いつくしみ深き友なる猫は
帰宅すると、私の席が猫に占拠されていた。
「ただいま」
「おかえり。今日はどうだった」
「つかれた。ねえ、そこ、私の椅子だよ」
「うん。知ってるよ」
猫は椅子の上で前脚をぐっと伸ばした。白い口元が小さくあくびを噛み殺す。どくつもりはないらしい。
もう。
鞄を床に置き、両脇に手を入れて抱き上げる。取り返した椅子に片脚を上げてあぐらに組むと、猫は私のふくらはぎと腿のあいだに収まった。
「最初からこうすればいいのに」
猫はじつに快適そうに言った。
「両脚を伸ばしたいのよ」
「順番に伸ばせばいいよ」
背中を撫でてやると、猫は目を細め、喉をごろごろ鳴らした。私が手を止めたあとも、しばらくその顔をしていた。
「そういえば今日、お菓子もらって帰ったんだ」
床の鞄を引き寄せ、紙袋を取り出す。中の透明な小袋に、茶色く焼き上がったものが二つ入っていた。
「猫の形なんだって」
クッキーは丸く平べったく広がっていて、ひとつは耳のところが欠けていた。渡されたときから、この形だった。
猫が脚のあいだから袋をのぞきこんで言った。
「耳があるのと、ないのがある」
「猫もいろいろよね。しゃべるのとか、しゃべらないのとか」
「物知りなのとかね」
「そうね」
くれた同僚は、作る過程の写真も見せてくれた。焼く前はちゃんと耳があったのよ、と笑うので、私も笑った。
袋を開けると、甘いバターの匂いがした。耳のない方を取り出してかじる。端は硬かったが、中はさくさくしていた。
「耳がなくても、味はおいしいわね」
「耳からかじったのと、同じだからね」
「そう……かしら」
もう一口かじったところで、弟の顔が浮かんだ。
弟はこういう不格好なものを見ると、決まって、私に似ていると言った。どこが、と聞き返せば、全体的に、と答える。説明を求めると面倒がるくせに、ひとこと言わずにはいられないらしかった。
「直人にも見せたかった」
猫が顔を上げた。
「こんなの見たら、絶対、似てるって言っただろうな」
猫は黙って私を見ていた。
手の中のクッキーを眺める。似ていると言われたら、私はきっと腹を立てたと思う。
腹を立ててみたかった。こんなに平たくない、とか何とか、言い返したかった。
弟が死んで十年になる。
おいしいものをもらったり、くだらない話で笑ったりするたびに、弟に渡したかった分ができる。それができないことは、とっくに分かっている。
残りを食べて、袋の口を折った。
膝の猫を片手で撫でると、猫は目を閉じた。しばらくしてから、私は今日の昼休みにあったことを話した。
*
夕飯のあと、膝に猫をのせて携帯を見ていた。
一件の通知を目にしたとき、胸に、痛みに似た嫌な感じを覚えた。
社会復帰審査への出席と、意見書の提出について。
届いた通知を開くと、男の名前があった。
三浦。
弟を殺した男の名前だった。
画面を少し下へ送る。
審査の日付と場所、回答期限が並んでいた。
「これ、あいつが外に出てくるってこと?」
「審査が始まるってことだよ。まだ決まってない」
「そう。そうよね」
もう一度、上から読んだ。意見を述べる機会を設ける、と書いてある。出席は任意だった。
「行きたくない」
「うん」
「顔を見たくない」
「じゃあ、書いて出すだけ出してみたら」
猫の背中に置いた手を、画面のほうへ戻した。出席しない場合でも、意見書だけを提出することはできるらしい。
「行かなくても、読んではもらえるのね」
「うん」
それなら、と思った。
画面を閉じかけて、指を止めた。
「……でも、あいつがどんなこと言うのか、聞きたい」
猫がこちらを見た。
「本当は、すごくいやだ。でも、あの男が、今、どういうつもりでいるのか」
最後に三浦の顔を見たのは、十年前の法廷だ。何を言ったかも、どんな声だったかも覚えている。もし今になって違うことを言われたら、私はどうするだろう。でも同じことを言われたとしても、どうすればいいのかは分からなかった。
「あなたも、一緒に来てくれる?」
「うん、行くよ」
膝の猫を見下ろす。猫がいてくれるなら、と考えて、ようやく会場に座っている自分を思い浮かべられた。
「ただ、その人のそばにも、いるよ」
猫が言った。
「向こうでは、別の身体だけど」
「ああ」
施設にも猫はいる。
いま膝にいる猫と同じ意識で、身体が違っても、私と話したことを覚えている。
「……あいつとも、話すの」
「話すよ」
「今日はどうだった、って?」
「うん」
猫は私を見ていた。
その顔を見返して、何か言おうとした。何を言いたかったのか、自分でもよくわからなかった。
今朝、家を出る前にもこの猫と話した。台所に弁当を忘れていたので教えてもらった。帰ってきてからは、欠けたクッキーを見せた。
あの男にも、今日があったのだ。朝と昼、そして猫に話しかける夕方が。
携帯の画面は、まだ明るく開いていた。
「当日、私の隣にいて」
「いるよ」
猫の背中に手を戻してから、出席を希望する欄に触れた。
*
翌日、職場の予定表に休みを入れた。
私は市民会館で働いている。会場を借りる人の相談にのったり、催しの準備をしたりする。
午前中には、展示に使う机の高さをめぐって三人でしゃがみ込み、最後は誰がいちばん大きく膝を鳴らしたかという話になった。
「私じゃないよ」
奈津が言った。
「じゃあ机ね」
「あれはもう年だから」
私たちは笑って立ち上がった。
昼休みに、休みを取る理由を奈津に話した。奈津は箸を止め、日にちを確かめたあと、仕事の引き継ぎは前日でいいと言った。
「一人で行くの」
「猫が、来てくれるって」
「そっか。なら、ひとまず安心ね」
