一〇五 嫌な胸騒ぎ
数日前、服従の儀式の日程がドゴレの使者から伝えられると、バケ屋敷は緊張感に包まれた。
「いよいよじゃな」
バケじぃは広間に集まる霊兎たちを前に、鋭い目つきでそう告げた。
広間に集まる霊兎たちは、それぞれに覚悟を決めた眼差しで、バケじぃに頷いてみせた。
バケじぃはそこにいる一同を見渡し、
「ドゴレからも注意があったが、親衛隊がラドリアに帰るまでの間、監視団は我々をおびき出すために、今まで以上に酷いことをしてくるだろう。絶対に奴らの手に乗ってはいかんぞ。これだけは肝に銘じておくように」
と、厳しく注意を与えた。
その場にいた霊兎たちは〝今まで以上に酷いことをしてくる〟と聞いて憤ったが、それをぐっと堪え、バケじぃに静かに頷いた。
それから、
「お前たちのその怒りを服従の儀式で爆発させるのじゃ。その時に向け、明日からはより厳しい訓練を行うぞ」
バケじぃはそう言って気合いを入れたのだった。
たしかに、あれからラビッツの訓練は厳しくなった。
この日も朝からバタバタしていた。
「明日の訓練は市井組のほとんどが参加するから、段取りをちゃんと決めておくように。時間の無駄はできんぞ。グラン、パパン、ギル、テナリ、ヒーナ、キーナ、スーニ、リーレ、ミズワ、デニト、お前たちリーダー十名は、午後からの訓練に向け、朝のうちに訓練の内容を決め、屋敷組の者たちに指示を与えておくように」
昨夜バケじぃから、そんな指示が出ていた。
指示を出されたリーダー達は朝から慌ただしく動いた。
ラビッツの霊兎たちにはバケ屋敷近くの空き家を勝手に借りて住んでいる屋敷組の者たちと、市井に暮らす市井組の者たちがいた。
市井組の霊兎たちは個々の実力は折り紙つきだが、一緒に暮らしている屋敷組の霊兎たちと比べると、やはり連携面に問題があった。
服従の儀式の際、神兵と戦うときは数人が連携して倒すことになっているのだが、その意思の疎通という面において、市井組の霊兎たちは遅れているのだった。
午後からの訓練は、市井組の霊兎たちの連携を強化する為に行われる。
その訓練を効率的に行うために、屋敷組の霊兎たちは段取りを決めておく必要があるのだった。
バケ屋敷の周りには一番屋敷から十番屋敷まであって、この日の訓練は市井組を十に分けてそれぞれの屋敷に割り当て、屋敷ごとに訓練をすることになっていた。いくつかの屋敷は少し離れた場所にあるので、各屋敷のメンバーをバケ屋敷に集めて指示を与えるより、こちらから屋敷に出向いて指示を与える方が効率的ということになった。
グランとミズワ、パパンとデニト、ギルとテナリ、ヒーナとキーナ、スーニとリーレがペアになって、朝からそれぞれの屋敷を回ったのだった。
リーダーたちは昼前には皆バケ屋敷に戻っていて、午後からの訓練に備え束の間の休憩を取っていたのだが、ギルは何かが気になった。
「ヒーナはどこだ?」
ふとヒーナがいないような気がした。
ギルが屋敷の中を見回しても、たしかに、ヒーナの気配を感じなかった。
嫌な予感がした。
ギルは裏庭に出て、
「ヒーナを見なかったか?」
日向ぼっこをしているパパンとグランに訊いてみた。
「うん?」
のんびりしているところに急に険しい顔のギルが現れたので、二人はキョトンとした顔になる。
「ヒーナがいないような気がするんだ」
ギルが顔を強張らせると、
「そうか?まだ戻ってないのかな」
パパンは首を傾げ、
「キーナと一緒にいるとこ見たぞ」
グランは言いながら、顎を右手の人差指でポリポリと掻いた。
「そっか、キーナと一緒だったな。ありがとう」
ギルは二人に礼を言うと、キーナを探して屋敷の中に戻っていった。
キーナは部屋で休んでいた。
「ヒーナは?」
ギルが訊くと、
「あれ?まだ帰ってない?八番屋敷の帰りに三番屋敷に用があるって言うから、私は先に帰ってきたんだけど」
キーナはそう答え、驚いた顔をした。
「ありがとう」
ギルは礼を言い、改めて屋敷の中を探した。
キーナも心配になって屋敷を一緒になって探したが、やはりヒーナは見つからなかった。
「おかしいなぁ」
キーナは首を傾げる。
「ヒーナにおかしな様子はなかったか」
ギルがそう尋ねると、キーナははっとして何かを思い出した。
「もしかしたら・・」
キーナは険しい表情で視線を泳がせる。
ギルは嫌な胸騒ぎがした。
「もしかしたら?」
ギルが厳しい表情で尋ねると、
「朝、最初の屋敷に行く途中のことなんだけど、ヒーナがポツリと言ったんだ。昔世話になった人が監視団に捕まってるって。それで、広場での処刑をなんとかしないとって・・・『今は耐えるときだから我慢しなきゃっ』て言ったら、ヒーナは『わかってる』って答えたんだ。だから安心してたんだけど・・・」
キーナは顔を引きつらせ、そう説明した。
「まさか・・・」
ギルは宙を睨む。
ギルが思い出したのは、
—監視団は我々をおびき出すために、今まで以上に酷いことをしてくるだろう。
バケじぃがそう告げたときのヒーナの様子だった。
—絶対に奴らの手に乗ってはいかんぞ。これだけは肝に銘じておくように。
その言葉に、ヒーナはバケじぃから目を背け、苦々しい顔をしていた。
「市街地に行ったのかな・・・」
キーナは恐る恐る呟いた。
「市街地に行ったとしか思えないな。嫌な胸騒ぎがする」
ギルの表情が険しくなり、キーナは不安な気持ちに襲われる。
ヒーナになにかあったら・・・
その不安な思いが口に出る。
「どうしよう・・・」
弱々しいその声に、ギルはキーナの目をしっかりと見て、穏やかな口調で告げた。
「俺は今から市街地に向かう。キーナ、お前はタヌとラウルに知らせてくれないか」
ギルは優しくそう言い、キーナの肩に優しく手を置いた。
ギルのその優しい眼差しと肩に置かれたその手の感触が、キーナを落ち着かせる。
「わかった」
キーナはギルの目を真っ直ぐに見て応えた。
ギルならなんとかしてくれる・・・
そう思った。
「時間との勝負だ」
ギルがそう言うと、
「うん」
キーナは力強く頷き、すぐにムニム市場へ走った。
ギルは状況をバケじぃに伝え、急いで市街地に向かった。