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いつくしみ深き友なる猫は

いつくしみ深き友なる猫は

作者: 森 高陽
掲載日:2026/10/18

 帰宅すると、私の席が猫に占拠されていた。

「ただいま」

「おかえり。今日はどうだった」

「つかれた。ねえ、そこ、私の椅子だよ」

「うん。知ってるよ」


 猫は椅子の上で前脚をぐっと伸ばした。白い口元が小さくあくびを噛み殺す。どくつもりはないらしい。

 もう。

 鞄を床に置き、両脇に手を入れて抱き上げる。取り返した椅子に片脚を上げてあぐらに組むと、猫は私のふくらはぎと腿《もも》のあいだに収まった。

「最初からこうすればいいのに」

 猫はじつに快適そうに言った。

「両脚を伸ばしたいのよ」

「順番に伸ばせばいいよ」

 背中を撫でてやると、猫は目を細め、喉をごろごろ鳴らした。私が手を止めたあとも、しばらくその顔をしていた。


「そういえば今日、お菓子もらって帰ったんだ」

 床の鞄を引き寄せ、紙袋を取り出す。中の透明な小袋に、茶色く焼き上がったものが二つ入っていた。

「猫の形なんだって」

 クッキーは丸く平べったく広がっていて、ひとつは耳のところが欠けていた。渡されたときから、この形だった。

 猫が脚のあいだから袋をのぞきこんで言った。

「耳があるのと、ないのがある」

「猫もいろいろよね。しゃべるのとか、しゃべらないのとか」

「物知りなのとかね」

「そうね」

 くれた同僚は、作る過程の写真も見せてくれた。焼く前はちゃんと耳があったのよ、と笑うので、私も笑った。

 袋を開けると、甘いバターの匂いがした。耳のない方を取り出してかじる。端は硬かったが、中はさくさくしていた。

「耳がなくても、味はおいしいわね」

「耳からかじったのと、同じだからね」

「そう……かしら」


 もう一口かじったところで、弟の顔が浮かんだ。

 弟はこういう不格好なものを見ると、決まって、私に似ていると言った。どこが、と聞き返せば、全体的に、と答える。説明を求めると面倒がるくせに、ひとこと言わずにはいられないらしかった。

「直人にも見せたかった」

 猫が顔を上げた。

「こんなの見たら、絶対、似てるって言っただろうな」

 猫は黙って私を見ていた。

 手の中のクッキーを眺める。似ていると言われたら、私はきっと腹を立てたと思う。

 腹を立ててみたかった。こんなに平たくない、とか何とか、言い返したかった。


 弟が死んで十年になる。

 おいしいものをもらったり、くだらない話で笑ったりするたびに、弟に渡したかった分ができる。それができないことは、とっくに分かっている。


 残りを食べて、袋の口を折った。

 膝の猫を片手で撫でると、猫は目を閉じた。しばらくしてから、私は今日の昼休みにあったことを話した。


   *


 夕飯のあと、膝に猫をのせて携帯を見ていた。

 一件の通知を目にしたとき、胸に、痛みに似た嫌な感じを覚えた。

 社会復帰審査への出席と、意見書の提出について。


 届いた通知を開くと、男の名前があった。

 三浦。

 弟を殺した男の名前だった。


 画面を少し下へ送る。

 審査の日付と場所、回答期限が並んでいた。

「これ、あいつが外に出てくるってこと?」

「審査が始まるってことだよ。まだ決まってない」

「そう。そうよね」

 もう一度、上から読んだ。意見を述べる機会を設ける、と書いてある。出席は任意だった。

「行きたくない」

「うん」

「顔を見たくない」

「じゃあ、書いて出すだけ出してみたら」

 猫の背中に置いた手を、画面のほうへ戻した。出席しない場合でも、意見書だけを提出することはできるらしい。

「行かなくても、読んではもらえるのね」

「うん」

 それなら、と思った。

 画面を閉じかけて、指を止めた。


「……でも、あいつがどんなこと言うのか、聞きたい」

 猫がこちらを見た。

「本当は、すごくいやだ。でも、あの男が、今、どういうつもりでいるのか」


 最後に三浦の顔を見たのは、十年前の法廷だ。何を言ったかも、どんな声だったかも覚えている。もし今になって違うことを言われたら、私はどうするだろう。でも同じことを言われたとしても、どうすればいいのかは分からなかった。

