一〇七 ムニム市場周辺の賑やかさ
「あー、あれだ!」
マーヤはシールの肩越しに手を伸ばし、ムニム市場を指差した。
「もう少しね」
シールはゆったりと手綱を捌きながら、自分の左肩に顎を乗せるようにしているマーヤを横目に見て微笑んだ。
ムニム市場の石造りの高い壁は、遠目からもその迫力が伝わってくるものだった。
市場が近づいて来るにつれ、沿道に店や家屋が密集しはじめていた。
「ドゴレ様がおっしゃっていた通り、市場周辺は賑やかね」
マーヤは市街地とは違う沿道の景色を楽しんでいて、
「活気があっていいわね」
シールはそう応えながら、その光景をしっかりと目に焼き付けていた。
お土産を買うのはあくまで個人的な目的であって、それよりも大事なのが、ムニム市場周辺の視察だった。
「マーヤもちゃんとダレロ様に報告しないといけないんだから、それなりに観察しなさい」
シールがそう言うと、
「はーい」
マーヤはつまらなそうに返事を返す。
二人の後から親衛隊の乗る二頭の馬が付いて来ているのだが、市街地から離れるにつれ、徐々に二人から離れ、今では大分後ろに小さく見える程に離れていた。
「あの人たち、やる気ないわね」
マーヤは後ろを振り返り、やる気のない彼らに好感を持った。
「ふふふ。有難いわね」
シールもやる気のない親衛隊に悪い気はしない。
「でも、よくよく考えたら、今まで私たちのことちゃんと監視してたのかしら?」
シールがそんな疑問を投げかけると、
「うーん」
マーヤは今までのことを思い返し、
「よくわかんない」
と結論を出した。
親衛隊が二人に何か話しかけてくることはなく、特に変わったことも起こらなかったため、〝よく思い出せない〟というのが正直なところだった。
「もしかしたら、アク様って親衛隊の隊士たちから慕われていないのかも知れないわね」
シールがそんな風にアクを評すると、
「別に慕われたいとも思ってないんじゃない?結局、力がすべてですからね。力で従えてるんでしょ」
マーヤはそう返しながら、アクの嫌らしい顔を思い出して苦虫を噛み潰したような顔をする。
「それもそうね」
シールが納得すると、
「あの二人だって、嫌々従ってるだけじゃないの?態度に表れ過ぎてるよね、あれは」
マーヤは後を付いてくる親衛隊の二人をそう評し、呆れてみせるのだった。
その突き放した言い方に、
「ふふふ」
シールは気持ちよく笑う。
二人の乗った馬はムニム市場北口前の外周道に差し掛かる。
「どうしよう」
シールはこの北口の駐車場で馬を預けるか、それとも新世界橋に近い東口で馬を預けるか逡巡する。
「お姉ちゃん、なに悩んでるの?」
マーヤが声をかけると、
「マーヤ、北口と東口、どっちで馬を預けた方がいいと思う?」
シールは意見を求めた。
「ここ!」
マーヤは即答する。
「どうして?」
その理由を尋ねると、
「ここで降りて、外周道を歩いて新世界橋に向かって、帰りは市場の中で買い物をしながらここに戻って来たらいいと思う!」
マーヤは目を輝かせてそう答える。
たしかにそれは妙案だ・・・
シールは納得した。
「マーヤは賢いなぁ」
シールが感心すると、
「エヘン!」
マーヤは得意げに胸を張るのだった。
二人は北口で馬を預けると、外周道を東口方面へ歩き、新世界橋へと向かった。
市場周辺には烏人がいた。
それもなかなかの数の烏人が当たり前にいて、市場の外で商いをしている烏人や、沿道の店の前でたむろしている烏人の姿もあり、不思議な雰囲気を醸し出しているのだった。
「わーっ、これが烏人なのね」
マーヤは生まれて初めて見る烏人に目を見張った。
「私たち兎人と比べるとガッチリしてるのね」
シールは興味深く烏人を観察し、
「ガッチリっていうか、なんか、太ってる人多くない?髪の色も黒ばっかりだし、耳の形もちょっと違うし、変な感じ」
マーヤが兎人と烏人の違いを見つけて微妙な顔をすると、
「太ってる人が多く見えるのは、ここにいる烏人がみんな商人だからじゃないかしら」
シールはそんな風に解釈するのだった。
二人にとって市場周辺の光景は刺激的で楽しいものだった。