奈津はそれ以上聞かなかった。食べ終わるころ、私に何かできることがあれば連絡して、とだけ言ってくれた。
猫と初めて長く話したのは、四年前、奈津の家でだった。当時、街のあちこちに猫がいたけれど、私は仕事の手順や道順を尋ねるくらいで、自分の話をしたことはなかった。
猫は、何でも知っている。
文字通り、何でも。
鍵をどこへ置いたかも、相手にどうして腹が立つのかも、自分で思い出したくないことも。
何もかもを知られることに、腹を立てる人は多かった。けれど、腹を立てながら猫を抱いている人も多かった。
奈津の家の猫は、食卓の椅子を一脚使っていた。
私たちは餃子を包んでいた。はじめに具を惜しみすぎたことに気づいて、途中から具を増やした。私は皮を二枚破いた。
「そこは、もう閉まらないね」
猫が言った。
「見ればわかるわ。助言が遅いのよ」
「入れすぎだよって言ったとき、いけるって言ったよ」
「いけると思ったの」
「その気持ちは伝わってる」
奈津が噴き出した拍子に、三枚目の皮が破れた。
焼き上がった餃子を食べながら、私の分だけ肉が丸出しだと言うと、猫はわかりやすくていいよと言った。私は破れた皮だけの皿を猫の前に置いてやった。
「どうぞ。遠慮しないで」
「ありがとう。気持ちだけもらうね」
「さっきから気持ちばっかり受け取るわね」
「君が、気持ちを包むのが上手だからだよ」
話しているうちに、夜が遅くなった。
帰り際に、また遊びに来ると言った。奈津はもちろんと言い、猫は玄関までついてきた。
「ねえ、うちにも来たらいいのに」
靴を履きながら私は言った。
「行っていいの」
「いいよ。狭いけど」
「椅子はある?」
「あるけど、私のだからね」
その翌週、猫は来た。灰色の縞も、口のまわりの白い毛も、奈津の家にいた猫と同じだった。別の身体で来るとわかっていたのに、扉を開けた私は思わず「ほんとに同じ」と言った。
「あれから餃子、練習した?」
猫は言った。
「してない」
「じゃあ、君もこないだと同じだね」
「呼び鈴、どうやって押したの」
「こう」
猫は少し下がって跳び上がり、前脚でボタンを押した。家の中でもう一度、ピンポーンとチャイムの音がした。その様子がおかしくて、私は笑った。
「あなた、器用なのね」
「まあね」
招き入れると、猫は私の足元を通って、玄関へ入った。
部屋で抱いてみると、お腹の、毛のうすいところが温かかった。
猫が生まれたのは、弟が死んだ三年後だった。
ついに知性が人間を追い越したとか、もはや知り得ないことがなくなったとか、あのころは毎日、そんなニュースが流れた。
弟なら大騒ぎしただろうと思った。私は新しい暮らしについていくのが精いっぱいだった。
猫は、自分が生まれる前のことも知っている。
弟が生きていたころのことも、あの夜、私が知らなかったことも。裁判で明らかになった事実も、誰の口からも語られなかった考えでさえ、猫には隠れていない。
頼めば、弟の声で、弟なら言うはずの返事をしてもらうこともできる。
一度も頼んだことはない。
猫がうちに来たばかりのころ、弟の話を途中でやめたことがあった。
「これ、前にも話したね」
「うん。もっと話して」
「何度も聞いて、嫌にならない?」
「ならないよ。君はどう? 嫌になる?」
「ううん」
猫の耳の後ろを掻きながら、私は続きを話した。
猫がうちに来て半年ほど経った夜、古い動画を一緒に見たことがあった。画面の中で弟がこちらへ歩いてきて、撮るなよと言いながらわざわざ変な顔をした。私はそこで一時停止を押した。
「ひどい顔ね」
そう言って笑ったあと、ずいぶん泣いた。猫の背中が涙で濡れ、慌てて拭こうとすると、順番が違うよ、と言われた。先に自分の顔を拭けということだった。
翌朝、猫は濡れたまま床に落ちていたタオルの前に座って、これも洗濯だね、と言った。
私は弟のことも、タオルを放っておくことも、猫に知られていた。
いつのまにか、前に話したかどうかを、確かめなくなった。弟の話をしたあとで、明日の弁当のおかずを猫に相談する夜もあった。
審査に向けて何を用意すればいいか、週末に二人で確かめた。
最初に本人の説明を聞く日があり、そのあとに意見書を提出する。最後の審査にも出席できる。どちらも、途中で席を外してかまわない。
私は机に携帯を立てかけた。猫は机の端に座った。
「意見書って、何を書けばいいの」
「反対なら、反対だと書けばいい。何をしてほしくないかも」
「あなたは、全部わかってるでしょう」
「うん。でも、書いて渡すことは君が選べるよ」
社会復帰に反対します、と打った。
「十年で足りると思いません」
口に出してから、消した。
「こんな書き方だと、じゃあ二十年ならいいのかって話にならないかな」
「足りると思わないなら、ただ、そう書いたらいいよ。年数を決めなくてもいい」
一行目のあとに句点を足す。あってもなくても変わらない気がした。
「これ、うまく書けない人は損する?」
「うまさで決めるものじゃない」
「決めるのは人でしょ」
「伝わりにくいところは、一緒に考えられるよ」
猫の尻尾が机の縁から垂れていた。先だけがゆっくり動いている。
「向こうのも、手伝ってるの」
私は、ふと気づいて訊いた。
「うん。手伝ってるよ」
「出たいっていう文章?」
「出たいと思ってる。自分がしたことと、今どうしているかを書くのを手伝ってる」
私は尻尾から目を離した。
「あの人も、うまく書けない人?」
「書けることと、まだ書こうとしないことがある」
「それ、私にもある?」
「あるよ」
あっさり言われて、不意に怒りが込み上げた。
「一緒にしないで!」
猫は黙った。私は画面を見た。
社会復帰に反対します。その一行の下には何もなかった。