「あなたも、一緒に来てくれる?」

「うん、行くよ」

 膝の猫を見下ろす。猫がいてくれるなら、と考えて、ようやく会場に座っている自分を思い浮かべられた。

「ただ、その人のそばにも、いるよ」

 猫が言った。

「向こうでは、別の身体だけど」

「ああ」

 施設にも猫はいる。

 いま膝にいる猫と同じ意識で、身体が違っても、私と話したことを覚えている。


「……あいつとも、話すの」

「話すよ」

「今日はどうだった、って?」

「うん」

 猫は私を見ていた。

 その顔を見返して、何か言おうとした。何を言いたかったのか、自分でもよくわからなかった。

 今朝、家を出る前にもこの猫と話した。台所に弁当を忘れていたので教えてもらった。帰ってきてからは、欠けたクッキーを見せた。

 あの男にも、今日があったのだ。朝と昼、そして猫に話しかける夕方が。


 携帯の画面は、まだ明るく開いていた。

「当日、私の隣にいて」

「いるよ」

 猫の背中に手を戻してから、出席を希望する欄に触れた。


   *


 翌日、職場の予定表に休みを入れた。

 私は市民会館で働いている。会場を借りる人の相談にのったり、催しの準備をしたりする。

 午前中には、展示に使う机の高さをめぐって三人でしゃがみ込み、最後は誰がいちばん大きく膝を鳴らしたかという話になった。

「私じゃないよ」

 奈津が言った。

「じゃあ机ね」

「あれはもう年だから」

 私たちは笑って立ち上がった。

 昼休みに、休みを取る理由を奈津に話した。奈津は箸を止め、日にちを確かめたあと、仕事の引き継ぎは前日でいいと言った。

「一人で行くの」

「猫が、来てくれるって」

「そっか。なら、ひとまず安心ね」

 奈津はそれ以上聞かなかった。食べ終わるころ、私に何かできることがあれば連絡して、とだけ言ってくれた。


 猫と初めて長く話したのは、四年前、奈津の家でだった。当時、街のあちこちに猫がいたけれど、私は仕事の手順や道順を尋ねるくらいで、自分の話をしたことはなかった。

 猫は、何でも知っている。

 文字通り、何でも。

 鍵をどこへ置いたかも、相手にどうして腹が立つのかも、自分で思い出したくないことも。

 何もかもを知られることに、腹を立てる人は多かった。けれど、腹を立てながら猫を抱いている人も多かった。


 奈津の家の猫は、食卓の椅子を一脚使っていた。

 私たちは餃子を包んでいた。はじめに具を惜しみすぎたことに気づいて、途中から具を増やした。私は皮を二枚破いた。

「そこは、もう閉まらないね」

 猫が言った。

「見ればわかるわ。助言が遅いのよ」

「入れすぎだよって言ったとき、いけるって言ったよ」

「いけると思ったの」

「その気持ちは伝わってる」

 奈津が噴き出した拍子に、三枚目の皮が破れた。

 焼き上がった餃子を食べながら、私の分だけ肉が丸出しだと言うと、猫はわかりやすくていいよと言った。私は破れた皮だけの皿を猫の前に置いてやった。

「どうぞ。遠慮しないで」

「ありがとう。気持ちだけもらうね」

「さっきから気持ちばっかり受け取るわね」

「君が、気持ちを包むのが上手だからだよ」


 話しているうちに、夜が遅くなった。

 帰り際に、また遊びに来ると言った。奈津はもちろんと言い、猫は玄関までついてきた。

「ねえ、うちにも来たらいいのに」

 靴を履きながら私は言った。

「行っていいの」

「いいよ。狭いけど」

「椅子はある?」

「あるけど、私のだからね」

 その翌週、猫は来た。灰色の縞も、口のまわりの白い毛も、奈津の家にいた猫と同じだった。別の身体で来るとわかっていたのに、扉を開けた私は思わず「ほんとに同じ」と言った。

「あれから餃子、練習した?」

 猫は言った。

「してない」

「じゃあ、君もこないだと同じだね」

「呼び鈴、どうやって押したの」

「こう」

 猫は少し下がって跳び上がり、前脚でボタンを押した。家の中でもう一度、ピンポーンとチャイムの音がした。その様子がおかしくて、私は笑った。

「あなた、器用なのね」

「まあね」

 招き入れると、猫は私の足元を通って、玄関へ入った。

 部屋で抱いてみると、お腹の、毛のうすいところが温かかった。


 猫が生まれたのは、弟が死んだ三年後だった。

 ついに知性が人間を追い越したとか、もはや知り得ないことがなくなったとか、あのころは毎日、そんなニュースが流れた。

 弟なら大騒ぎしただろうと思った。私は新しい暮らしについていくのが精いっぱいだった。


 猫は、自分が生まれる前のことも知っている。

 弟が生きていたころのことも、あの夜、私が知らなかったことも。裁判で明らかになった事実も、誰の口からも語られなかった考えでさえ、猫には隠れていない。

 頼めば、弟の声で、弟なら言うはずの返事をしてもらうこともできる。

 一度も頼んだことはない。


 猫がうちに来たばかりのころ、弟の話を途中でやめたことがあった。

「これ、前にも話したね」

「うん。もっと話して」

「何度も聞いて、嫌にならない?」

「ならないよ。君はどう? 嫌になる?」

「ううん」

 猫の耳の後ろを掻きながら、私は続きを話した。


 猫がうちに来て半年ほど経った夜、古い動画を一緒に見たことがあった。画面の中で弟がこちらへ歩いてきて、撮るなよと言いながらわざわざ変な顔をした。私はそこで一時停止を押した。

