一三五 歴史の真実
兎神官たちは明らかに動揺した。
今まで信じてきたことが崩壊していくような、底知れぬ恐怖を覚えているのだった。
アクは今までの自分の信念が崩壊し、自分という人間の足場が失われていく恐怖を覚えながらも、ラドリアの戦士が守ろうとした〝霊兎族の誇り〟という言葉に胸を打たれていた。
ダレロの目から涙が頬を伝って落ちた。
霊兎族の誇りを守ろうとして戦ったラドリアの戦士たちの無念を思うと、込み上げてくるものがあった。
ダレロの隣で、ミカルも涙を流していた。
ラドリアの戦士の想いに胸が震えた。
ラドリアの戦士たちが守りたかったものを、我々の手で取り戻したい。
そう思った。
コンクリは話を続けた。
「服従の儀式は行われたが、ラドリアの戦士たちの魂は、爬神族に服従することを許さなかった。服従の儀式の後、ラドリアでは数週間にも渡って嵐が続き、雷鳴が鳴りやまなかったそうだ。人々はそれをラドリアの戦士たちの怒りだと信じ、恐れ慄いた。そのラドリアの戦士たちの怒りを鎮めるために作られた部屋が、戦士の間とされている」
コンクリは今まで見たことのない程の悲愴な面持ちで、話を締め括った。
それは、その場にいる者たちにとって、ただただ衝撃的な話だった。
その中でマサクには一つ気になることがあった。
「もし、そのラドリアの戦いが事実だとしたら、その戦いにおいて、我々霊兎族は爬神様に敗れ、服従の儀式まで行ったのですから、その事実を隠す必要はなかったのではないでしょうか」
マサクはどこか納得しきれない様子で、ラドリアの戦いが長く隠されていたことに対する疑問を口した。
コンクリはマサクの疑問は尤もだという風に頷き、厳しい目つきでそれに答えた。
「爬神族が支配するこの世界では、ラドリアの戦士が存在していたという事実を隠さなければならなかったのだ。なぜなら、ラドリアの戦士たちの戦いぶりに、爬神族は驚き、恐怖したからである。ラドリアの戦士たちは最初の戦いにおいて、ドラゴンなしで現れた爬神軍を打ち負かし撃退したのだ。爬神軍はドラゴンの力を使わなければ、ラドリアを占領することはできなかった。それは爬神族にとって認めたくない事実であり、霊兎族が爬神族と互角以上に戦ったことを証明するラドリアの戦いは、なんとしても消し去らなければならない出来事だったのだ。だからこそ爬神族は、霊兎族自らの手によってその事実を葬り去ることを求めたのだ。だからこそ服従の儀式において、ラドリアの住民たちの手によってラドリアの戦士たちは葬られたのであり、我々霊兎族が二度と爬神族に戦いを挑むことがないように、爬神教において、霊兎族はドラゴンの血から創られたとされたのだ。それゆえ、我々霊兎族の存在意義は、ドラゴン、もしくは神民である爬神族に命を捧げることとされ、それを通して天国に帰ることが最上の喜びであると教えられてきたのだ。長い時間をかけて、我々霊兎族は、爬神族に逆らうことは自らの存在を否定することだと刷り込まれたのである。誇りを失った我々霊兎族は、それを喜んで受け入れて来たのだ。こうしてラドリアの戦いは、霊兎族の歴史から消し去られたのだ」
コンクリの語る言葉、その苦しげな眼差しに、マサクは明らかに動揺した。
マサクだけでなくその場にいる高官たちのすべてが、爬神教の嘘を知らされ、狼狽え、動揺し、頭が真っ白になっていた。
「コンクリ様、もしラドリアの戦いが事実だとすれば、我々は嘘を信じ、嘘を教えてきたことになります」
マサクは顔面蒼白の表情でコンクリに救いを求めた。
コンクリは冷静な表情を崩さず、逆にマサクに問いかけた。
「嘘を信じ、嘘を教えたとして、それの何が問題なのだ」
マサクはその問いかけに驚いた。
「えっ・・・」
マサクは目を見開き、何も答えられない。
「真実を明らかにすることが、宗教の役割ではない。人を導き、救うことが、我々に与えられた使命である。そうは思わぬか」
コンクリは厳しくマサクに問いかける。
「しかし・・・」
マサクは困惑を隠せない。
そんなマサクにコンクリは告げる。
「もし、我々が真実を知ったとして何ができる?爬神族が支配するこの世界が終わらない限り、我々は献身者をドラゴンへ捧げ続けなければならないのだ。それに逆らえば、爬神族によって力づくで命を奪われるだけだ。真実を知って、苦しみ、嘆きながら、ドラゴンや爬神族の餌になるよりも、喜びや幸せな気持ちで命を捧げた方が、まだマシなことだとは思わないか。それを慈悲だとは思わないか」
コンクリのその思いもよらない言葉は、マサクの胸に響いていた。
「慈悲・・・」
マサクはそう呟き、ただコンクリを見つめた。
コンクリはマサクを諭すように言う。
「嘘を信じることで幸せになれるなら、それで良いではないか。わざわざ真実を知らせて人々を苦しめることに何の意味があるのだ。爬神教の教えは、慈悲に基づいた教えである」
