追手Ⅰ
星霜が蒔絵となって映る水溜まりを撥ね、衣擦れと共にイチイの葉を巻き散らす。
ひたすらに走る。駆ける。悪路を踏み締め、突き進む。
はあはあという呼吸が煩いくらいに耳につく。
全力疾走を続けて、まだ五分も経っていない。だというのに、もう喉が渇いている。
(……ああ、もう。すんなり逃がしてくれるわけはないとは思っていたけど)
ひしひしと無形の重圧が押し寄せて来る。
最初にそれと気付いたのは、気配ではなく匂い。
微かに鼻を突いていた血生臭い獣臭は、もはや噎せ返るほどに濃厚なものとなっている。
大地を蹴り付ける擦過音も混じり始めた。
「火津摩さん」
隣で走る伏見が右斜め後ろへと視線を走らせる。
柊は無言で頷き、今し方通り過ぎたばかりの灌木泥地へと振り返る。
(……お出ましね)
水路を逆流する鉄砲水のように、それらは怒涛の勢いで斜面を駆け下り、泥地へと飛び出して来た。
異様な風体をした獣。四つ足歩行で、鼠色の体毛を生やしている。口腔は大きく、涎に塗れた上下の犬歯は一際巨大で、顎関節の収納範囲に納まらないほど。体躯も巨大で、二股に分かれた尻尾を加えれば三メートルは優にある。
サーベルタイガーもどきの狼獣。それが三匹。いや、更にもう一匹増えた。
恐るべき敏捷性で真後ろに張り付かれる。が、一気呵成に襲っては来ない。
様子見なのだろうか。やや遠巻きの位置で、こちらの足並みに合わせるように並走している。
「………」
試しに牽制してみる。
炎鎖を生み出し、横薙ぎに投擲。
躱される。一匹も当たらなかったが、それはいい。それよりも魔獣が然したる反応を示さず、平静に隊列を整えたことの方が問題だ。
(統制と秩序。完全に飼い馴らされている猟犬ね)
一匹が加速し、柊たちの右側面に移動する。そして、そのまま体を寄せるように圧迫。
炎鎖で追い払おうにも、すかさず真後ろの魔獣たちが咆哮。急加速する素ぶりを見せ、柊にその隙を与えない。
「……誘導、されていますね」
「わかっている」
不味い兆候だ。だけど、足を止めるわけにもいかない。
鬼ごっこで遊んでくれている内に、どうにか打開策を見つけないと――
「火津摩さん‼」
叫ぶ伏見に、柊は再びわかっていると心の中で返答する。
半身を傾けて、胴体を狙ったライフル狙撃を回避。予想通り、樹上にも何体か夜魔が潜んでいる。まったく面倒な……。
瞬間、柊は冷たい衝撃に襲われる。
右足の脛に微かに感じる、金属のワイヤーの感覚。
ワイヤーが引っ張られることで、先端に結ばれていたピンが抜ける。
宙に飛んだピンの先にあるものは、節くれだった樹の根の空隙いっぱいに押し込まれたモスグリーンのプラスチックケース。
クレイモア地雷。しまった。狙撃はこれを誘発するための――
足元直下、ほぼ至近距離での爆発。
完全に虚を突かれたことで防御するのも間に合わない。
舞い上がる粉塵に、水を撒いたようなベアリング弾の炸裂反響が谺する。
「大丈夫ですか⁉」
耳元で響く伏見の声に、柊は反射的に瞑っていた瞼を開ける。
(生きている……?)