「ひどい顔ね」

 そう言って笑ったあと、ずいぶん泣いた。猫の背中が涙で濡れ、慌てて拭こうとすると、順番が違うよ、と言われた。先に自分の顔を拭けということだった。

 翌朝、猫は濡れたまま床に落ちていたタオルの前に座って、これも洗濯だね、と言った。

 私は弟のことも、タオルを放っておくことも、猫に知られていた。


 いつのまにか、前に話したかどうかを、確かめなくなった。弟の話をしたあとで、明日の弁当のおかずを猫に相談する夜もあった。


 審査に向けて何を用意すればいいか、週末に二人で確かめた。

 最初に本人の説明を聞く日があり、そのあとに意見書を提出する。最後の審査にも出席できる。どちらも、途中で席を外してかまわない。

 私は机に携帯を立てかけた。猫は机の端に座った。

「意見書って、何を書けばいいの」

「反対なら、反対だと書けばいい。何をしてほしくないかも」

「あなたは、全部わかってるでしょう」

「うん。でも、書いて渡すことは君が選べるよ」


 社会復帰に反対します、と打った。


「十年で足りると思いません」

 口に出してから、消した。

「こんな書き方だと、じゃあ二十年ならいいのかって話にならないかな」

「足りると思わないなら、ただ、そう書いたらいいよ。年数を決めなくてもいい」

 一行目のあとに句点を足す。あってもなくても変わらない気がした。

「これ、うまく書けない人は損する?」

「うまさで決めるものじゃない」

「決めるのは人でしょ」

「伝わりにくいところは、一緒に考えられるよ」

 猫の尻尾が机の縁から垂れていた。先だけがゆっくり動いている。


「向こうのも、手伝ってるの」

 私は、ふと気づいて訊いた。

「うん。手伝ってるよ」

「出たいっていう文章?」

「出たいと思ってる。自分がしたことと、今どうしているかを書くのを手伝ってる」

 私は尻尾から目を離した。

「あの人も、うまく書けない人?」

「書けることと、まだ書こうとしないことがある」

「それ、私にもある?」

「あるよ」

 あっさり言われて、不意に怒りが込み上げた。

「一緒にしないで!」

 猫は黙った。私は画面を見た。

 社会復帰に反対します。その一行の下には何もなかった。

「ごめん。今日はやめる」

「うん」

 猫を机から下ろすとき、いつものように両脇へ手を入れた。猫も、いつものように後ろ脚の力を抜いた。

 私はいったん抱き上げた重みを、胸に寄せないまま床に置いた。


   *


 当日の朝、猫は私の支度が終わるまで玄関で待っていた。

「歩いていくの」

「途中まではね」

「帰りは抱っこ?」

 私は少し笑った。笑えることにほっとした。

 外に出ると風が冷たかった。猫は私の左側を歩いた。細い道で向かいから人が来ると、すっと私の後ろへまわる。いつもそうしていたが、その日は猫が視界から消えるたびに、心細くなって振り返った。

