一六八 エラスの後悔
カーン、カーン、カーン・・・
教会の鐘の音が鳴り響く。
エラスはマーヤと共に教会近くにある二階建ての建物の屋根にいて、広場の様子を見つめていた。
生贄の柩は教会の鐘の音に合わせるように、ゆっくりと広場中央へ向かって運ばれていく。
エラスとマーヤは傾斜のゆるい三角屋根に腹ばいになっていて、マーヤはエラスの横で広場の様子を食い入るように見つめているのだった。
マーヤのその思い詰めた表情にエラスの胸は痛んだ。
「マーヤ・・・」
エラスは声をかけるがマーヤは返事をしない。
カーン、カーン、カーン・・・
生贄の柩が広場中央にある台の上に置かれた。
マーヤは今にも泣きそうな顔でそれを見つめている。
エラスは明るくて笑顔の似合うマーヤが大好きだった。
だから、マーヤの泣きそうな顔を見るのがとても辛かった。
「マーヤ、シールはラビッツに任せれば大丈夫だよ」
エラスは広場をじっと見つめるマーヤに改めて声をかけた。
「だって、タヌとラウルだよ。あの二人ならきっとやってくれる。心配ないよ。そうだろ」
エラスは必死にマーヤを元気づけようとし、その想いが通じたのか、マーヤはエラスに振り向くと、
「うん」
焦りと不安の入り混じった笑みを浮かべながらも健気に頷くのだった。
そのマーヤの表情に、エラスの胸は締め付けられる。
教会の鐘の音が鳴り止み、広場に静けさが訪れると、生贄の柩を囲んで爬神族を称える舞が披露された。
トン・トン・トトン・トン・トン・・・
ピィ〜・ピピ・ピィ〜・ピ・ヒョロヒョロロ〜・・・
音楽に合わせ生贄の柩の周りを舞う踊り子の姿は晴天の青空の下優雅で美しい。
そのとき、
ギィアウォオー!
どこか遠くから、得体の知れない生き物の咆哮らしき鳴き声が聞こえてきた。
エラスは咄嗟に空を見上げる。
ギィアウォオー!
エラスが鳴き声のする方角に目を向けると、そこに、翼を大きく羽ばたかせてこちらに向かって飛んでくる黒錆色の巨大な生き物の姿があった。
「ドラゴンだ!」
エラスは思わず叫んでいた。
三つ目の巨大なドラゴンは広場上空を旋回した。
「おお・・」
護衛隊の隊士たちに動揺が走り、広場は騒然となる。
エラスが唖然とした表情でドラゴンを見ていると、
「エラス、ここ頼んだわよ」
マーヤは突然エラスにそう告げ、
「えっ」
と驚くエラスの返事も待たずに、屋根から飛び降り広場中央に向かって駆け出していた。
「マーヤ!」
エラスはマーヤの背中に向かって叫ぶが、マーヤには届かない。
「どうしよう・・・」
エラスは狼狽えた。
マーヤを守るって心に誓ったのに、体が恐怖で動かなかった。
ギィアウォオー!
空気を切り裂くようなドラゴンの咆哮に、エラスの体はビクッとなる。
ドラゴンの赤銅色に光る三つの目が不気味で恐ろしかった。
ドラゴンは広場上空を旋回しながら、広場の隊士たちに今にも襲いかかりそうに見えた。
エラスは恐怖で体を震わせ、ただ屋根にへばりついているだけだった。
ドラゴンは鋭い牙を剥き出しにして口を開け、火炎を放射した。
ビシャーッ!
「おお・・・」
広場でどよめきが起こり、エラスは茫然とマーヤの姿を目で追った。
眼の前の出来事が現実か夢なのかさえわからなかった。
広場が混乱する中、マーヤは教会堂入り口から広場中央へと続く通路の上を、生贄の柩に向かって走っていた。
マーヤを助けに行かなきゃ・・・
エラスはそう思うけれど、体の震えは収まらない。
「マーヤ、無茶だ・・・」
エラスは泣きそうな顔で力なくそう呟くだけだった。
広場の中央では爬神軍の列から二人の神兵が歩み出て、生贄の柩の両脇に立って空を見上げた。
ギィアウォオー!
ざわざわ・・・
二人の神兵は生贄の柩に手を伸ばす。
そのとき、生贄の柩を掲げようとするその二人の神兵に、マーヤが斬りかかった。
「うそ・・・」
エラスはその光景に驚いて目を見開いた。
次の瞬間、二人の神兵は地面に仰向けに倒れていた。
マーヤのその恐れを知らぬ行動は、なぜだかエラスには悲しく映った。
爬神軍を相手に一人で立ち向かって勝てるわけがない。
それでもただひたすらシールのことを想って生贄の柩を守ろうとするマーヤのその姿が、エラスには健気で痛々しく見えるのだった。
黒の爬神が踏み出し、マーヤに向かって剣を抜いた。
マーヤ、逃げてくれ・・・
エラスは嫌な予感がした。
黒の爬神はマーヤに太刀を繰り出し、マーヤはしなやかにそれを躱す。
その姿は、いつも明るくて元気なマーヤとはまるで別人だった。
マーヤ、頼む、逃げてくれ・・・
エラスは殺気立つ黒の爬神の姿に、ただ恐怖しか感じなかった。
広場の隊士たちの目もマーヤに注がれている。
「あっ!」
マーヤが足を滑らせ体勢を崩した。
その一瞬を見逃さず、黒の爬神は剣を振り下ろし、それをまともに受けたマーヤは後方に飛ばされ背中から地面に叩きつけられたのだった。
「マーヤ!」
エラスは声を上げ、息が止まる。
それでも、マーヤはふらふらになりながら立ち上がり、黒の爬神に向かって剣を構えた。
マーヤ・・・もういいよ、逃げてくれよ・・・
エラスは辛くて見ていられなかった。
ギィアウォオー!