二人はお喋りを楽しみながら、散策気分で東口に近づいていく。
「ここって別世界みたい」
マーヤは言いながら、キョロキョロと色んなところへ視線を投げる。
「空気も違うわね」
シールがそう相槌を打ったとき、
「お姉ちゃん、見て!」
突然マーヤが大きな声を上げ、前方に向かって指を差した。
シールが視線を向けると、そこに新世界橋が見えた。
ムニム市場はヒシリウ川より高い位置にあるため、シールの目に映ったのは、市場周辺の賑わいの向こう見える、対岸に向かって堂々と真っ直ぐに伸びる新世界橋の姿だった。
新世界橋は石造りのがっしりとした建造物で、ここから見てもその大きさがわかるほど幅も広い。
「へぇー、あれが新世界橋なのね。大きくて頑丈そう」
シールは烏人の造った石橋の迫力に驚いた。
「すごーい。近くで見たらもっと凄いんだろうなぁ」
マーヤは感嘆の声を漏らすと、
「お姉ちゃん、急ご」
そう言ってシールの腰をポンと叩き、急ぎ足になる。
「マーヤったら」
シールは困ったような声を出しながらも、楽しそうにマーヤと歩調を合わせ、急ぎ足で歩くのだった。
マーヤは噂に聞いていた新世界橋を生で見て興奮していた。
これはトマスやエラスに自慢できるぞ・・・
そう思ったら、ワクワクせずにはいられなかった。
東口に近づくにつれ人も増え、賑やかさが増してくる。
東口は北口よりも確実に賑わっていた。
東口から新世界橋へと続く通り沿いにある店は食堂が最も多く、飴や干し果物などを売る店や、飲み物だけを売る店、持ち帰り用の軽食を売っている店もあって、中には店の前に人だかりができるほどの人気店もあった。そういった店と軒を並べ、霊兎族各地から集めた工芸品や雑貨などを売る落ち着いた感じの店もあって、それが良い具合に通りの独特な雰囲気を作り出しているのだった。
烏人の方が兎人より多いんじゃないかと思ってしまうほどに、烏人の姿が多かったし、そのため物凄く近い距離で烏人を観察することができた。
店先で話をしている烏人は、誰も彼もふんぞり返っているように見えた。
「烏人って、なんか偉そうにしてるのね」
マーヤはそう言って嫌な顔をする。
そんなマーヤにシールはクスッと笑う。
「そんな顔しないの」
シールは笑いながらマーヤをたしなめる。
「あれって怒鳴ってるようにも聞こえるよ。あんな横柄な態度が賢烏族では当たり前なのかな」
マーヤはシールの後ろに隠れるようにして、烏人の様子を観察するのだった。
「そうかも知れないわね」
シールはそう相槌を打ち、烏人たちの態度について考えてみる。
烏人の態度は明らかに兎人を見下した横柄なものだった。おそらく烏人同士ではああいう態度は取らないだろう。ムニムでは兎人と烏人とのイザコザも多いと聞いていて、その原因がこの烏人たちの態度にあることは明らかだった。
シールはそれを悲しく思った。
しかし、シールはそれを口にはしなかった。
落ち着いた様子のシールに、
「お姉ちゃん、怖くないの?」
マーヤがそう尋ねて不思議そうな顔をすると、
「どうして?」
シールは思わず聞き返した。
「だって、烏人たちって目が合ったら怒鳴ってきそうなんだもん」
マーヤはシールの耳元でそう答えながら、通りすがりの烏人をチラッと見る。
シールは大袈裟にビクビクしてみせるマーヤが可笑しくて、自然と笑みがこぼれる。
「怖いわけないでしょ。兎人も烏人も同じ人間よ」
シールが胸を張ってそう言うと、マーヤは怖がる振りをしている自分がバカに思えてきて、すーっと気持ちが冷めていくのを感じるのだった。
「それもそうね」
マーヤは怖がるのをやめ、シールの横を堂々と歩き出す。
改めて烏人を観察すると、烏人はたしかに兎人に比べひと回りほど体格が大きく感じるし、それ以上に態度がデカイく見えるし、雰囲気も違うけど、シールの言う通り同じ人間に違いなかった。
「お姉ちゃんの言う通り、ちゃんと見たら同じ人間ね」
マーヤが納得の言葉を口にすると、
「そう、相手をちゃんと見ることが大切なのよ」
シールは優しく頷いた。
二人は新世界橋に向かう通りを下っていった。