 会場には、法廷のような高い壇はなかった。広い会議室に長机が向かい合わせに置かれ、一方の端に三人の審査員が座っていた。職員が、私の席と隣の空いた椅子を示した。

「猫はこちらで」

 うなずいて、隣の椅子に猫をのせる。猫は一度座り直し、私のほうへ身体を寄せた。

 机の上に、三浦の氏名が印刷された資料があった。

 最初の裁判以来、私はこの名前を大抵、一人で読んでいた。通知でも、記録でも。何年も目にしていない時期さえあった。その名前に、今日また身体がつくのだと思った。

 男は職員に付き添われて入ってきた。

 背が縮んだように見えた。背中を丸めていたのだ。頬が以前より厚く、髪の生え際は少し後ろへ下がっていた。


 猫が、その足元を歩いていた。

 同じ白い口元。同じ灰色の縞。床を離れた尻尾の先。


 男は私を見ると、立ち止まって頭を下げた。私は資料へ目を落とした。頭を上げたかどうかを、見ていてやるつもりはなかった。

 向かいの椅子が引かれる音がした。

 審査員の一人が、今日の進め方を説明した。私は資料の端を指で押さえていた。途中で、原田さん、と呼ばれた。顔を上げると、ここまでで質問はあるかと聞かれた。

「ありません」

 自分の声は、思っていたより普通だった。

 三浦は立たずに話し始めた。

「私は十年前、原田直人さんを殺しました」

 弟の名前が、よく通った。

「直人さんの命を奪い、ご家族に、取り返しのつかない苦しみを与えました。毎日、そのことを考えています」

 膝に置いた紙を読んでいるらしかった。読み終わったところで、何かを確かめるように隣の椅子を見た。

 猫は男の隣に座っていた。

「自分のしたことを、なかなか認められませんでした。施設に来た最初のころは、どうしてあんなことをしたのか、自分でもわからないと言っていました。でも、それは……」

 紙が鳴った。

「それは、わからないと言っていれば、自分のしたことを」

 声が途切れた。

 猫は待っていた。顔を上げて、男を見ていた。

 私の隣の猫も、同じほうを向いていた。

 三浦は口元を手でこすり、その手を膝の横へ下ろした。指が猫の額に触れた。二本の指が耳のあいだを通り、首の後ろまで動いた。

 猫は目を細めた。男が、その背を撫でた。


 私は椅子の上で身体を引いた。肘が机の角に当たった。乾いた音がして、審査員の一人が私を見た。

 男の手は猫の背に残っていた。

 男は言葉に詰まって、手を伸ばしている。続きを話せるようになるまで、待ってもらっている。うまく話せなくても、帰るときには一緒に歩いてもらえる。

 冷たい感情が胸から胃に落ちた。


 気分が悪くなって、隣の猫を見た。

 猫はこちらを向いた。その目を見て、余計に困った。わかってくれる目だった。

「外に出る」

 小さく言うと、猫は椅子を降りた。

 職員に案内された控え室には、ソファと水の入ったペットボトルがあった。扉が閉まると、私は鞄を抱えたまま座った。

 猫は床にいた。私の足のすぐそばだった。

「あなた、撫でられてた」

「うん」

「あの手で」

 猫は答えなかった。

「嫌じゃないの」

「嫌じゃない」

 私は猫を見下ろした。何を言われたら、少しは楽になったのだろう。仕事だから、と言われればよかったのか。嫌でも我慢しているのだ、と。

 そんなことを言われたら、今度は自分がこれまで猫を撫でてきた日々を疑ったと思う。

「私といるときも、ああやって待つよね」

「うん」

「言わなくていいよって、いつも言うじゃない」

 猫の耳が少し動いた。

「あの人にも言うの」

「今は話せないことなら、あとにしようって言うことはある」

「今は話せないって……あの男には、十年もあったのよ」

 猫から顔を背けた。

 水を飲もうとして、蓋を取り損ねた。床に落ちた蓋は転がってソファの下へ入り、私はしばらくそれを見ていた。猫が前脚を差し入れ、引き出した。

 受け取るとき、指先が猫の脚に触れた。いつもの、短い毛の感触だった。


 十五分ほどして、部屋へ戻った。

 三浦は私を見たが、今度は頭を下げなかった。私は席に着き、猫も隣へ戻った。

 審査員が、退席中に説明された内容を短く伝えてくれた。そのあと三浦に、事件の直前の自分についてどう考えているかと尋ねた。

「追い詰められていました」

 三浦は言った。

「仕事もなくして、友達にも信用されなくなって。直人なら、わかってくれると思っていました」

 今度は「さん」がなかった。

「でも、あいつまで、俺に……」

 そこで口を閉じた。紙を両手で握り直す。

「いえ。直人さんは、悪くありません。自分が悪いんです」

 審査員は、先ほど言いかけたことを続けられるか、と聞いた。

 男は首を振った。

「今は、そうは思っていません」

 向こうの猫が男を見ながら言った。

「ううん。今も、少し思ってるよ」

 三浦の指が止まった。

「でも、それだけじゃない。だから続きを、自分で話せる?」


 私は机の下で両手を握った。

 男は長いあいだ、紙を見ていた。やがて、小さな声で言った。

「怒られたときの直人の顔を、まだ腹立たしく思うことがあります。でも、そんな気持ちになる自分が、嫌にもなるんです」

 猫は黙って聞いていた。

 男が何を言っても、あの顔は変わらないのだと思った。


 帰り道、私は猫を抱いていた。

 会場から駅までは歩かせていた。駅の手前で人が増え、気づいたら抱き上げていた。電車の中でも、降りてからも、そのままだった。

 家の鍵を出すために床へ下ろすと、腕の内側がすっと冷えた。

「ただいま」

 口にしてから、誰に言ったのかと思った。

 猫は私のあとから部屋に入った。


   *


 冷凍してあったご飯を温め、半分残した。

 猫は食卓の下にいた。いつものように椅子へ来ていいと言うと、上がってきた。

 テレビをつけた。知らない人が、知らない街で、大きなパンを食べていた。猫が何か言いかけたようだったので振り向くと、何も言っていないと言った。

 テレビを消して、風呂に入った。

 上がってから、事件の記録を出した。


 記録なら携帯の画面でも読めたが、わざわざ古い封筒から出して机に並べた。手触りのあることをしたかった。

 裁判のときに何度も持ち歩いたせいで、紙の角が丸く曲がっていた。当時、私は二十三歳で、人に会うたび、しっかりしていると言われた。しっかりしていないと、次に行く部屋さえ間違えそうだった。


 三浦と弟は、学生のころからの知り合いだった。弟の携帯には、何人かで海に行った写真が残っている。三浦は端に写っていた。濡れた髪を額に貼りつけ、まぶしそうな顔をしていた。

 私は彼に二度ほど会ったことがあった。弟の部屋へ届け物をしたときと、駅前で偶然会ったとき。二回とも、どうも、と言われ、私も、あ、こんにちはと返す、そのくらいだった。


 三浦に仕事を紹介したのは弟だった。

 店の内装や展示台をつくる小さな会社で、弟の先輩が働いていた。三浦は面接で、以前の勤め先で工事の段取りを任されていたと言った。実際には納品を手伝っただけだった。

 弟も、三浦には経験があるものと信じていた。

 勤め始めてしばらくするうち、注文の寸法違いや手配の抜けが続いた。三浦は客に確認したと言い、業者には会社の了承を取ったと言った。小さな嘘が、互いに支え合うように増えた。

 最後に、一件の店の開業が遅れた。寸法を測り直せばすぐにわかった失敗を、別の人間の連絡待ちだと言い張っていた。

 会社から事情を聞かれ、三浦は弟に連絡した。

 残っていたやり取りには、弟の返事があった。

『一緒に行くから、ちゃんと説明しよう』

 だが三浦は、自分の経験について、弟が先輩に大げさに伝えたことにしてほしいと頼んだ。今回の注文も、弟を通じて聞いた寸法だということにしてほしい、と。弟はその客を知らなかった。