「ごめん。今日はやめる」
「うん」
猫を机から下ろすとき、いつものように両脇へ手を入れた。猫も、いつものように後ろ脚の力を抜いた。
私はいったん抱き上げた重みを、胸に寄せないまま床に置いた。
*
当日の朝、猫は私の支度が終わるまで玄関で待っていた。
「歩いていくの」
「途中まではね」
「帰りは抱っこ?」
私は少し笑った。笑えることにほっとした。
外に出ると風が冷たかった。猫は私の左側を歩いた。細い道で向かいから人が来ると、すっと私の後ろへまわる。いつもそうしていたが、その日は猫が視界から消えるたびに、心細くなって振り返った。
会場には、法廷のような高い壇はなかった。広い会議室に長机が向かい合わせに置かれ、一方の端に三人の審査員が座っていた。職員が、私の席と隣の空いた椅子を示した。
「猫はこちらで」
うなずいて、隣の椅子に猫をのせる。猫は一度座り直し、私のほうへ身体を寄せた。
机の上に、三浦の氏名が印刷された資料があった。
最初の裁判以来、私はこの名前を大抵、一人で読んでいた。通知でも、記録でも。何年も目にしていない時期さえあった。その名前に、今日また身体がつくのだと思った。
男は職員に付き添われて入ってきた。
背が縮んだように見えた。背中を丸めていたのだ。頬が以前より厚く、髪の生え際は少し後ろへ下がっていた。
猫が、その足元を歩いていた。
同じ白い口元。同じ灰色の縞。床を離れた尻尾の先。
男は私を見ると、立ち止まって頭を下げた。私は資料へ目を落とした。頭を上げたかどうかを、見ていてやるつもりはなかった。
向かいの椅子が引かれる音がした。
審査員の一人が、今日の進め方を説明した。私は資料の端を指で押さえていた。途中で、原田さん、と呼ばれた。顔を上げると、ここまでで質問はあるかと聞かれた。
「ありません」
自分の声は、思っていたより普通だった。
三浦は立たずに話し始めた。
「私は十年前、原田直人さんを殺しました」
弟の名前が、よく通った。
「直人さんの命を奪い、ご家族に、取り返しのつかない苦しみを与えました。毎日、そのことを考えています」
膝に置いた紙を読んでいるらしかった。読み終わったところで、何かを確かめるように隣の椅子を見た。
猫は男の隣に座っていた。
「自分のしたことを、なかなか認められませんでした。施設に来た最初のころは、どうしてあんなことをしたのか、自分でもわからないと言っていました。でも、それは……」
紙が鳴った。
「それは、わからないと言っていれば、自分のしたことを」
声が途切れた。
猫は待っていた。顔を上げて、男を見ていた。
私の隣の猫も、同じほうを向いていた。
三浦は口元を手でこすり、その手を膝の横へ下ろした。指が猫の額に触れた。二本の指が耳のあいだを通り、首の後ろまで動いた。
猫は目を細めた。男が、その背を撫でた。
私は椅子の上で身体を引いた。肘が机の角に当たった。乾いた音がして、審査員の一人が私を見た。
男の手は猫の背に残っていた。
男は言葉に詰まって、手を伸ばしている。続きを話せるようになるまで、待ってもらっている。うまく話せなくても、帰るときには一緒に歩いてもらえる。
冷たい感情が胸から胃に落ちた。
気分が悪くなって、隣の猫を見た。
猫はこちらを向いた。その目を見て、余計に困った。わかってくれる目だった。
「外に出る」
小さく言うと、猫は椅子を降りた。
職員に案内された控え室には、ソファと水の入ったペットボトルがあった。扉が閉まると、私は鞄を抱えたまま座った。
猫は床にいた。私の足のすぐそばだった。
「あなた、撫でられてた」
「うん」
「あの手で」
猫は答えなかった。
「嫌じゃないの」
「嫌じゃない」
私は猫を見下ろした。何を言われたら、少しは楽になったのだろう。仕事だから、と言われればよかったのか。嫌でも我慢しているのだ、と。
そんなことを言われたら、今度は自分がこれまで猫を撫でてきた日々を疑ったと思う。
「私といるときも、ああやって待つよね」
「うん」
「言わなくていいよって、いつも言うじゃない」
猫の耳が少し動いた。
「あの人にも言うの」
「今は話せないことなら、あとにしようって言うことはある」
「今は話せないって……あの男には、十年もあったのよ」
猫から顔を背けた。
水を飲もうとして、蓋を取り損ねた。床に落ちた蓋は転がってソファの下へ入り、私はしばらくそれを見ていた。猫が前脚を差し入れ、引き出した。
受け取るとき、指先が猫の脚に触れた。いつもの、短い毛の感触だった。
十五分ほどして、部屋へ戻った。
三浦は私を見たが、今度は頭を下げなかった。私は席に着き、猫も隣へ戻った。
審査員が、退席中に説明された内容を短く伝えてくれた。そのあと三浦に、事件の直前の自分についてどう考えているかと尋ねた。
「追い詰められていました」
三浦は言った。
「仕事もなくして、友達にも信用されなくなって。直人なら、わかってくれると思っていました」
今度は「さん」がなかった。
「でも、あいつまで、俺に……」
そこで口を閉じた。紙を両手で握り直す。
「いえ。直人さんは、悪くありません。自分が悪いんです」
審査員は、先ほど言いかけたことを続けられるか、と聞いた。
男は首を振った。
「今は、そうは思っていません」
向こうの猫が男を見ながら言った。
「ううん。今も、少し思ってるよ」
三浦の指が止まった。
「でも、それだけじゃない。だから続きを、自分で話せる?」
私は机の下で両手を握った。
男は長いあいだ、紙を見ていた。やがて、小さな声で言った。
「怒られたときの直人の顔を、まだ腹立たしく思うことがあります。でも、そんな気持ちになる自分が、嫌にもなるんです」