コンクリのその穏やかな口調に、マサクは自分の気持ちが落ち着いていくのを感じた。
最高兎神官であるコンクリの言葉は重い。
爬神教の教えは、慈悲である。
そう告げられたことで、神官たちの動揺は収まった。
「しかし、なぜ、今、我々にそれを明かしたのでしょうか」
落ち着きを取り戻したマサクはそう尋ねた。
「服従の儀式が行われることがなければ、その部屋の存在を明かすことはなかったし、ラドリアの戦いについても語ることはなかったであろう。お前たちは、霊兎族を導く存在である。だからこそ、服従の儀式の本当の意味を知った上で儀式に臨んでもらいたい、そう思ったのだ。そして・・・」
そこでコンクリは口ごもり、何か思案するかのように黙り込んだ。
「コンクリ様?」
マサクがコンクリの顔を覗き込むと、
「なんでもない」
コンクリはそう言って顔の前で手を払う仕草をみせ、その先を言わなかった。
コンクリは一同を見渡すと、
「服従の儀式はしっかりとした覚悟を持って臨むように」
と指示を出し、皆の気を引き締めたのだった。
コンクリが両脇に立つ従者に目で合図を送り、散会させようとしたそのとき、
「コンクリ様」
と、声が上がった。
「なんだ」
コンクリの視線の先に、ダレロがいた。
ダレロは背筋を伸ばし、
「服従の儀式で捧げられる生贄についてですが」
と、切り出した。
その言葉にアクは驚いたような顔をし、その頬をピクッと引きつらせた。
アクはダレロを一瞥してから、緊張の面持ちで宙を見つめた。
「生贄がどうかしたのか」
コンクリはそう問いかけ眉間に皺を寄せる。
ダレロはそのコンクリの鋭い眼差しに臆せず尋ねた。
「なぜ、シールなのでしょうか」
ダレロの口からシールの名が出されると、アクの心臓の鼓動が激しくなった。
それはまさにアクが知りたかったことだからだ。
コンクリはゆっくりと息を吐き、
「シールが相応しいからだ」
と、当然のことのように答えた。
ダレロはそれでは納得できなかった。
「しかし、シールはまだ若い、これからの娘です。霊力の高さで言えば、神に祈りを捧げ続け、長くコンクリ様に仕えてきた高位にある者の方が、相応しいのではないでしょうか」
ダレロは真剣な眼差しで正直な疑問をぶつけた。
コンクリは口元に微かな笑みを浮かべ、首を横に振る。
「神への祈りによって霊力は高められるかも知れないが、生まれ持った霊力の強さというものがある。シールの持つ霊力は、祈りや修行で身につけられるものではない。ドラゴンへの生贄として、シールほど相応しい娘はいないのだ」
コンクリはそう言いながら、兎神官たちに視線を向ける。
兎神官たちは目を伏せ、コンクリの視線を避けるように話を聞いていた。
シールが生贄に選ばれたことに、どこか後ろめたさがあるのだろう。
「他に道はないということでしょうか」
ダレロは必死の形相でなおも食い下がる。
コンクリはダレロを睨みつけ、
「ない。服従の儀式を成功させるには、必ずや、シールをドラゴンへの生贄として捧げなければならない」
と断言し、ダレロの一縷の望みのようなものを容赦なく断ち切ったのだった。
ダレロは落胆し、ため息をつく。
ダレロの横で、アクも大きく肩を落としていた。
「他に質問はあるか?」
コンクリがそう投げかけると、アクはぎゅっと両手の拳を握り締め、思い切って顔を上げコンクリを見つめた。
それに気づき、
「何だ?」
コンクリはアクに声をかけた。
アクは勇気を振り絞り、
「シールは、眠ったままドラゴンに食されるのでしょうか」
と尋ね、コンクリを真っ直ぐに見つめた。
コンクリはアクのその質問をなかなか面白いと思った。
「いや、そうではない。眠ったままでは霊力が弱まっているため、そのままドラゴンに捧げられることはない。眠っているシールを〝生命の水〟で目覚めさせ、霊力が高まるのを待ってドラゴンに捧げられるのだ」
コンクリは微かな笑みを浮かべ、そう答えた。
生命の水・・・
アクはそれを胸に刻む。
そしてさらに、
「霊力が高まるには、どれだけの時間がかかるのでしょうか」
と尋ねた。
「そんなことを訊いてどうする?」
コンクリが聞き返すと、
「いえ、特に意味は・・・」
アクは目を伏せ、曖昧な返事しか返せなかった。
コンクリはそんなアクを呆れるように見、「ふんっ」と鼻を鳴らし、
「少なくとも一月、長くて三月といったところだ」
そう冷たく答えるのだった。
「ありがとうございます」
アクは感謝の言葉を述べ、深く頭を下げた。
「うむ」
コンクリはアクを見て頷き、改めてその場にいる全員の顔を一つひとつ確認するように見渡すと、
「それでは、服従の儀式の準備を粛々と進めるように」
と命じ、両脇に立つ従者に目で散会の合図を送った。