自分を横抱きにして地面に膝をついている伏見。
彼が助けてくれたのだろうか。
ありがとう。そう答えようとして、柊は言葉に詰まる。
脳と脊髄に火花が走るような激痛。見れば、右足の脹脛と脛、そして踝から下がずたずたに切り裂かれている。ブーツは半ば千切れ飛び、白い腱が黄色い脂肪と共に露出しているのが見えた。と言うか、指先の感覚以前に、足の甲が原型からしてほとんどない。
煮凝りのように固まっていた傷口から、思い出したかのように失血が始まる。ぼどぼどと止め処なく零れる鮮血。あっという間に伏見の片膝が朱に染まる。
太腿を抑え、動脈を両手で圧迫する。伏見が登攀用のザイルを使って止血帯を作ってくれたが、それでも血が止まらない。
かなり深く抉られた。意識がぶれかける。駄目だ。しっかりしないと……。
眩暈と悪寒に脂汗が流れる中、ぎりっと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「このまま失礼します」
ふっと身体が宙に浮かんだ感触に、柊はぼやけた意識から復帰する。
気付けば、伏見が自分を横抱きにしたまま駆けていた。こちらを監視すべく立ち止まっていた猟獣たちも追跡を再開している。
女一人抱えての疾走だ。明らかに先ほどよりも遅い。
そして獲物の一匹が手負いになったことで、猟獣たちは活気付いている。血の匂いに興奮しているのか、先程までのチームワークが嘘のようだ。獰猛さを剝き出しにして、遮二無二突っ込んで来ようとする個体もいる。
が、
ヒュウゥゥゥゥ
可超域すれすれで響き渡る笛の音色が、獣たちに制約を強いた。
びくりと震えると、狼獣たちは不承不承に後退。追尾のための隊列へと舞い戻る。
(友釣りするなら、今が狙い目のはず。なのに、どうして……?)
狙撃もあれっきりだ。
いったい、何を狙っている?
「火津摩さん、あれを」
伏見の声に、柊は彼が見詰める先へと視線を向ける。
これから走り抜けようとする細い隘路。その頭上には一面苔に覆われた巨大な樹木が張り出している。
屋久島の縄文杉のような、樹齢数千年の古木。だが、その成長は遥か昔に止まり、今は経年劣化で朽ち果てるのを待つばかり。大きく斜めに傾ぐ梢は斑模様の白紋に染まり、樹幹にはあちこちに大きな洞が開いている。
柊は伏見の意図を察する。
あれを倒すことができれば、確かに隘路を塞ぐことができる。幹の半分ほどが腐っていそうだし、発破で重心が崩れればそのまま自重で潰れてくれるだろう。
だが、倒れる速度やタイミングをコントロールすることは、この状況ではほぼ不可能。一つ間違えれば、巨木の下敷きとなるのは私たちだ。
しかし、それを承知の上で、彼は尚も言う。
「大丈夫です。僕に任せてください」
柊は覚悟を決める。
命の恩人がこういうのだ。足手纏いになった私にできることは信じるだけ。
「あいつらを……、巻き添えにするつもりで……、いいのよね?」
「はい。お願いします!」
痛みを無視し、意識を集中。
右足を吹き飛ばされた影響からか霊絡神経の励起は不十分だったが、全身に刻まれた印呪が半ば強制的に神経野に作用。急激に悪化していく身体から、それでもどうにか魔力を捻出してくれる。
脳内の術式図を基に構築したのは、鉤爪と分銅というそれぞれ違う突端を持つ二本の炎鎖。
鉤爪は古木の胴体へと巻き付け、引き寄せるため。
分銅は樹幹の洞へと投げ込み、そこで爆発させるため。
(上手く、いってよ……)
投擲。分銅は古木の洞の奥深くに突き刺さると、勢いそのままに爆発する。
逃れようのない内部からの衝撃に、めきめきという悲鳴をあげて大樹が傾ぐ。
鉤爪で引き寄せ、倒れる向きを調整。隘路を潰すように……。良し。だけど、速度が……。このままじゃあ、走り抜けようとする私たちとちょうど折り重なって……。