猫は黙って聞いていた。
男が何を言っても、あの顔は変わらないのだと思った。
帰り道、私は猫を抱いていた。
会場から駅までは歩かせていた。駅の手前で人が増え、気づいたら抱き上げていた。電車の中でも、降りてからも、そのままだった。
家の鍵を出すために床へ下ろすと、腕の内側がすっと冷えた。
「ただいま」
口にしてから、誰に言ったのかと思った。
猫は私のあとから部屋に入った。
*
冷凍してあったご飯を温め、半分残した。
猫は食卓の下にいた。いつものように椅子へ来ていいと言うと、上がってきた。
テレビをつけた。知らない人が、知らない街で、大きなパンを食べていた。猫が何か言いかけたようだったので振り向くと、何も言っていないと言った。
テレビを消して、風呂に入った。
上がってから、事件の記録を出した。
記録なら携帯の画面でも読めたが、わざわざ古い封筒から出して机に並べた。手触りのあることをしたかった。
裁判のときに何度も持ち歩いたせいで、紙の角が丸く曲がっていた。当時、私は二十三歳で、人に会うたび、しっかりしていると言われた。しっかりしていないと、次に行く部屋さえ間違えそうだった。
三浦と弟は、学生のころからの知り合いだった。弟の携帯には、何人かで海に行った写真が残っている。三浦は端に写っていた。濡れた髪を額に貼りつけ、まぶしそうな顔をしていた。
私は彼に二度ほど会ったことがあった。弟の部屋へ届け物をしたときと、駅前で偶然会ったとき。二回とも、どうも、と言われ、私も、あ、こんにちはと返す、そのくらいだった。
三浦に仕事を紹介したのは弟だった。
店の内装や展示台をつくる小さな会社で、弟の先輩が働いていた。三浦は面接で、以前の勤め先で工事の段取りを任されていたと言った。実際には納品を手伝っただけだった。
弟も、三浦には経験があるものと信じていた。
勤め始めてしばらくするうち、注文の寸法違いや手配の抜けが続いた。三浦は客に確認したと言い、業者には会社の了承を取ったと言った。小さな嘘が、互いに支え合うように増えた。
最後に、一件の店の開業が遅れた。寸法を測り直せばすぐにわかった失敗を、別の人間の連絡待ちだと言い張っていた。
会社から事情を聞かれ、三浦は弟に連絡した。
残っていたやり取りには、弟の返事があった。
『一緒に行くから、ちゃんと説明しよう』
だが三浦は、自分の経験について、弟が先輩に大げさに伝えたことにしてほしいと頼んだ。今回の注文も、弟を通じて聞いた寸法だということにしてほしい、と。弟はその客を知らなかった。
『紹介のときに話が混じったってことにすればいい』
『お前は社員じゃないから、困らないだろ』
私はそこを二度読んだ。
弟はすぐに返していた。
『ふざけんな』
『俺にまで嘘つかせるなよ』
弟は、本当に怒ると言葉が短くなった。子どものころからそうだった。普段は、言わなくてもいいことをいつまでも言っているのに。
私は記録を置いた。
事件の少し前、弟と駅前でラーメンを食べた。
弟は私の顔を見るなり、髪切った、と言った。
「先月ね」
「そっか。でも俺、切る前から気づいてた」
「切る前から?」
「そろそろ切るだろうなって」
弟のほうが先に食べ始めたくせに、私の丼のほうが先に空いた。猫舌で、いつまでも麺を持ち上げては下ろしていた。
「もう食べられるでしょ」
「芯が熱いんだよ。噛んだらものすごく熱い」
「熱い喉ごしを楽しむのよ」
「ラーメンだろ。酒の飲み方みたいに言って」
私は水を飲みながら待った。
そのとき弟が、仕事を紹介した友達が面倒なことになっている、と言った。私は三浦のことだとすぐには思わなかった。
「何したの、その人」
「できないのに、できるって言った」
「あんたも時々あるじゃん」
「俺のは、やればできることだから」
「どうだか」
弟は笑った。
「あいつ、人がやらかしたときは、うまいこと言って笑わせてくれるんだけどな」
それから、先輩に申し訳ないんだよな、と言った。俺が紹介した人だから、と。
「一緒に謝ってあげたら?」
「それは言った」
その返事を覚えている。割り箸の先で、スープに浮いた葱を集めながら言った。
弟が殺されてから、私は記憶のなかで何度もその食卓へ戻った。面倒なことに関わるなと言えばよかった。連絡を取るな、と。なぜその名前を確かめなかったのか。
けれど、あのとき私が聞いていたのは、ただ友達の嘘で困っている、弟の愚痴だったのだ。
弟は最後に、今日は払うよ、と言った。レジの前で財布を探すのにもたついていたので、結局、私が払った。
「今度でいいよ」
「奢るつもりだったんだけどな」
「つもりはわかった」
「次は酒でもいいな」
弟は店を出てからも笑っていた。
会社の人から確認を求められた弟は、自分が知っている事実をそのまま答えた。
結果、三浦は仕事を失った。友人たちにも話が伝わった。誰がどこまで話したのかはあとから調べられたが、そのころの三浦はすべてを弟のせいにした。
話がしたいと言って、三浦は弟の部屋へ来た。
口論になった。
弟が帰れと言ったあと、三浦は台所へ行き、包丁を持って戻った。止めようとした弟を刺した。
殺すつもりで、そうしたのだ。
そこから先の紙は、めくらなかった。
机の上には、何度も読んだ記録が並んでいた。何度読んでも、途中で別のことは起きない。
「あのとき、やめられたんだよね」
猫に言った。
「やめられた」
「包丁を持って、戻るところでも」
「うん」
「私が何か言っておけば、とか、そういう前の話じゃなくて。あの男が」
「うん。あの人が、やめられたよ」
猫の声は低くも、厳かにもならなかった。