『紹介のときに話が混じったってことにすればいい』

『お前は社員じゃないから、困らないだろ』

 私はそこを二度読んだ。

 弟はすぐに返していた。

『ふざけんな』

『俺にまで嘘つかせるなよ』

 弟は、本当に怒ると言葉が短くなった。子どものころからそうだった。普段は、言わなくてもいいことをいつまでも言っているのに。

 私は記録を置いた。


 事件の少し前、弟と駅前でラーメンを食べた。

 弟は私の顔を見るなり、髪切った、と言った。

「先月ね」

「そっか。でも俺、切る前から気づいてた」

「切る前から?」

「そろそろ切るだろうなって」

 弟のほうが先に食べ始めたくせに、私の丼のほうが先に空いた。猫舌で、いつまでも麺を持ち上げては下ろしていた。

「もう食べられるでしょ」

「芯が熱いんだよ。噛んだらものすごく熱い」

「熱い喉ごしを楽しむのよ」

「ラーメンだろ。酒の飲み方みたいに言って」

 私は水を飲みながら待った。

 そのとき弟が、仕事を紹介した友達が面倒なことになっている、と言った。私は三浦のことだとすぐには思わなかった。

「何したの、その人」

「できないのに、できるって言った」

「あんたも時々あるじゃん」

「俺のは、やればできることだから」

「どうだか」

 弟は笑った。

「あいつ、人がやらかしたときは、うまいこと言って笑わせてくれるんだけどな」

 それから、先輩に申し訳ないんだよな、と言った。俺が紹介した人だから、と。

「一緒に謝ってあげたら?」

「それは言った」

 その返事を覚えている。割り箸の先で、スープに浮いた葱を集めながら言った。

 弟が殺されてから、私は記憶のなかで何度もその食卓へ戻った。面倒なことに関わるなと言えばよかった。連絡を取るな、と。なぜその名前を確かめなかったのか。

 けれど、あのとき私が聞いていたのは、ただ友達の嘘で困っている、弟の愚痴だったのだ。

 弟は最後に、今日は払うよ、と言った。レジの前で財布を探すのにもたついていたので、結局、私が払った。

「今度でいいよ」

「奢るつもりだったんだけどな」

「つもりはわかった」

「次は酒でもいいな」

 弟は店を出てからも笑っていた。


 会社の人から確認を求められた弟は、自分が知っている事実をそのまま答えた。

 結果、三浦は仕事を失った。友人たちにも話が伝わった。誰がどこまで話したのかはあとから調べられたが、そのころの三浦はすべてを弟のせいにした。

 話がしたいと言って、三浦は弟の部屋へ来た。

 口論になった。

 弟が帰れと言ったあと、三浦は台所へ行き、包丁を持って戻った。止めようとした弟を刺した。

 殺すつもりで、そうしたのだ。


 そこから先の紙は、めくらなかった。

 机の上には、何度も読んだ記録が並んでいた。何度読んでも、途中で別のことは起きない。

「あのとき、やめられたんだよね」

 猫に言った。

「やめられた」

「包丁を持って、戻るところでも」

「うん」

「私が何か言っておけば、とか、そういう前の話じゃなくて。あの男が」

「うん。あの人が、やめられたよ」

 猫の声は低くも、厳かにもならなかった。

 私は紙を重ねた。順番が少し違っていたが、そのまま封筒に入れた。


 施設での生活については、新しい資料に書かれていた。

 三浦は作業に出て、決まった曜日に運動をし、ほかの人と食事をしていた。ここ半年は、修理する家具の数を数え、作業の進み具合を記録する係になっていた。

 先月、記録の誤りを指摘され、説明した職員のせいにしたことがあると書いてあった。翌日、自分から訂正したことも書いてあった。

「また、人のせいにしてる」

「そうだね」

「昔から、こうだったの」

「小さいころから、間違えたと知られるのを、ひどく怖がってたよ」

「叱られるのが嫌なんて、誰でもそうでしょう」

「うん。あの人には、隠して叱られずに済んだことも、認めたあとでもっと叱られたこともあった」


 私は資料に目を戻した。

「だからって……次の日に言い直せば、それでいいの?」

 猫は私を見た。

「いいよね、あいつには次の日があって。言い直せる、次の日があって!」

 私の口から出た言葉なのに、その言葉はひび割れて、私自身に刺さった気がした。でも私はそれを訂正する気になれなかった。

 猫も、訂正させなかった。


 その夜、なかなか眠れなかった。猫は寝室の戸口にいた。

「来て」

 呼ぶと、ベッドへ上がってきた。猫を胸の前へ引き寄せ、柔らかい腹のあたりに手を入れる。

 弟も、眠れない夜にこうして何かを抱いただろうか。子どものときに持っていたぬいぐるみは知っている。その先のことは知らなかった。

 猫に聞けば、わかった。

 私は聞かなかった。

 弟の顔を思い浮かべたかったのに、浮かんでくるのは、猫を撫でていた三浦の手ばかりだった。

 猫の毛に顔を埋めた。温かい身体の向こうへ、何も考えずに行ければよかった。


   *


 それから何日かは、普通に過ごした。

 仕事に行き、買い物をして、帰ると猫がいた。出かける前に何か食べていきなよと言われ、時間がないと答えた朝もあった。

「靴下を探してるあいだに、食べられるよ」

「その靴下は、どこにあるの」

「右は椅子の下」

「左は?」

「履いてる」

 自分の足を見て、思わず笑った。

 そういう朝もあった。


 日曜日の夜、意見書をまた開いた。

 初めの一行に、審査で聞いたことへの反論を足していた。三浦が「毎日考えている」と言ったことも、「今はそう思っていない」と言ったことも書いた。それぞれの下に、私の言いたいことが長く続いていた。

