首輪
柊は、合成皮革のロングコート、そのネックガードを毟るようにして捲る。
夜気に晒される首の刺青。
兎塚の目が妖しく細められる。
「おやおや。なかなかに稀少で背徳的なアクセサリーを嗜まれていらっしゃるようですね。奴隷用の懲罰印呪のようですが」
「……詳しいのね。それじゃあ、外し方とか、解るかしら?」
精一杯の平静を装って、それとなく訊いてみる。
兎塚はふむと唸り、「もっと近くで観察してみても?」と尋ねるや否や、柊が答える間もなく詰め寄って来た。
「ちょっ……近い。引っ張らないで……」
「ふむふむ。仙水、美嚢、不還の霊絡点を経由して……、華羅に蛭門へ繋がり、ぐるりと首を一回り……。ん? 首から下にも印呪が伸びてますね。これは首輪とは違うもののようですが……」
「なっ……! 脱がすな! やめっ……」
「このラインは何処まで伸びて……、背中、いや、もっと先も……! まさか、全身隅々まで……!」
「ゆ、指を這わせるな! どけ! どきなさいっ!」
柊は必死の思いで、縦横無尽に身体を弄って来た兎塚を引き剥がす。
「もう、柊さんったら。正確な分析には精密な調査が不可欠ですよ。ちょっと触ったり揉んだりしてくらいで顔を赤くしてどうするんです?」
「うるさい! それでどうなの⁉ 何かわかったんでしょうね⁉」
「んー、そうですね。まあ、色々と……。端的に言うのであれば、非常に面倒臭くて悪質な仕掛けが施されているのがわかりました」
「仕掛け?」
「はい、そうです。まず大前提としてなんですけれど、印呪というものは、人工霊絡神経の一種です。先天的な素養に欠けた魔術師が、魔術を継承するために無理矢理体内へと敷設する拡張機構……。それが応用発展の過程で進化し、呪詛的な束縛や拘束などの機能が追加されるようになりましたー」
初耳だった。他の魔術師にとっては常識のようなことも、柊は知らないことが多い。
「それで? 印呪の歴史が私の身体とどう関係しているの?」
「柊さんは、身体の方に刻まれている印呪の効果についてご存じですか?」
問われて、柊はきょとんとする。
「首の刺青を含めた全身で、一つの印呪じゃないの?」
騏堂の掌の紋様が紅く輝くと同時に、首を起点として強制的に魔力が全身から徴集される。だから、そういうものだと思っていた。
「違いますよ。柊さんの懲罰印呪、首の方ですね。それは百手縛と呼ばれるもので間違いありません。不可視の霊体腕を対象の内部に顕現させることで激痛を与える呪詛ですが、身体の方は違います。んー、世俗民だった柊さんの身体能力を強化増幅するためのサポート用だとは思うんですけど、それにしては無駄に負荷があるという感じで……。まあ、そこは印呪師の流派や癖などにも依るでしょうから、とりあえず脇に置くとしましょう。
重要なのは、首輪と連動しているってことです。柊さんの身体に何らかの兆候が見られれば、即座に百手縛が自動的に発動。柊さんを速やかに殺すようになっていると思われます」
柊は嫌な顔になる。なんだ。詳細はどうあれ、私を殺すためのものには変わらないということか。
「兆候って、何?」
「さあ。私も専門家ではありませんし。彫った印呪師に聞くのが一番でしょうねー」
騏堂の周りをよくうろついている作務衣の老人を思い出し、柊は憮然とする。
無機冷徹な騏堂と違い、あいつは私が苦しみ藻掻く様を眺めて悦に浸っている節がある。
暢気に昼間から大酒をかっ食らい、のんべんだらりと自由気儘に屋敷を徘徊していることから、騏堂自慢の精鋭家臣団――近習衆ではないだろう。
技量優れた印呪師……? だとしても、騏堂が手厚く庇護するほどの人物なのだろうか?
まあ、それはいい。それよりもだ。
「それで、百手縛を解除する方法は?」
「現状ではわかりません。詳しく調べようにも、何がトリガーになってデストラップが発動するかわかったものではありませんから。君子危うきに近寄らず。今のところは放っておくのがベストだと思いますよー」
柊は胸中で溜息を吐く。
話の流れからおおよその予想はついていた。容易には解除できないと知れただけでもラッキーだろう。成果はあった。あとは……。
柊はちらりと兎塚を見遣る。
もうこいつに用はない。幸いにも久慈原はまだ来てない。さっさと追い払ってしまおう。
「もういいわ。ありがとう。さようなら」
冷たくあしらう柊に、兎塚は満面の笑顔を浮かべて縋り付く。
「まあまあ。そう邪険にしないでくださいよー。柊さんのお気持ちはよくわかりますとも。いつ自分の命を奪うかもしれない爆弾が首元でチクタク鳴っている。そんなの気が滅入って当然です。よーし、わかりましたー。お客様の要望にお応えできないのは、私としても不本意の極み。というわけで、柊さんに刻まれた印呪をどうにかする方法、私が見つけ出して来ますので!」
「いや、別にいいんだけれど」
「まーまー、そう言わずに。騙されたと思って任せてみてください。決して後悔させませんのでー」
「………」
打てる布石は全部打っておくべきか。
だが、今後ともこいつとの関係を続けるのであれば、確認しておかなければならないことがある。
「対価は?」
兎塚が首を傾げる。
「御代は要らないと、最初にお断りしたはずですが?」
「それを阿保みたいに信じろと? 何が狙いなの?」
一瞬、空気が鎮まり返り、次いで、くくく、という哄笑が不気味に響いた。
「実はですね、もう充分なのですよ。柊さんが騏堂成叡の軛を脱したいと願っている。六紡閣総統に対し、叛意と逆意を抱いている。それが知れただけで私は胸がいっぱいなんです。ですが、お優しい柊さんは、それだけでは足りていないと仰った。良いでしょう。それではお言葉に甘えまして、一つ、私の質問に答えてください」
鋭利に尖った鋸歯が弧を描く。
「どんな感触でした? 暖かかく柔らかかったのでしょうか? それとも存外に固く、意外なほどに手応えがあったのでしょうか? 是非とも聞かせてください」
そして、兎塚は言の葉を紡ぐ。
どうしようもない現実を。どうしようもない過去を。どうしようもない記憶を呼び覚ますように、まざまざと。
「愛する妹さんを殺した時、貴方は何を想いましたか、柊さん?」
気が付けば、意識が飛んでいた。
蒼炎がちらちら燃える割れ砕かれたアスファルト。激しく上下する肩。荒い呼吸音……。
燃え盛る瓦礫と噴煙に、女の姿はない。どこにもない。
何処からともなく垂れ込めてきた乳白色の霧に混じって、兎塚の囁く声だけが虚しく響く。
「あらあら、いけませんよ、柊さん。こんなに素直に感情を曝け出すのはご法度です。魔術師であれば、どんな恥辱も屈辱も、どこ吹く風で受け流さないといけません。まだまだ修行が足りませんねー。ファイトですよー」
「何処に行った! 出てきなさい!」
「ふふふ。嫌ですよー。これでも引き際は心得ています。それでは、進展あればすぐに参上しますので。ではではー」
「待ちなさい!」
闇雲に霧を薙ぐが、結局は徒労に終わった。
「ん……? なんだ、この騒ぎは。派手に暴れたようだが、何があった?」
遅ればせながらに聞えて来た久慈原の声に、柊は天を仰ぐ。
霧はますます濃く、深くなろうとしていた。