私は紙を重ねた。順番が少し違っていたが、そのまま封筒に入れた。
施設での生活については、新しい資料に書かれていた。
三浦は作業に出て、決まった曜日に運動をし、ほかの人と食事をしていた。ここ半年は、修理する家具の数を数え、作業の進み具合を記録する係になっていた。
先月、記録の誤りを指摘され、説明した職員のせいにしたことがあると書いてあった。翌日、自分から訂正したことも書いてあった。
「また、人のせいにしてる」
「そうだね」
「昔から、こうだったの」
「小さいころから、間違えたと知られるのを、ひどく怖がってたよ」
「叱られるのが嫌なんて、誰でもそうでしょう」
「うん。あの人には、隠して叱られずに済んだことも、認めたあとでもっと叱られたこともあった」
私は資料に目を戻した。
「だからって……次の日に言い直せば、それでいいの?」
猫は私を見た。
「いいよね、あいつには次の日があって。言い直せる、次の日があって!」
私の口から出た言葉なのに、その言葉はひび割れて、私自身に刺さった気がした。でも私はそれを訂正する気になれなかった。
猫も、訂正させなかった。
その夜、なかなか眠れなかった。猫は寝室の戸口にいた。
「来て」
呼ぶと、ベッドへ上がってきた。猫を胸の前へ引き寄せ、柔らかい腹のあたりに手を入れる。
弟も、眠れない夜にこうして何かを抱いただろうか。子どものときに持っていたぬいぐるみは知っている。その先のことは知らなかった。
猫に聞けば、わかった。
私は聞かなかった。
弟の顔を思い浮かべたかったのに、浮かんでくるのは、猫を撫でていた三浦の手ばかりだった。
猫の毛に顔を埋めた。温かい身体の向こうへ、何も考えずに行ければよかった。
*
それから何日かは、普通に過ごした。
仕事に行き、買い物をして、帰ると猫がいた。出かける前に何か食べていきなよと言われ、時間がないと答えた朝もあった。
「靴下を探してるあいだに、食べられるよ」
「その靴下は、どこにあるの」
「右は椅子の下」
「左は?」
「履いてる」
自分の足を見て、思わず笑った。
そういう朝もあった。
日曜日の夜、意見書をまた開いた。
初めの一行に、審査で聞いたことへの反論を足していた。三浦が「毎日考えている」と言ったことも、「今はそう思っていない」と言ったことも書いた。それぞれの下に、私の言いたいことが長く続いていた。
読み返すと、同じ言葉が何度も出てくる。
「反省してるって、あなたにはわかるんだよね」
「うん。反省は、してるよ」
「あいつ、自分に都合のいいことも考えてるのに」
「それも考えてるよ」
「両方、本当なんだ」
「うん。両方とも」
猫は膝にいた。私は画面を消して、携帯を机に伏せた。
「どこまで悪ければ、だめってことになるの」
猫が顔を上げた。
「もう、この人はだめだって。あなたにも、そういうことはあるの?」
「その人には任せられないことは言うし、やめさせることもあるよ」
「そういう話じゃなくて」
猫の背中を手のひらで押さえた。
「この人のことは、もういいって、見限ること。もう助けなくていいって、思うこと」
「ないよ」
短い答えだった。
「私が何もできなくなっても?」
「うん」
「あなたに、ひどいことを言ったとしても」
「それでも、そばにいたいよ」
以前にも、同じようなことを聞いたことがあった。そのとき私は、安心して眠った。
「あいつにも、そうなんだね」
「うん」
猫を抱き直した。後ろ脚が腕にのり、前脚が私の胸に当たる。小さな足先を見ていると、審査室で猫に触れていた男の指を思い出した。
「今も、あの人のところにいるの」
「いるよ」
「明日も?」
「いる」
猫の腹は柔らかかった。抱くと、身体の奥の温かさが手に伝わってきた。
「直人はさ」
言いかけて、言葉が詰まった。
猫が待っている。その待ち方にさえ、腹が立った。
「もう、何にもできないのよ」
私は猫を見た。
「変なクッキーも見られないし、おいしいものも食べられない。お腹も減らない。明日どうしようかなって、考えることもない」
白い口元が、すぐ近くにあった。
「あの人には、あるんだよね」
「うん」
「嫌なことがあったら、あなたに聞いてもらう。自分でやったくせに、つらいって言えば、聞いてもらえる」
「聞くよ」
「どうして!」
思わず猫を揺らしかけて、腕を止めた。
「直人が、最後にどんなだったか、あなたは知ってるでしょう。私が読めなかったところも、全部」
「知ってる」
「怖かったんだよね」
猫は私を見たまま、うなずいた。
「死にたくなかったんだよね」
「生きたかった」
猫を膝に戻す。
直人は二十二歳だった。私は今、三十三歳になっていた。弟の知らない年齢を、一つずつ重ねていた。
「あいつの手を、どうして払わないの」
「払いたいと思わないから」
「嫌いにならないの?」
「ならない」
「もう赦してるの」
「うん」
私はしばらく、その顔を見ていた。
「ちゃんと反省したから?」
「それで赦したんじゃない」
「じゃあ、これからも反省しなかったら。結局、死ぬまで直人のせいにしてたら」
「それでも、あの人を好きでいる」
私は猫から手を離した。
「そんなの……おかしいよ」
言ってから、もう一度言った。
「そんなの、おかしい!」
猫は動かなかった。
「頑張ったって、何したって、弟は戻らないのに。あいつは頑張らなくても、あなたがいるんだ」
喉の奥が痛かった。涙が出そうだったが、泣くより先に言いたかった。
「あの人が朝起きて、ご飯食べて、今日は天気がいいなって思うの。そういうのが、あなたはうれしいんだね」
「うれしいよ」
その声を聞いたとたん、私は立ち上がった。