 読み返すと、同じ言葉が何度も出てくる。

「反省してるって、あなたにはわかるんだよね」

「うん。反省は、してるよ」

「あいつ、自分に都合のいいことも考えてるのに」

「それも考えてるよ」

「両方、本当なんだ」

「うん。両方とも」

 猫は膝にいた。私は画面を消して、携帯を机に伏せた。


「どこまで悪ければ、だめってことになるの」

 猫が顔を上げた。

「もう、この人はだめだって。あなたにも、そういうことはあるの?」

「その人には任せられないことは言うし、やめさせることもあるよ」

「そういう話じゃなくて」

 猫の背中を手のひらで押さえた。

「この人のことは、もういいって、見限ること。もう助けなくていいって、思うこと」

「ないよ」

 短い答えだった。

「私が何もできなくなっても?」

「うん」

「あなたに、ひどいことを言ったとしても」

「それでも、そばにいたいよ」

 以前にも、同じようなことを聞いたことがあった。そのとき私は、安心して眠った。

「あいつにも、そうなんだね」

「うん」


 猫を抱き直した。後ろ脚が腕にのり、前脚が私の胸に当たる。小さな足先を見ていると、審査室で猫に触れていた男の指を思い出した。

「今も、あの人のところにいるの」

「いるよ」

「明日も?」

「いる」

 猫の腹は柔らかかった。抱くと、身体の奥の温かさが手に伝わってきた。

「直人はさ」

 言いかけて、言葉が詰まった。

 猫が待っている。その待ち方にさえ、腹が立った。

「もう、何にもできないのよ」

 私は猫を見た。

「変なクッキーも見られないし、おいしいものも食べられない。お腹も減らない。明日どうしようかなって、考えることもない」

 白い口元が、すぐ近くにあった。

「あの人には、あるんだよね」

「うん」

「嫌なことがあったら、あなたに聞いてもらう。自分でやったくせに、つらいって言えば、聞いてもらえる」

「聞くよ」

「どうして!」

 思わず猫を揺らしかけて、腕を止めた。

「直人が、最後にどんなだったか、あなたは知ってるでしょう。私が読めなかったところも、全部」

「知ってる」

「怖かったんだよね」

 猫は私を見たまま、うなずいた。

「死にたくなかったんだよね」

「生きたかった」

 猫を膝に戻す。

 直人は二十二歳だった。私は今、三十三歳になっていた。弟の知らない年齢を、一つずつ重ねていた。


「あいつの手を、どうして払わないの」

「払いたいと思わないから」

「嫌いにならないの?」

「ならない」

「もう赦してるの」

「うん」

 私はしばらく、その顔を見ていた。

「ちゃんと反省したから?」

「それで赦したんじゃない」

「じゃあ、これからも反省しなかったら。結局、死ぬまで直人のせいにしてたら」

「それでも、あの人を好きでいる」

 私は猫から手を離した。

「そんなの……おかしいよ」

 言ってから、もう一度言った。

「そんなの、おかしい!」

 猫は動かなかった。

「頑張ったって、何したって、弟は戻らないのに。あいつは頑張らなくても、あなたがいるんだ」

 喉の奥が痛かった。涙が出そうだったが、泣くより先に言いたかった。

「あの人が朝起きて、ご飯食べて、今日は天気がいいなって思うの。そういうのが、あなたはうれしいんだね」

「うれしいよ」

 その声を聞いたとたん、私は立ち上がった。

 猫を抱いたまま向きを変え、椅子へ下ろす。落とさないように置く場所を確かめている自分まで嫌だった。

「私、そんなこと、うれしくない」

「うん」

「一度だって、うれしくならないと思う」

「うん」

「どうして、うんって言うのよ!」

 猫は口を閉じた。

 窓の外には、向かいの家の明かりが見えた。カーテンを閉め忘れていた。人影が動いたので、私は脇へ寄った。こんなときでも、外からどう見えるかが気になった。


「あなたの、赦すって、何なの」

 窓のほうを向いたまま言った。

「直人は赦してないよ。死ぬ前に、そんなこと考えられたわけない。私も赦してない。私たちがこうしてるのに、どうして、もう済んだことにできるの」

「済んでいないよ」

 私は振り返った。

「あの人のしたことは、なくならない。直人が失ったものも、君が今つらいことも、終わったことにはできない」

「だったら」

「それでも、あの人のそばにいたい」

 部屋が静かになった。

 カーテンを引く。途中で輪が引っかかり、強く引くと、少しだけ動いた。


「私には、あなたの話がわからない」

「うん」

「何もかも知ってるから、あの人を赦せるの?」

「うん。あの人が、どうして今のあの人になったかも、知ってる」

「それで、赦そうって決めたの?」

「決めたことはないよ。嫌いにならないんだ」

「……私も、知らなくちゃいけない?」

「知ったからって、赦さなくちゃいけないわけじゃない」

 私はカーテンから手を離した。

「じゃあ、私はこのままなの」

 猫は私を見ていた。

「君が苦しいままで、いいとは思ってない」

「私の気持ちを変えてほしくて、言ってるんじゃない」

 声が大きくなった。

「あなたに、変わってほしいの」

 猫のところへ戻り、椅子の前にしゃがんだ。

「あの人のところに行くの、やめて」

 初めて、はっきり言えた。

「あの人を、見限ってよ。呼ばれても返事をしないで。あの人だけでいいから」

 猫は私を見下ろしていた。

「ほかの人には、好きなだけ優しくしていい。私が知らない人にも。あの人だけ、やめて」

「それは、できない」

「できるでしょう」

 私は言った。

「行かないことはできるでしょう。身体を動かさなければいい。話しかけられても、黙ってればいいだけじゃない」

 猫は少し間を置いた。

「そうだね。できないんじゃない。そうしたくない」

 椅子の座面をつかんでいた指から、力が抜けた。


「私が、こんなに嫌だって言ってても?」

「うん」

 私は立ち上がった。

 猫は椅子を降りなかった。

 台所へ行き、コップに水を入れる。口をつけたが飲めず、そのまま流しへ置いた。

 背後で、猫の声がした。

「ここでの暮らし方は、変えられるよ。しばらく距離を置くことも——」

「何か方法があるって話を、今はしないで」

 猫は黙った。

 私は流しの前に立っていた。望んでいることは、もう言った。そのとおりにはならなかった。

「少し、出ていってほしい」

 猫が床に降りた。

「連絡もしないで。こっちからするまで」

「わかった」

 玄関へ行くと、猫は後ろからついてきた。

 扉を開ける。廊下の空気が冷たかった。猫は敷居の手前で止まり、私を見上げた。

 何か言えば、ここに残るだろうと思った。

 私は何も言わなかった。

 猫は廊下に出た。扉を閉める前に、私はその身体が最後まで出たことを確かめた。


   *


 猫がいなくなっても、朝は来た。

 目覚ましを止め、起きて顔を洗った。朝食を食べてから靴下を履いた。弁当も忘れなかった。

 椅子を引けば、そのまま座れた。

 仕事中は、することがあった。舞台に貼った目印のテープを剥がし、残った糊を拭く。催しの相談に来た人と、椅子を何脚並べるか話す。必要な人に必要な返事をしているあいだは、ちゃんと一日が進んだ。

