最上階へ
一匹の羽蟲が、静寂なる空間を飛翔する。
蜂や虻と同じ四翅形状ながら、頭部に蜻蛉目の巨大な複眼を備えるその蟲は、しきりに首を動かし、時折、中空にホバリングで留まりながら、倒壊した石柱群を睥睨する。
物言わぬ鬼人像に、八つ裂きにされた巨人像。それらが二度と動かないことを確認すると、羽蟲は更に奥へと進む。
黒々とした孔の手前に置かれているのは、一脚のアームチェア。
椅子の正面は孔へと向いており、背にはプレート型の看板が紐に吊るされてぶら下がっていた。
周囲に人影はいない。完全に無人だ。
羽蟲は思考する。
完全に安全が確認できた場合は、魂の緒――主人との霊属的繋がりにして、精神接続――を通じて信号を送り、主人をこちらへと呼び寄せる。
だが、この場合はどうだろう。
羽蟲は迷う。孔の底からは非常に嫌な気配がする。近寄りたくないと本能が訴えている。損な場所に主人を近づけてもいいものだろうか。
羽蟲は宙を旋回しつつ、緊急の信号を発報する。
すぐに、主人の疑念が伝わって来た。
何があった、という問い掛けに、羽蟲は一目散に奔り飛ぶ。
塔の魔術師よりも先に、断片が潜む穴蔵を見つけたことを報告するために。
◆
「【この先、最上階。最後の観覧、どうぞお楽しみを】……」
綺麗な筆記体で看板へと刻まれていた英文を、弍神巽が無表情のまま翻訳する。
「下に注記があるな」
「知っている。もう読んだわ」
柊は大きく溜息を零す。
看板には続きがあった。まるで、カフェの閉店時刻が早まったことを詫びるかのように、ごくごくあっさりと簡潔に。
【誠に勝手ながら、久慈原様には退場して頂きました。謹んでご冥福をお祈りします】
柊は、隣に立つ巽を見遣って訊く。
「……本当だと思う?」
巽は、少し考えてから呟いた。
「……俺達が、断片を手に意気揚々と引き上げる久慈原千景と出くわさなかったのは確かだ……。しかし、殺されたと判断するのは早計だろう。死体を見たわけでもない」
「真偽は不明。その上で、こっちに来いと誘っているわね」
「……実際、窓の外を見る限り、俺達は早蕨の渦の中心に迫っている。そして、この異様な気配……。これが断片由来のものだとすれば、いよいよ終点ということだろう。表札は、自信の顕れ。それとも単に見せたがっているだけか……」
何を、と考えて、柊は眉間に皺を寄せる。
「阿万鵺奏弦が造った猟奇石像……。最後だとすれば、その最高傑作ってことになるのかしら……」
厄介だな、と巽がぼやく。
「……得意満面の魔術師を相手取るのは、骨が折れる。地の利もあちらにあるだろう。だが……」
巽の怜悧な眼差しが、無防備に放置されたままの下り階段へと向けられる。
「この先に阿万鵺と断片が待つのなら、俺達の協力関係は此処までだ」
柊は小さく笑う。
「話し合った通りね。私が先行し、阿万鵺と断片を巡って対峙する。その結果、私が阿万鵺を殺したとしても構わない。寧ろ、死んでくれていた方が尋問しなくて助かるんだっけ?」
「……そうだな。俺は断片に興味はないし、下手に介入して六紡閣と四饗公家の全面衝突を招くような真似もしたくはない。だから、首尾良く断片を奪ったら、さっさと逃げろ。俺はその後で阿万鵺相手に要件を済ませる。無論、奴が存命であればの話だが」
柊は意外な想いに囚われる。
それって、つまり、足止めしてくれるってこと……?