東口から新世界橋へと続く通りは緩やかな下り坂になっていて、兎人と烏人がごちゃまぜになって賑わっていた。
昼間の時間帯は荷馬車が通ることもあまりないので、安心して道の真ん中を歩くことができる。
マーヤは通りを歩きながら色んなものに目を向け、「すごっ」とか「わぁ」とか、小さな驚きの声を何度も上げた。特にふんぞり返った烏人を見つけては、「ひぃえー」とわざとらしく怖がって喜ぶのだった。
そうやって通りの雰囲気を楽しむのがマーヤ流だ。
「マーヤ、そんなにジロジロ見ないの」
シールは烏人を見つけては変な声を上げるマーヤを優しく注意する。
「え、私?」
マーヤは自分の鼻を指差して目をパチクリさせ、
「さっきから、ひぃえー、ひぃえー、ばっかり言ってるわ」
シールが呆れ顔で指摘すると、
「えー、そんなに言ってた?」
マーヤは両手でほっぺを挟むようにして驚き、目を丸くした。
「でも、マーヤのそういう無邪気なとこ好きよ」
シールはそう言って優しく微笑む。
「えへへ」
マーヤが照れると、
「ジロジロ見るんじゃなくて、チラチラにしなさい」
シールはそう助言を与えて悪戯っぽく笑う。
「はーい」
マーヤは楽しそうに返事を返し、わざとらしくチラチラと烏人に視線を送るのだった。
「うふふ。マーヤったら」
シールはそんなマーヤが大好きだった。
二人はただお喋りを楽しみながら通りを歩いているだけなのだが、買い物をしている人、店の人、通りですれ違う人たちは皆、兎人、烏人に関係なく、その美しさに惹かれ、その姿に振り向き、見惚れ、目で追うのだった。
そんな視線に二人は無頓着だった。
「おい、なんだこれは!」
突然、怒鳴り声が聞こえた。
二人の行く手に、店の前でコップを片手に怒る烏人の男が目に入った。
男は右手に杖を持っていて、今にも店の人に殴りかかりそうな勢いだった。
「こ、これは、果実酒でございます」
店主の霊兎は平身低頭、売り物の酒の説明をしている。
「こんな甘い酒があるか!」
そう怒鳴る烏人の男が持っているコップは、空っぽだった。
ということは、この男は飲むだけ飲んでイチャモンを付けていることになる。
「嫌な奴」
マーヤはそう言って男を睨む。
「どこにでもああいう嫌な奴はいるのね」
シールも不快な表情を浮かべる。
ただでさえ横柄に見える烏人ではあるが、これはあまりにも露骨すぎる。
シールはさりげなく親衛隊の姿を探した。
しかし、親衛隊の姿はどこにも見当たらなかった。
こんなときに限っていないなんて・・・
シールは親衛隊にガッカリし、そして、意を決するように口を一文字に引き結んだ。
二人はその店を避けることなく、少しずつその店に近づいていった。
「おう、こんなんで金取るつもりじゃないだろうな」
男は自分の顔を店主の顔にぐっと近づけて威嚇する。
「お、お代はいただきます・・・」
店主は気圧されながらもお代を請求する。
こういうタチの悪い烏人の客は少なくない。
こういう輩の脅しに負けていたら、この通り沿いで商売なんてできないのだ。
どんな客だろうとお代はちゃんと払ってもらう。
それが店主の意地だった。
一度許せばこの店はこれからも、この男のような輩に狙われ続けるだろう。
だからどんなに怖くても、店主はお代を請求し続けるのだ。
「ふざけるな!」
ガシャンッ!
男はコップを地面に叩きつけ、
ドンッ!
と店主を突き飛ばした。
「いたたっ」
尻餅をついて倒れた店主は顔をしかめ、そこに男が杖で殴りかかった。
バシッ!
男は店主の頭を強く打つ。
「いたっ!」
店主は痛みに声を上げる。
「どうだ、まだ金がほしいか」
男はそう言って店主を打つ。
バシッ!バシッ!バシッ!
店主は両手で頭を庇い、杖を腕で受け止める。
「うぐぐっ・・・」
店主は痛みに耐えながら、
「や、やめてください・・・」
と懇願する。
この男はタチの悪い客の中でも最悪の客だった。
「だから、お金はいらないんだな」
男が脅すように店主に向かって杖を振り上げた、そのときだった。
ゴツンッ!
と音がして、ピンポン玉ほどの石が男の後頭部に当たって跳ね返ると、男はまるで背後から突き飛ばされたかのように前につんのめった。