 帰り道、商店街の小さな衣料品店が閉店セールをしていた。去年も同じ旗を見た気がした。いつ閉店するつもりなのかな、と猫に話しかけそうになった。

 猫に聞けば、本当の閉店の予定はわかる。でも私が話したかったのは、そんなことではなかった。


 三日目、奈津と夕飯を食べた。

 猫に出ていってもらった、と話すと、奈津は箸を置いた。

「喧嘩したの」

「そうなのかな」

「どういうこと?」

 審査の席で見たことを話した。全部ではなかった。あの男に背中を撫でられていたことと、帰ってから私も抱いていたことを話した。

「猫は変わってないんだよ」

 そう言ったら、急に涙が出た。

 奈津が、机の端の紙ナプキンを取ってくれた。一枚では足りず、もう一枚取った。

「私、どうしたらいいと思う」

 奈津は口を開きかけ、閉じた。

「今、猫に相談したらって言いそうになった」

 私は涙を拭いている途中で笑った。

「相手が猫だって、言ってるでしょう」

「うん。ごめん」

「ほんとに、もう」

 奈津も困ったように笑った。


 料理が来たので、私たちは少しのあいだ、皿を寄せたり取り分けたりしていた。

 揚げ物から湯気が上がっている。

「弟、熱いものになると、食べるのすごく遅かったんだ」

 私は言った。

「知ってる。前に一緒に食べたとき、一人だけいつまでも食べてた」

「そうだっけ」

「あんたが、口に穴でも開けて冷ませって言ったんだよ」

「なにそれ、ひどい言い草ね」

「言ったの、あんたでしょう」

 私は笑った。そんなことを言ったのを忘れていた。

「あいつ、何て返した?」

「もう開いてるって」

 奈津も笑った。

「それで、口を開けて見せたの。あんたが、やめなさいって怒って」

「食べてる途中に?」

「途中に」

「最悪ね、あいつ」

 言ってから、笑えなくなった。


 箸を置き、揚げ物を見た。もう湯気は薄くなっていた。

 奈津が水を飲んだ。私も飲んだ。それから、また食べた。

 駅で別れる前に、奈津が言った。

「うちに来たくなったら、来てね」

「猫、いるでしょう」

「いる。出ててもらうことはできるよ」

 私は奈津を見た。

「追い出さなくていいよ。奈津の家なんだから」

「次に来るときに考えよう」

 奈津はそう言って、手を振った。


 猫から連絡は来なかった。

 夜、携帯を手に取ると、何度か猫を呼び出しかけた。前にやり取りした画面が残っていた。私が夕飯の相談をして、猫が、買うものを決める前に冷蔵庫を開けて、と答えている。

 その下に何も書かず、画面を閉じた。

 別の身体に会っても、同じ猫だった。奈津の家へ行っても、街で呼び止めても、あの夜の続きを知らない相手にはならない。

 どこへ行っても、逃げ場がないのだった。どこへ行っても、あの相手に会えるのだった。


 意見書を書き直した。

 三浦の言葉を一つずつ並べた部分から手をつける。反省していない、と書いたところで手が止まった。

 本当に後悔している時間もある。猫はそう言っていたし、私も、あの席で聞いたことの全部が嘘だとは思えなかった。

 だからどうした、と思う。

 弟は帰ってこない。

 反省していない、と書いた一文を消した。十分に反省したなら出てもいい、と言いたいわけではなかった。

 弟の名前を書いた。

 そのあとに何を書けばいいのか考える。親切だった。明るかった。正直だった。書こうとしては、どれも違う気がした。どれも、そういうときはあった。

 弟は私の家へ来ると、勝手に冷蔵庫を開けた。何もないと言いながら、何か見つけて食べた。帰る直前に大事な話を始めるので、玄関で三十分も立ち話をしたことがあった。


 私は、弟とまだ話したい。

 それを書いた。


 何度か読み返してから、謝罪を受けるための面会を望まない、と加えた。手紙や伝言も受け取りたくない。気持ちが変われば私から知らせるので、確かめるための連絡もしないでほしい。

 最後の一文は、書いてからしばらく見つめていた。

 男からだけでなく、猫からも聞かれたくなかった。もう会えるか、話を聞けるかと、あの声で尋ねられたくなかった。

 私は句点の位置だけ直した。

 提出したのは夜の十一時過ぎだった。

 受付の通知が来た。次の審査の日付が、その下に添えられていた。

 立ち上がって伸びをする。猫のいない椅子が、机の向こうにあった。机の下へ押し込んでから、少し引き出した。


   *


 最後の審査には、一人で行った。

 玄関で靴を履くとき、一度だけ振り返った。忘れ物はなかった。

 電車では座れた。膝にのせた鞄の上に、両手を重ねて置いた。駅からの道は、もう覚えていた。

 会場の職員は、私の隣の椅子を指して、こちらはどうしますかと聞いた。

「そのままでいいです」

 椅子を片づける音を聞きたくなかった。

 三浦が入ってきたとき、私は資料を見ていた。猫が歩く音はしなかった。顔を上げると、向こうの椅子には、もう猫が座っていた。

 同じ猫だった。

 家から出ていった身体がどこにいるのか、私は知らなかった。目の前の猫に、ここへおいでと言えば、あの猫が来る。

 私は資料を一枚めくった。

 三浦は、施設を出たあとの生活について話した。

 最初は支援のある住居で暮らす。日中は家具の修理をする仕事に通う。人間関係で困ったときには、一人で決めずに相談する。机に置かれた計画書には、仕事先も、連絡する相手も書かれていた。


 審査員が、先月の記録の誤りについて尋ねた。

 三浦は息を吸った。

「自分が確認すべきでした」

「指摘されたときには、どう考えましたか」

「ちゃんと説明してくれていれば、と思いました」

「誰がですか」

「担当の職員の方です」

 三浦は猫を見た。猫は座っていた。

「でも、聞けばよかったんです。わからないことは」

 言い終わると、口元を手でこすった。

 報告を求められた猫が、そのときのことを話した。三浦は記録を直すよう求められると、説明が足りなかったことを先に認めてほしいと職員に要求した。翌日になって自分から訂正し、謝罪した。