ブァサ、ブァサ・・・
ドラゴンが生贄の柩に向かって降下してくると、二人の神兵が生贄の柩をドラゴンに向かって掲げ、マーヤは黒の爬神の脇を擦り抜け柩を掲げる神兵に斬りかかった。
「あぶない!」
エラスは思わず声を上げる。
それまでマーヤと黒の爬神との戦いをただ見ていた赤の爬神がマーヤを斬りつけたのだ。
「マーヤ!」
マーヤは赤の爬神に背中を斬られ、地面に叩きつけられた。
エラスの体の震えが止まらない。
マーヤを斬った赤の爬神は動けないマーヤを左手で鷲掴みにすると、胸の高さに持ち上げた。
ギィアウォオー!
ドラゴンは生贄の柩をがっちりと掴み、広場に土煙を巻き起こしながら空高く舞い上がると北西の空に飛び去っていった。
今はもうシールを気にしている場合ではなかった。
あの爬神はマーヤを食べる気だ・・・
「やめてくれぇえええ!」
エラスは広場に向かってそう叫んでいた。
マーヤは赤の爬神の手の中でぐったりとして動かない。
そのとき、西側の舞台の上を広場中央へ向かって走る赤褐色の霊兎の姿が目に入った。
「タヌ!」
エラスにはそれがタヌだとすぐにわかった。
タヌ、頼む。マーヤを助けてくれ・・・
しかし、そのエラスの願いも虚しく、赤の爬神はマーヤの頭部を右手で鷲掴みにし、その体から引き千切ったのだった。
「うわぁあああああ!」
エラスは絶叫し、頭が真っ白になる。
これは現実なのだろうか。
いつも無邪気で、優しくて、元気一杯で、笑顔の素敵なマーヤが、こんな無惨な死に方をするなんて・・・そんなことが許されていいのか・・・
エラスは目を見開き、ただ呆然とするだけだった。
「まぁああやぁあああああ!」
広場からタヌの悲痛な叫び声が聞こえてくる。
エラスははっとした。
呆然とするエラスの耳に、あの時のトマスの声が蘇ってきたのだ。
—マーヤを止めよ・・・
トマスの自分を見つめる虚ろな眼差し。
あの言葉は僕にマーヤを救えって伝えてたんだ・・・
エラスは愕然とした。
マーヤが殺されたのは僕のせいだ・・・僕がマーヤを止めなかったから・・・
エラスの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「僕のせいだ・・・ぼ、僕の・・・うっ・・」
エラスの心に、どうしようもない後悔の念と悲しみが込み上げてくる。
そして、
「うわぁああああああ!」
エラスは声を上げて泣いた。
マーヤは僕が守るって誓ったはずなのに・・・シールの代わりに一緒に戦うって約束したのに・・・
「マーヤ、ごめん、ごめん、ごめん・・・」
エラスは自分の罪の重さを知り号泣した。
マーヤを殺したのは僕だ・・・
エラスはどうしようもない思いに胸が張り裂けそうになる。
「ギィェエエエ!」
広場から爬神の叫び声が聞こえてきて、エラスは力なく顔を上げ広場に目をやった。
広場中央では、いつの間にか東西に伸びる舞台の上に茜色のバンダナを左腕に巻いた霊兎たちがずらっと立ち並び、タヌと黒の爬神との戦いを見守っていた。
エラスはタヌを見守る霊兎たちの凛とした姿に、ただドラゴンに怯えてマーヤを見殺しにした自分にはない、勇気と強い意志のようなものを感じた。
タヌが黒の爬神の頭上高く跳び上がり、その眉間に剣を振り下ろすと、黒の爬神は崩れ落ちうつ伏せに倒れた。
タヌ・・・
タヌは舞台上の霊兎たちの存在に気づくと空に向かって咆哮した。
「うぉおおおおおお!」
タヌの悲痛な叫びは、エラスの心の叫びだった。
タヌ、ごめん。僕がマーヤを止めなかったから・・・
エラスの目からまた涙がこぼれる。
タヌの叫びに応えるように、
「おおおーー!」
舞台上の霊兎たちは剣を天に向かって突き上げ、雄叫びを上げた。
「おおおーー!」
広場の護衛隊もタヌの叫びに応えて一斉に雄叫びを上げ、剣を抜き天に突き上げた。
広場にいる霊兎たちがタヌを中心に一体となる。
その光景にエラスは心を震わせた。
エラスは涙を拭い、そして怒りに満ちた眼差しでマーヤを殺した赤の爬神を睨んだ。
許さない・・絶対に許さない・・・
エラスの体は怒りに震えた。
そこにはもう一欠片の恐怖心もなかった。
「行くぞぉおお!」
タヌが叫びながら爬神軍に向かって突進した。
「わぁあああああ!」
舞台上の霊兎たちも雄叫びを上げ爬神軍に突っ込んでいき、それに続いて護衛隊隊士たちも爬神軍に向かって突撃を開始した。
ガシャッ!ガシャッ!ガシャッ!
剣と剣がぶつかる音が広場中に響き渡り、戦闘が始まった。
エラスは静かに目を閉じ、マーヤに語りかける。
マーヤ、シールは必ず救い出すからね・・・
エラスはゆっくりと目を開け、広場の戦闘の様子を真顔で見つめた。
「マーヤ・・・」
エラスはそう呟くと、屋根から飛び降り広場に向かって駆け出した。