「………」
「なんだ?」
仏頂面の巽へと、柊は首を横に振る。
「ううん、なんでもない。ちょっと都合良く考え過ぎただけ。あまりにも頼りになるから、勝手にね」
そうだ。彼は四饗公家の魔術師。魔術師なんだ。
馴れ合えるような関係でもなければ、親密さを築けるような間柄でもない。
彼の人間らしい部分に触れて、錯覚を起こしていただけだ。
目を覚ませ。今までの事を思い出せ。
騏堂成叡……。魔術師とは如何なるものであったのかを。
《柊さん……》
頭の中に響く少女の声に、柊は追憶を断ち切られる。
見れば、巽の脚に隠れるようにして、少女がこちらを不安そうに見詰めている。
(あっ、しまった。恐いもの見せちゃったかも……)
柊は慌てて思考を振り払う。そして努めて平静に、少女へと話し掛けた。
「ごめん。もし何か見えたとしても、昔の事だから気にしないで。大丈夫だから、ね?」
《はい……。その、ごめんなさい……。私……》
悄然と俯く少女に、柊はどうしたものかと頭を掻く。
少女の話によれば、どうやら自分は精神感応の相性がとてつもなく良いらしい。
そのせいで意識せずとも思考探査ができるほどで、聖堂での休憩中、試しにと遊んだ連想ゲームでは百発百中。思わず二人してきゃっきゃとはしゃいでしまった。
気心知れるようになった少女とは他にも色々と話をして……。
(そうだ! あのこと……!)
閃くものがあって、柊は巽へと向き直る。
「ねえ、それで、良い名前は浮かんだ?」
一瞬、巽は何の事だと言わんげにきょとんとし、
「……ああ、こいつの名前のことか」
と、ややあって少女へと視線を傾ける。
弐神巽を父親と認識し、思考探査と思念伝達の能力を駆使して早蕨の塔攻略に尽力するこの少女には、自らのルーツに纏わる記憶が一切存在しない。
普通だったら記憶の欠如に錯乱し、情緒不安になっておかしくないところだが、やはり拠り所があるのが大きいのだろう。少女に悲壮感はなく、あまり気にしている様子もなかった。
それでも不便に思ったり、不安を覚えているようなことはないのだろうかと質問した時に、少女がおずおずと切り出したのが、自身の呼び方についてだった。
《ええと、どうしようもないことなんですけど……。お父さんが私の事を、私だって解るように呼んでくれたらいいなって……》
言われて気が付いた。
そういえば、巽は少女のことを、「こいつ」や「おまえ」といった代名詞でしか呼んでいない……。
遅ればせながらにその事実に気が付いた柊は、巽へと提案したのだ。
仮にも保護者であれば情操教育上云々と巽の少女への配慮不足を嘆いて、早急にこの子へと名前を付けてあげるように、と。
巽は、面倒だな、とぼやきつつも承諾した。ちゃんと考えてね、と再三念を押したのだから間違いない。
「考える時間はたっぷりあったはずでしょ? どう、決まった?」
ちらりと横目で伺えば、少女の綺麗な黒瞳が期待にきらきらと輝いている。
そこに怯えや震えは微塵もない。良かった。払拭できたようだ。柊は心から安堵する。
「………」
「……? どうしたの?」
「………」
「もう、焦らさないで。早く言ってあげてよ」
「……ねえ、まさか……」
「待て……。この辺りまで、出掛かっている……。もう少しだ……」
そう言って巽が胸元に喫水線を引いてから、たっぷり五分。
無言の苦悩に立ち尽くす巽を心配して、思わず影から飛び出て来た大蜈蚣が心配そうに見つめる中、巽は喉の奥から絞り出すように呟いた。
「……雪、というのは、どうだ?」
「いい名前だとは思うけど、どうして?」
「……髪が、白い……から……」
「……」
ちょっと安直なのではと思わないでもなかったが、そんなことないと柊はくすりと笑う。
満面の花が咲いたような少女の笑顔は、見ているこっちが嬉しくなってしまうほどで、それだけでなんだか救われたような気がした。
《ありがとう、お父さん! へへへ、私、雪だって。似合う?》