失敗だ。このままのスピードで走っても、倒れる前に駆け抜けることは絶対にできない。
なのに、伏見は駆ける脚を緩めない。
暗くなる視界。倒れて来る古木の影が迫る。
ようやく事態を悟った狼獣が急停止。慌てて後退を試みようとしている。
岩のような樹皮が眼前に迫り、ずうんと大地が唸りを上げた。
「………」
伏見に抱かれたままの柊は、背後を見遣る。
境界線のように、来た道を遮る巨木の壁。直径六メートルを優に超す丸太の下から滲み出る赤黒い液体は、俊敏なる獣をしても間に合わなかったことを告げる何よりの証拠。
私たちも確実に潰されていた。
なのに、衝撃も震動も、巨木が倒れた時に感じる風の唸りさえ感じなかった。
まるで何もかも擦り抜けてしまったかのように。
「遥斗……、あなたの魔術は……」
見上げる柊に、伏見はにっこりと笑う。
「そういうことです。すいません。その怪我も、もっと早く僕が駆け寄っていれば……」
その時、柊は気付いた。
彼に抱かれている腕から伝わる、その体温。それが急速に低下していく。
早鐘のように伝わる、心臓の鼓動。立ち止まっているにも関わらず、全力で駆けていた時よりも尚早い。まるでタービンが焼ける寸前のエンジンのようだ。
自分と同じくらいに蒼白となった伏見の顔を、柊は覗き込む。
彼は、ご心配なさらずとでも言うかのように微笑んでいる。
「僕の魔術は、単独使用が前提なんです……。対象範囲を広げるのは、ちょっと難しくて……。修行が、まだまだ足りませんね……。でも、これくらいなら、平気……です……から……」
ふらつく伏見。
呼吸不全に、チアノーゼの症状。生体機能に重度の負荷が掛かったことは間違いない。
ぎゃうぎゃうという獣の嘶きが耳朶を打つ。
見れば、新たな猟獣が現れ、倒木の壁の頂上よりこちらを睨み、吠えている。
殺気を剥き出しにしているのは、仲間が殺されかけたことへの怒りだろうか。
ヒューと笛の音は響いているが、もはや獣たちに自制の様子は見られない。
柊は息を吐く。
そして、未だ自分の身体を離さない伏見へと告げた。
「降ろして。貴方だけでも逃げなさい」
「そんな、わけには……いかない、でしょう……」
短い咆哮と共に、四匹の猟獣が宙を駆ける。
咄嗟に柊は炎鎖を放つが、横薙ぎの一撃で打ち据えられたのは一匹だけ。
必殺の予感に酔い痴れる涎塗れの牙が、至近に迫る。
「……っ‼」
しかし、獣の牙は空を噛む。
前のめりに地面を転がりながら、柊は身を捻って炎鎖を射出。
着地の未防備な瞬間をつかれた一匹が、灼熱の蛇に口腔と延髄を貫かれて絶命する。
「遥斗……‼」
柊は身を起こし、伏見の姿を探す。
彼はすぐ傍の叢に倒れていた。もはや呼吸すらまともにできないようで、蹲ったまま動こうともしない。
猟獣は、まだいる。何があったかはわからないが今度は逃すまい、と柊たちを包囲し、じりじりと輪を狭めている。
どうにか逃げ出す隙をつくらなければならない。
柊は新たな炎鎖を生み出そうとして、がくっと力が抜ける。出血多量による限界。印呪の補助があっても、もう誤魔化しきれないところまで来ている。
(まだだ。まだ、何かできるはず……)
諦めるのは簡単だ。
だけど、それは決して許されない。
思考する。その間にも獣が飛び掛かる。生きる。私は生きなくてはならない。妹のため。刑部の言葉が蘇る。そうだ。だけど、でも、それだけじゃなくて――
狼獣が猛り迫る。
「……ああ、もうっ‼」
満身の力を込めて起き上がると、柊は伏見へと覆い被さる。
あんな凶悪な牙の前には、こんなことほとんど意味がない。頭の中では、そんな悪態さえ吐きながら……。




