたいと言っている」
「神殿側も承知しております。しかし、本日の儀式には大神官や高位神官も参加しておりますので」
レオナールは舌打ちした。
「では明朝だ」
「調整させます」
何度か使者が往復し、翌朝九時からの面談が決まった。
一日程度なら問題ない。レオナールはそう考えた。
王都を覆う大結界は、今日も変わらず薄青く輝いていた。
◇
side アニエス
「国外へ?」
結界管理局の主任技師が、驚いて私を見た。
「はい」
「いつまでです?」
「本日を含めて、三日目の日没までです」
国外退去命令を見せる。つまり、期限は明後日の日没だ。
主任技師は眉をひそめた。
「急ですね」
「私もそう思います」
「中枢調整は?」
「手順書を残しています」
「いや、それはありますけど」
主任技師が頭をかいた。
王都の大結界は、私一人で管理しているわけではない。十二人の結界技師がいる。日常点検、魔力槽の交換、各区画の出力確認、小規模な修復。それらは皆で行っている。
ただし。
「三日後ですよね。年次中枢調整」
「はい」
大結界全体の魔力配分を組み直す、年に一度の大仕事。
七年前。王太子妃教育の一環として王都防衛を学び始めた私は、なぜか結界術に夢中になった。専門書を読み、技師たちに教わり、研究を重ねた。
三年前には、老朽化していた大結界の中枢術式そのものを改修した。今の大結界は、その方式で動いている。
「私がいなくても、すぐに結界が消えるわけではありません」
「そりゃそうですが」
「調整用の数値も残しました」
「理屈は分かるんですよ」
主任技師はため息をついた。
「でも、実際に中枢を触ったことがあるの、アニエス様だけじゃないですか」
「……そこは、申し訳ありません」
「謝られてもなあ」
現在は私以外の技師でも中枢を調整できるように、資料を整えながら技術指導を進めているところだった。ただ、大結界全体を扱う技術だけに、一朝一夕で引き継げるものではない。
「とにかく、私は命令を受けています」
国外退去命令を見る。
「明後日の日没までに出国しなければなりません」
「どちらへ?」
「まだ決めていません」
「本当に急ですね」
「ええ」
自室へ戻り、荷物をまとめた。全部を持ち出す時間はある。けれど、たくさん持っていっても仕方ない。
必要な衣類。少しの本。自分で書いた研究資料。手持ちの現金と、換金できる宝飾品。
それだけを鞄に詰めた。
王都西門へ着いたのは、午後一時半を少し過ぎた頃だった。
「西へ行く馬車はありますか?」
「ちょうど十分後に出ますよ」
「どこまで?」
「第一宿場までです」
「そこから国境方面へ行けますか?」
「明日の朝、南西街道を走る馬車がありますよ」
「では、それでお願いします」
運がいい。明後日の日没までには国外へ出なければならない。でも、国外退去を命じられているのに、わざわざ王都に残る理由もない。
午後一時四十分。馬車は西門を抜けた。
「国境まで、どれくらいですか?」
「乗り継ぎがうまくいけば二日くらいですね」
「そうですか」
ならば期限には十分間に合う。
私は座席に深く腰掛けた。王都が少しずつ遠ざかっていった。