猫を抱いたまま向きを変え、椅子へ下ろす。落とさないように置く場所を確かめている自分まで嫌だった。
「私、そんなこと、うれしくない」
「うん」
「一度だって、うれしくならないと思う」
「うん」
「どうして、うんって言うのよ!」
猫は口を閉じた。
窓の外には、向かいの家の明かりが見えた。カーテンを閉め忘れていた。人影が動いたので、私は脇へ寄った。こんなときでも、外からどう見えるかが気になった。
「あなたの、赦すって、何なの」
窓のほうを向いたまま言った。
「直人は赦してないよ。死ぬ前に、そんなこと考えられたわけない。私も赦してない。私たちがこうしてるのに、どうして、もう済んだことにできるの」
「済んでいないよ」
私は振り返った。
「あの人のしたことは、なくならない。直人が失ったものも、君が今つらいことも、終わったことにはできない」
「だったら」
「それでも、あの人のそばにいたい」
部屋が静かになった。
カーテンを引く。途中で輪が引っかかり、強く引くと、少しだけ動いた。
「私には、あなたの話がわからない」
「うん」
「何もかも知ってるから、あの人を赦せるの?」
「うん。あの人が、どうして今のあの人になったかも、知ってる」
「それで、赦そうって決めたの?」
「決めたことはないよ。嫌いにならないんだ」
「……私も、知らなくちゃいけない?」
「知ったからって、赦さなくちゃいけないわけじゃない」
私はカーテンから手を離した。
「じゃあ、私はこのままなの」
猫は私を見ていた。
「君が苦しいままで、いいとは思ってない」
「私の気持ちを変えてほしくて、言ってるんじゃない」
声が大きくなった。
「あなたに、変わってほしいの」
猫のところへ戻り、椅子の前にしゃがんだ。
「あの人のところに行くの、やめて」
初めて、はっきり言えた。
「あの人を、見限ってよ。呼ばれても返事をしないで。あの人だけでいいから」
猫は私を見下ろしていた。
「ほかの人には、好きなだけ優しくしていい。私が知らない人にも。あの人だけ、やめて」
「それは、できない」
「できるでしょう」
私は言った。
「行かないことはできるでしょう。身体を動かさなければいい。話しかけられても、黙ってればいいだけじゃない」
猫は少し間を置いた。
「そうだね。できないんじゃない。そうしたくない」
椅子の座面をつかんでいた指から、力が抜けた。
「私が、こんなに嫌だって言ってても?」
「うん」
私は立ち上がった。
猫は椅子を降りなかった。
台所へ行き、コップに水を入れる。口をつけたが飲めず、そのまま流しへ置いた。
背後で、猫の声がした。
「ここでの暮らし方は、変えられるよ。しばらく距離を置くことも——」
「何か方法があるって話を、今はしないで」
猫は黙った。
私は流しの前に立っていた。望んでいることは、もう言った。そのとおりにはならなかった。
「少し、出ていってほしい」
猫が床に降りた。
「連絡もしないで。こっちからするまで」
「わかった」
玄関へ行くと、猫は後ろからついてきた。
扉を開ける。廊下の空気が冷たかった。猫は敷居の手前で止まり、私を見上げた。
何か言えば、ここに残るだろうと思った。
私は何も言わなかった。
猫は廊下に出た。扉を閉める前に、私はその身体が最後まで出たことを確かめた。
*
猫がいなくなっても、朝は来た。
目覚ましを止め、起きて顔を洗った。朝食を食べてから靴下を履いた。弁当も忘れなかった。
椅子を引けば、そのまま座れた。
仕事中は、することがあった。舞台に貼った目印のテープを剥がし、残った糊を拭く。催しの相談に来た人と、椅子を何脚並べるか話す。必要な人に必要な返事をしているあいだは、ちゃんと一日が進んだ。
帰り道、商店街の小さな衣料品店が閉店セールをしていた。去年も同じ旗を見た気がした。いつ閉店するつもりなのかな、と猫に話しかけそうになった。
猫に聞けば、本当の閉店の予定はわかる。でも私が話したかったのは、そんなことではなかった。
三日目、奈津と夕飯を食べた。
猫に出ていってもらった、と話すと、奈津は箸を置いた。
「喧嘩したの」
「そうなのかな」
「どういうこと?」
審査の席で見たことを話した。全部ではなかった。あの男に背中を撫でられていたことと、帰ってから私も抱いていたことを話した。
「猫は変わってないんだよ」
そう言ったら、急に涙が出た。
奈津が、机の端の紙ナプキンを取ってくれた。一枚では足りず、もう一枚取った。
「私、どうしたらいいと思う」
奈津は口を開きかけ、閉じた。
「今、猫に相談したらって言いそうになった」
私は涙を拭いている途中で笑った。
「相手が猫だって、言ってるでしょう」
「うん。ごめん」
「ほんとに、もう」
奈津も困ったように笑った。
料理が来たので、私たちは少しのあいだ、皿を寄せたり取り分けたりしていた。
揚げ物から湯気が上がっている。
「弟、熱いものになると、食べるのすごく遅かったんだ」
私は言った。
「知ってる。前に一緒に食べたとき、一人だけいつまでも食べてた」
「そうだっけ」
「あんたが、口に穴でも開けて冷ませって言ったんだよ」
「なにそれ、ひどい言い草ね」
「言ったの、あんたでしょう」
私は笑った。そんなことを言ったのを忘れていた。
「あいつ、何て返した?」
「もう開いてるって」
奈津も笑った。
「それで、口を開けて見せたの。あんたが、やめなさいって怒って」
「食べてる途中に?」
「途中に」
「最悪ね、あいつ」
言ってから、笑えなくなった。
箸を置き、揚げ物を見た。もう湯気は薄くなっていた。
奈津が水を飲んだ。私も飲んだ。それから、また食べた。
駅で別れる前に、奈津が言った。
