第六十三話:触れてはいけない傷
人の心には、
触れてはいけない場所がある。
そこは弱さであり、
痛みであり、
そして――過去だ。
だが、
それに触れなければ、
救えないこともある。
放課後。
教室には夕方の光が差し込んでいた。
ほとんどの生徒は帰り、
残っているのは数人だけ。
その中に――
ナカムラがいた。
窓際の席。
机に肘をつき、外を見ている。
動かない。
誰とも話さない。
(……やっぱり)
ラフリは教室の入口で立ち止まる。
昼の出来事が、頭から離れない。
ローズの言葉。
ナカムラの表情。
そして――あの空気。
(あのままにしたら)
(多分、もっと悪くなる)
胸の奥がざわつく。
でも。
足が少しだけ重い。
(俺が関わっていいのか……?)
助けたい。
でも、どうすればいいのか分からない。
その時。
ふと、ユナの言葉がよぎる。
『一人で抱えないで』
ラフリは小さく息を吐く。
そして――歩き出した。
「ナカムラ」
声をかける。
ナカムラは振り向かない。
「……なんだよ」
低い声。
感情を押し殺した声。
ラフリは少しだけ迷ってから言う。
「昼のこと……気にすんな」
その言葉は、
あまりにも普通で。
あまりにも浅かった。
ナカムラは小さく笑う。
「は?」
その笑いは、
どこか冷たかった。
「お前さ」
ゆっくり振り向く。
その目には、わずかな苛立ちがあった。
「何も分かってねえだろ」
ラフリは言葉を失う。
「“気にすんな”で済むならさ」
ナカムラは机を軽く叩いた。
「最初からこんな顔してねえよ」
沈黙。
重い沈黙。
(……失敗した)
ラフリの胸が締め付けられる。
だが、逃げなかった。
「……じゃあさ」
少しだけ声を落とす。
「何が引っかかったんだよ」
ナカムラの目が揺れる。
ほんの一瞬。
「……別に」
視線を逸らす。
「なんでもねえよ」
(嘘だ)
ラフリは確信する。
だが、それ以上踏み込めない。
その時だった。
――フラッシュバック。
暗い部屋。
机に向かう少年。
小さな手でペンを握る。
ノートには赤いバツ。
「なんでできないんだ」
低い声。
圧のある声。
「ちゃんとやれ」
「努力が足りない」
「期待してるんだぞ」
ペンが震える。
手が震える。
涙をこらえる。
「……はい」
小さな声。
――現実に戻る。
ナカムラの拳が震えていた。
(……これが)
(こいつの“傷”)
ラフリはゆっくり言う。
「……期待ってさ」
ナカムラが反応する。
わずかに。
「重いよな」
沈黙。
ナカムラは何も言わない。
だが。
完全に無視しているわけでもなかった。
「やらなきゃいけないのに」
ラフリは続ける。
「やりたくてやってるわけじゃないのに」
ナカムラの目がわずかに見開かれる。
「でも、やめられない」
「やめたら――」
言葉が止まる。
ナカムラが小さく呟く。
「……終わるからだろ」
ラフリはゆっくり頷く。
空気が少しだけ変わる。
ほんのわずかに。
だが。
その瞬間。
教室の扉が開く。
「まだいたんだ」
ローズだった。
夕日の中、
彼女は静かに立っている。
「……何か話してた?」
微笑む。
優しく。
自然に。
ナカムラが顔をしかめる。
(……来た)
ラフリの背中に緊張が走る。
ローズはゆっくり歩く。
二人の距離に入る。
「ナカムラくん」
柔らかい声。
「さっきはごめんね」
ナカムラは何も言わない。
ローズは続ける。
「でもさ」
少しだけ声を落とす。
「無理してる人って、見てて分かるんだよ」
ナカムラの表情が固まる。
「頑張ってる人ほど」
「壊れるのも早いから」
その言葉は、
優しさの形をしていた。
だが――
それは、傷を抉る言葉だった。
ナカムラの呼吸が乱れる。
(やめろ……)
ラフリは一歩前に出る。
「ローズ」
声をかける。
ローズはゆっくり振り向く。
「なに?」
微笑み。
ラフリは言葉を探す。
だが――
出てこない。
証拠もない。
理由も弱い。
(くそ……)
その一瞬の迷い。
それだけで、十分だった。
ローズは小さく笑う。
「……優しいね、ラフリ」
その目は、
すべてを見透かしていた。
「でもさ」
一歩下がる。
「中途半端な優しさって」
ほんの一瞬、
声が冷たくなる。
「一番、人を壊すよ?」
沈黙。
そして彼女は振り向き、
教室を出ていった。
静寂が残る。
ナカムラは俯いたまま。
ラフリは動けない。
(……届いてない)
(まだ、全然)
拳を握る。
(でも)
逃げなかった。
それだけが、
今のラフリのすべてだった。
少年は初めて、
他人の“傷”に触れた。
だがそれは、
簡単に癒せるものではなかった。
むしろ――
触れ方を間違えれば、
さらに深く傷つけてしまう。
そして少女は知っている。
人の弱さを。
痛みを。
壊れ方を。
次に壊れるのは誰か。
それを決めるのは、
もう時間の問題だった。