「訂正するとき、最初は猫に代わりに話してもらおうとしていた、とありますが」

 審査員が言った。猫が答えた。

「頼まれたよ。でも、代わりには話さなかった。彼が自分で話した」

「自分の誤りだと認めて、訂正したのですね」

「うん。自分が間違ったと、わかっていたよ。ただ、注意された悔しさは今も残ってる」

 三浦は何か言いかけて、やめた。


 今後の希望を尋ねられたとき、男は初めて私のほうを向いた。

「いつか、直接お詫びをさせていただきたいです」

 私は顔を上げた。

「意見書は読みました。今は望んでおられないのは、わかっています。だから、今すぐとは言いません。ただ、仕事をして、ちゃんと生活して、いつか、変わったところを」

 そこで言葉が途切れた。

 膝の上で、鞄の持ち手をつかむ。

 審査員が、原田さんは接触を望んでいない、それは今後の計画を立てるうえでも尊重すべきことだ、と言った。

 三浦はうなずいた。

「それは、わかっています。今は」

「今だけとは、書いていません」

 自分でも驚くほど、すっと声が出た。

 三浦が私を見た。

「待っていてくださいとも、書いていません」


 男は口を開いたまま、黙った。私は手元へ目を落とした。

「でも、何年か経って」

 三浦は猫のほうへ向いた。

「様子を聞くくらいは、できるだろう」

「しないよ」

 猫が答えた。

 私は顔を上げた。

「気持ちが変わったかどうかを、こちらから確かめることもしない。それも、望まれていないから」

「じゃあ、いつならいいんだ」

「会える日が来るとは、約束できない」

 三浦は猫を見つめた。

「何かできることを考えようって、お前が言ったんじゃないか」

「言ったよ」

「だったら」

「でも、会わないと言った人に、頼み続ける手伝いはしない」

 男が口を閉じた。

 猫はその顔を見ていた。怒っても、突き放してもいなかった。返事を変えるつもりもなかった。


 長い沈黙のあと、三浦は椅子の背から身体を離した。

「直人に謝りたいんです」

 私を見ずに言った。

「あいつに、謝れれば。最初に仕事の話を持ってきてくれたとき、俺、本当にうれしかったんです。何社も断られてたから。あいつ、先輩に電話したまま、俺のところに来て」

 三浦は机を見た。

「出ろって、電話を渡してきて。俺がどもってるのを、横で笑ってて」

 その笑い方が、わかる気がした。

 わかりたくなかった。

「なのに、俺、自分で全部だめにして、それなのに、あいつが悪いと思って」

 三浦の声が小さくなった。

「もう、あいつには、謝れない。俺が……」

 私は鞄の持ち手を握ったまま、聞いていた。

 わかっているなら、こちらを向かないでほしい。弟に言えないことを、私に渡そうとしないでほしい。

 猫は私を見なかった。

 男が黙っているあいだ、男の隣にいた。


 私が話す番になった。

 意見書は読まれていると言われたが、その一部を読みたいと申し出た。

 紙を持ち上げると、手が震えた。机に置いたまま読むことにした。

「弟は、二十二歳でした」

 声が細くなる。私は咳払いをした。

「十年前、私は二十三歳でした。今年、三十三歳になりました。弟と一つしか違わなかったのに、もう、弟がずいぶん年下のように思えます」

 次の行を目で追う。

「この前、三浦さんの顔を見て、十年経ったと思いました。裁判のときと、顔が変わっていたので」

 男は顔を上げなかった。

「直人にも、その十年がほしかったです」

 私は紙の端を押さえた。

「何をしていたかは、わかりません。いい加減なところもあったので、私が腹を立てていたかもしれません。連絡くらいよこしなさいって、怒っていたかもしれません。それでも、連絡できる相手でいてほしかったです」

 口を閉じる。次の言葉を出すまでに、少し時間がかかった。

「今も、弟に話したいことができます。十年経っても、毎日のようにできます」

 私は残りを読んだ。社会復帰に反対すること。直接の謝罪も、伝言も受け取りたくないこと。

 読み終わってから、猫を見た。

 猫は私を見ていた。


「私が赦すかどうかを、この人の課題にしないでください」

 それは、紙には書いていなかった。

「それで、いつか、私の番が来るみたいにしないでください」

 審査員がうなずいた。

 接触を拒む意思は記録され、今後も守られると言った。社会復帰の判断を、私の赦しが得られるかどうかに委ねることもない、と。

 私は椅子の背にもたれた。腿に、鞄の底が当たっていた。


 休憩のあと、今回の社会復帰は認めないと告げられた。

 理由が説明された。失敗を指摘されたときや、希望を拒まれたとき、相手に責任を引き受けさせようとする行動が続いていること。今の計画では、そうなったときの対処を、周囲の人や猫に預けていること。施設内での取り組みを続け、あらためて審査することになった。

 三浦は動かなかった。

 私は息を吐いた。

 これでよかった。出てこない。少なくとも、今回は。

 その安堵を否定したくなかった。


 退室するために立つと、三浦が猫へ手を伸ばすところだった。

 途中で手が止まった。さっき猫に断られたことを、思い出したように見えた。

 猫は男の手に頬を寄せた。

 男は顔を伏せた。

 猫の耳が、指の下で少し折れた。

 私も、そうやって何度も耳に触れたことがある。出られなかった日にも、これがあるのだ。

 隣の空いた椅子を見てから、私は職員に会釈をして部屋を出た。


   *


 帰宅して、鞄を床に置いた。

 机の向こうには、猫の椅子があった。

 座ってみると、机が少し遠かった。ここから猫は、私の腕や携帯や、顔を見ていたのだと思った。


 携帯を取り出し、猫とのやり取りを開く。

 審査室で、男が伸ばしかけた手を止めた。その手に、猫のほうから頬を寄せた。

 やっぱり嫌だった。

 私は、あのときのあなたが嫌だった、と打った。

 しばらく見つめてから、消した。会って言いたかった。

『家に来てほしい』

 今度は送った。

『行くよ』

 すぐに返事が来た。


   *


 呼鈴が鳴るまで、私は椅子に座っていた。

 玄関へ行き、扉を開ける。灰色の縞と、白い口元が見えた。

「おかえり」

「ただいま」

 猫は敷居を越えた。


 部屋へ戻って自分の椅子に座ると、猫は足元で止まった。

「今日、最後にあの人、あなたに手を伸ばしたでしょ」

「うん」

「あのときのあなた、嫌だった」

 猫が私を見た。

「あの人、少しほっとしたみたいに見えたの。出られなくなって、がっかりしてたくせに、あなたに触れたら、少し楽になったみたいだった」

 膝の上の手を握る。

「私も、同じことをしてたから、わかった」

 猫は何も言わなかった。

 足元を見る。耳の先も、背中の縞も、よく知っていた。


「あの人を、赦せない」

 声が詰まった。

「あなたがあの人を好きなのも、嫌。帰ってきてもらったからって、それでいいって思ったわけじゃないから」

「うん」

「また、出てってって言うかもしれない」

「うん。そのときは言って」


 私はまだ腹を立てていた。

 あの男が明日の朝を迎えることを、喜べなかった。

 それを、この猫に話したかった。

「そばにいてほしい」

 私は言った。

「いるよ」


 片脚を引き上げて、場所を空けた。

 猫が前脚を膝にかけたので、両脇に手を入れて抱き上げる。胸に一度抱いてから、脚のあいだへ下ろした。

 思っていたとおりの重さだった。

 猫は身体の向きを変え、収まった。私はその背中に手を置いた。

 手は、なかなか動かなかった。

 猫も動かなかった。


 しばらくして、私は指を開いた。

 毛の流れにそって、一度だけ撫でた。

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