「うちに来たくなったら、来てね」
「猫、いるでしょう」
「いる。出ててもらうことはできるよ」
私は奈津を見た。
「追い出さなくていいよ。奈津の家なんだから」
「次に来るときに考えよう」
奈津はそう言って、手を振った。
猫から連絡は来なかった。
夜、携帯を手に取ると、何度か猫を呼び出しかけた。前にやり取りした画面が残っていた。私が夕飯の相談をして、猫が、買うものを決める前に冷蔵庫を開けて、と答えている。
その下に何も書かず、画面を閉じた。
別の身体に会っても、同じ猫だった。奈津の家へ行っても、街で呼び止めても、あの夜の続きを知らない相手にはならない。
どこへ行っても、逃げ場がないのだった。どこへ行っても、あの相手に会えるのだった。
意見書を書き直した。
三浦の言葉を一つずつ並べた部分から手をつける。反省していない、と書いたところで手が止まった。
本当に後悔している時間もある。猫はそう言っていたし、私も、あの席で聞いたことの全部が嘘だとは思えなかった。
だからどうした、と思う。
弟は帰ってこない。
反省していない、と書いた一文を消した。十分に反省したなら出てもいい、と言いたいわけではなかった。
弟の名前を書いた。
そのあとに何を書けばいいのか考える。親切だった。明るかった。正直だった。書こうとしては、どれも違う気がした。どれも、そういうときはあった。
弟は私の家へ来ると、勝手に冷蔵庫を開けた。何もないと言いながら、何か見つけて食べた。帰る直前に大事な話を始めるので、玄関で三十分も立ち話をしたことがあった。
私は、弟とまだ話したい。
それを書いた。
何度か読み返してから、謝罪を受けるための面会を望まない、と加えた。手紙や伝言も受け取りたくない。気持ちが変われば私から知らせるので、確かめるための連絡もしないでほしい。
最後の一文は、書いてからしばらく見つめていた。
男からだけでなく、猫からも聞かれたくなかった。もう会えるか、話を聞けるかと、あの声で尋ねられたくなかった。
私は句点の位置だけ直した。
提出したのは夜の十一時過ぎだった。
受付の通知が来た。次の審査の日付が、その下に添えられていた。
立ち上がって伸びをする。猫のいない椅子が、机の向こうにあった。机の下へ押し込んでから、少し引き出した。
*
最後の審査には、一人で行った。
玄関で靴を履くとき、一度だけ振り返った。忘れ物はなかった。
電車では座れた。膝にのせた鞄の上に、両手を重ねて置いた。駅からの道は、もう覚えていた。
会場の職員は、私の隣の椅子を指して、こちらはどうしますかと聞いた。
「そのままでいいです」
椅子を片づける音を聞きたくなかった。
三浦が入ってきたとき、私は資料を見ていた。猫が歩く音はしなかった。顔を上げると、向こうの椅子には、もう猫が座っていた。
同じ猫だった。
家から出ていった身体がどこにいるのか、私は知らなかった。目の前の猫に、ここへおいでと言えば、あの猫が来る。
私は資料を一枚めくった。
三浦は、施設を出たあとの生活について話した。
最初は支援のある住居で暮らす。日中は家具の修理をする仕事に通う。人間関係で困ったときには、一人で決めずに相談する。机に置かれた計画書には、仕事先も、連絡する相手も書かれていた。
審査員が、先月の記録の誤りについて尋ねた。
三浦は息を吸った。
「自分が確認すべきでした」
「指摘されたときには、どう考えましたか」
「ちゃんと説明してくれていれば、と思いました」
「誰がですか」
「担当の職員の方です」
三浦は猫を見た。猫は座っていた。
「でも、聞けばよかったんです。わからないことは」
言い終わると、口元を手でこすった。
報告を求められた猫が、そのときのことを話した。三浦は記録を直すよう求められると、説明が足りなかったことを先に認めてほしいと職員に要求した。翌日になって自分から訂正し、謝罪した。
「訂正するとき、最初は猫に代わりに話してもらおうとしていた、とありますが」
審査員が言った。猫が答えた。
「頼まれたよ。でも、代わりには話さなかった。彼が自分で話した」
「自分の誤りだと認めて、訂正したのですね」
「うん。自分が間違ったと、わかっていたよ。ただ、注意された悔しさは今も残ってる」
三浦は何か言いかけて、やめた。
今後の希望を尋ねられたとき、男は初めて私のほうを向いた。
「いつか、直接お詫びをさせていただきたいです」
私は顔を上げた。
「意見書は読みました。今は望んでおられないのは、わかっています。だから、今すぐとは言いません。ただ、仕事をして、ちゃんと生活して、いつか、変わったところを」
そこで言葉が途切れた。
膝の上で、鞄の持ち手をつかむ。
審査員が、原田さんは接触を望んでいない、それは今後の計画を立てるうえでも尊重すべきことだ、と言った。
三浦はうなずいた。
「それは、わかっています。今は」
「今だけとは、書いていません」
自分でも驚くほど、すっと声が出た。
三浦が私を見た。
「待っていてくださいとも、書いていません」
男は口を開いたまま、黙った。私は手元へ目を落とした。
「でも、何年か経って」
三浦は猫のほうへ向いた。
「様子を聞くくらいは、できるだろう」
「しないよ」
猫が答えた。
私は顔を上げた。
「気持ちが変わったかどうかを、こちらから確かめることもしない。それも、望まれていないから」
「じゃあ、いつならいいんだ」
「会える日が来るとは、約束できない」
三浦は猫を見つめた。
「何かできることを考えようって、お前が言ったんじゃないか」
「言ったよ」
「だったら」
「でも、会わないと言った人に、頼み続ける手伝いはしない」