頬を薔薇色に綻ばせながら、大蜈蚣と躍る少女――弍神雪を満足気に眺め遣り、柊は階段へと足を向ける。
これ以上はお邪魔というものだ。部外者はさっさと先に進むとしよう。
「それじゃあ、行くわ。阿万鵺の情報、ありがとう。参考にさせてもらうわね」
「……気にするな。俺もおまえからいくつか興味深い情報を得た。等価交換だ」
《あの……》
さっきまで微笑んでいた少女が、憂いを帯びた瞳でこちらを見詰めている。
《気を付けて、柊さん……》
笑って大きく手を振り、柊は二人に背を向ける。
清々しい気分。誰かに見送られて別れを告げることが出来る。それがどんなに得難く、貴重なものだったのか、今更のように思い知る。
『それじゃあ、お姉ちゃん。またあとでね。勝手に帰っちゃだめだよ。約束だからねー!』
「……懐かしいな」
宙に生んだ蒼炎を道標とし、一歩、一歩と、柊は深淵へと降りる。
その度に、記憶は過去へと回帰する。
銀杏並木の通学路。
退屈な古典の授業。携帯を弄って叱られていた男子生徒。放課後間近のHR。
その日は部活がなくて、だったら買い物でも行こうよ、と、校門の前であの子と待ち合わせしていて……。
『やっぱりちょっと買い過ぎたと思うんだけど。ねえ、本当に食べ切れるの?』
『だいじょーぶだって。お姉ちゃん、知ってる? アイスにはね、賞味期限がないんだよー。つまり、冷凍庫できちんと保管しておけば、いつまでも食べられるってこと。ふっふっふ、これで夕食後のデザートには暫く困らないね』
『……この前、親戚から送られた大量の野菜を、皆で片っ端から刻んでフリージングしたの忘れた? 冷凍庫、もう一杯なんだけど』
『……どうしよう、お姉ちゃん!』
縋って来るあの子の手を、おどけたように躱して、からかって。
そうして辿り着いた二階建ての我が家の窓には、夜七時を回っているにも関わらず、なぜか光が灯ってなくて。
チャイムを鳴らしてもお母さんは出て来なくて、それで鍵を開けて家に入ろうとしたら、玄関の鍵はなぜか開いていて。
『お母さん……?』
電灯はスイッチを押してもなぜか点かなかった。カーテンが全部閉め切られていて、真っ暗だった。
それでも夜目を凝らしてみて、リビングのソファに、全身を弛緩させた人間が座っているのがわかった。
お父さん……? スーツのまま、口から舌を垂らして……。首、首が捩じれて……。えっ、死んで……? 嘘……。
どさっとアイスの入ったビニール袋が落ちる音がして、あの子がふらふらとソファに向かおうとして、何かに躓いて転ぶ。
どうして気が付かなかったのだろう。お母さんは私たちのすぐ近くにいた。かっと見開いた瞼。幾重にも捩じれた首を私達に向けて、仰向けに。
起き上がったあの子が私を見た。私もあの子を見た。二人とも震えていた。
次の瞬間、妹の背後に黒い影が浮かび上がった。
私は叫ぼうとした。妹に危険を告げるために。
すると、妹も同じ顔をしていた。なぜ?
不思議に思う間もなく、背後から伸びて来た手が口を塞いだ。首にぶつりと針が突き刺さり、液体が血管へと注入される。
ぞわぞわと背筋がざわめきながら、視界が万華鏡のように回り始め……。
「………」
やがて見えて来た階段の終わり。
白い石畳へと降り立った柊は、目の前にある小さな石造りの門を睨む。
妨害も、障害も何もなかった。猟奇石像の姿も見当たらなかった。
ただ、門の奥から漂う気配は噎せ返るほどに濃密で、精神がささくれ立つような生理的忌避感に満ちている。
もう、引き返せないぞ。誰かが言った気がした。
「そんなの……今更でしょ」
薄く嗤い、柊は門を潜る。
出迎えたのは、見渡す限り一面の星空。
渦巻く超構造体の中心に空がある。
その不可思議を理性的に暴こうとしても、おそらくは無駄なのだろう。
考えない。目の前のことだけに集中する。
吹き荒ぶ風もなければ、耳鳴りに鼓膜が震えることもない静寂の中、柊は昂然と鎮座するそれを見上げ、階を昇る。
スタイロベートにエンタンスの円柱が聳える、巨大な白亜の神殿へと。