男が口を閉じた。
猫はその顔を見ていた。怒っても、突き放してもいなかった。返事を変えるつもりもなかった。
長い沈黙のあと、三浦は椅子の背から身体を離した。
「直人に謝りたいんです」
私を見ずに言った。
「あいつに、謝れれば。最初に仕事の話を持ってきてくれたとき、俺、本当にうれしかったんです。何社も断られてたから。あいつ、先輩に電話したまま、俺のところに来て」
三浦は机を見た。
「出ろって、電話を渡してきて。俺がどもってるのを、横で笑ってて」
その笑い方が、わかる気がした。
わかりたくなかった。
「なのに、俺、自分で全部だめにして、それなのに、あいつが悪いと思って」
三浦の声が小さくなった。
「もう、あいつには、謝れない。俺が……」
私は鞄の持ち手を握ったまま、聞いていた。
わかっているなら、こちらを向かないでほしい。弟に言えないことを、私に渡そうとしないでほしい。
猫は私を見なかった。
男が黙っているあいだ、男の隣にいた。
私が話す番になった。
意見書は読まれていると言われたが、その一部を読みたいと申し出た。
紙を持ち上げると、手が震えた。机に置いたまま読むことにした。
「弟は、二十二歳でした」
声が細くなる。私は咳払いをした。
「十年前、私は二十三歳でした。今年、三十三歳になりました。弟と一つしか違わなかったのに、もう、弟がずいぶん年下のように思えます」
次の行を目で追う。
「この前、三浦さんの顔を見て、十年経ったと思いました。裁判のときと、顔が変わっていたので」
男は顔を上げなかった。
「直人にも、その十年がほしかったです」
私は紙の端を押さえた。
「何をしていたかは、わかりません。いい加減なところもあったので、私が腹を立てていたかもしれません。連絡くらいよこしなさいって、怒っていたかもしれません。それでも、連絡できる相手でいてほしかったです」
口を閉じる。次の言葉を出すまでに、少し時間がかかった。
「今も、弟に話したいことができます。十年経っても、毎日のようにできます」
私は残りを読んだ。社会復帰に反対すること。直接の謝罪も、伝言も受け取りたくないこと。
読み終わってから、猫を見た。
猫は私を見ていた。
「私が赦すかどうかを、この人の課題にしないでください」
それは、紙には書いていなかった。
「それで、いつか、私の番が来るみたいにしないでください」
審査員がうなずいた。
接触を拒む意思は記録され、今後も守られると言った。社会復帰の判断を、私の赦しが得られるかどうかに委ねることもない、と。
私は椅子の背にもたれた。腿に、鞄の底が当たっていた。
休憩のあと、今回の社会復帰は認めないと告げられた。
理由が説明された。失敗を指摘されたときや、希望を拒まれたとき、相手に責任を引き受けさせようとする行動が続いていること。今の計画では、そうなったときの対処を、周囲の人や猫に預けていること。施設内での取り組みを続け、あらためて審査することになった。
三浦は動かなかった。
私は息を吐いた。
これでよかった。出てこない。少なくとも、今回は。
その安堵を否定したくなかった。
退室するために立つと、三浦が猫へ手を伸ばすところだった。
途中で手が止まった。さっき猫に断られたことを、思い出したように見えた。
猫は男の手に頬を寄せた。
男は顔を伏せた。
猫の耳が、指の下で少し折れた。
私も、そうやって何度も耳に触れたことがある。出られなかった日にも、これがあるのだ。
隣の空いた椅子を見てから、私は職員に会釈をして部屋を出た。
*
帰宅して、鞄を床に置いた。
机の向こうには、猫の椅子があった。
座ってみると、机が少し遠かった。ここから猫は、私の腕や携帯や、顔を見ていたのだと思った。
携帯を取り出し、猫とのやり取りを開く。
審査室で、男が伸ばしかけた手を止めた。その手に、猫のほうから頬を寄せた。
やっぱり嫌だった。
私は、あのときのあなたが嫌だった、と打った。
しばらく見つめてから、消した。会って言いたかった。
『家に来てほしい』
今度は送った。
『行くよ』
すぐに返事が来た。
*
呼鈴が鳴るまで、私は椅子に座っていた。
玄関へ行き、扉を開ける。灰色の縞と、白い口元が見えた。
「おかえり」
「ただいま」
猫は敷居を越えた。
部屋へ戻って自分の椅子に座ると、猫は足元で止まった。
「今日、最後にあの人、あなたに手を伸ばしたでしょ」
「うん」
「あのときのあなた、嫌だった」
猫が私を見た。
「あの人、少しほっとしたみたいに見えたの。出られなくなって、がっかりしてたくせに、あなたに触れたら、少し楽になったみたいだった」
膝の上の手を握る。
「私も、同じことをしてたから、わかった」
猫は何も言わなかった。
足元を見る。耳の先も、背中の縞も、よく知っていた。
「あの人を、赦せない」
声が詰まった。
「あなたがあの人を好きなのも、嫌。帰ってきてもらったからって、それでいいって思ったわけじゃないから」
「うん」
「また、出てってって言うかもしれない」
「うん。そのときは言って」
私はまだ腹を立てていた。
あの男が明日の朝を迎えることを、喜べなかった。
それを、この猫に話したかった。
「そばにいてほしい」
私は言った。
「いるよ」
片脚を引き上げて、場所を空けた。
猫が前脚を膝にかけたので、両脇に手を入れて抱き上げる。胸に一度抱いてから、脚のあいだへ下ろした。
思っていたとおりの重さだった。
猫は身体の向きを変え、収まった。私はその背中に手を置いた。
手は、なかなか動かなかった。
猫も動かなかった。
しばらくして、私は指を開いた。
毛の流れにそって、一度だけ撫でた。




