幕間 姉の慧眼。見え透いた嘘と、白衣の狂気との静かなる牽制戦
大宮ダンジョンの未曾有のスタンピードから数日が経過した、穏やかな午後のこと。
探索者専用総合病院の特別病室は、ブラインド越しに差し込む春の陽光に包まれ、静かで温かな空気に満ちていた。
ベッドの上で上体を起こしている太田凛は、ギルドから貸与されたタブレット端末を膝に置き、一つの動画を食い入るように見つめていた。
画面の中で再生されているのは、今や全世界で再生回数数億回を突破し、ニュース番組でも連日取り上げられている『狐面の英雄』による、深層ボス・黒死の騎士の単独討伐映像だ。
『……神だ』
『歴史が変わった瞬間を見た!!!』
画面の端を滝のように流れていく、世界中の言語が入り乱れた絶賛のコメント。
魔法を一切使わず、不可視の罠と巨大な妖怪たちを統率し、最後は空中の見えない壁を蹴ってボスの急所を穿つという、人間離れした超絶技巧。
世界中の視聴者は、この狐面の青年を「神の化身」や「極め尽くされた暗殺者」と呼んで畏怖し、熱狂している。
しかし。
かつて大宮ダンジョンの中層を最前線で駆け抜け、数々の魔物を屠ってきた『元トップ探索者』である凛の眼は、その熱狂のベールを容易く剥ぎ取っていた。
「(……確かに、この異常な空間把握能力と戦術は、私の知らないもの。でも……)」
凛は動画を一時停止し、狐面の青年が空中で身を丸め、ナイフを突き出す直前の『溜め』の姿勢を拡大した。
「(踏み込む直前、右足のつま先を僅かに内側へ向ける癖。ナイフの柄を握り込む時、小指から順番に優しく包み込むような手つき……。そして何より、あの少し猫背気味の肩のライン)」
それは、幼い頃からずっと見守り続け、誰よりも愛してきた『たった一人の弟』の姿そのものだった。
彼がどれほどのっぺりとした狐面で顔を隠そうと、どれほどオドオドとした演技で声を震わせようと、姉の直感を誤魔化すことなど到底できはしない。
それに、呪いが完全に解呪されたタイミングと、この動画の配信日時が、あまりにも出来過ぎている。
「……バカな子。こんな危険な真似をしてまで、私を……」
凛の瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ち、タブレットの画面を濡らした。
これほどの戦いを、あの心優しい弟がたった一人で背負っていたのだ。
私が守らなければと、そう思っていたはずなのに。気がつけば、自分は彼に命を救われ、そして彼は、世界中が手の届かない『伝説』へと駆け上がってしまった。
「(……でも、佑があの『気弱な弟』を演じ続けたいのなら。……私は、気づかないフリをしてあげるのが、姉としての最後の役目ね)」
凛が涙を指で拭い、そっと微笑んだ、まさにその時だった。
コンコン、と。
病室のドアが控えめにノックされ、横にスライドした。
「失礼いたします、太田凛さん。……その後のご体調は、いかがかしら?」
白衣を羽織り、妖艶な微笑みを浮かべて入室してきたのは、関東探索者ギルド特別研究室の主任・雨宮結衣だった。
手には見舞いの果物籠と、バインダーを持っている。
「雨宮さん……。わざわざ、ありがとうございます。おかげさまで、呪いの痕もすっかり消えて、こうして起き上がれるようになりました」
「本当に奇跡ね。世界最高純度の『特級魔石』から抽出した解呪薬とはいえ、あれほどの呪いを跡形もなく消し去るなんて」
雨宮はベッドサイドのパイプ椅子に腰を下ろし、凛のタブレット画面――一時停止された『狐面の英雄』の映像をチラリと一瞥した。
「あら、あなたもその動画を見ていたの? ……ギルドとしても、この『匿名の英雄』には頭が上がらないわ。彼が深層ボスを討伐し、特級魔石をドロップさせてくれなかったら、あなたの命は危なかったのだから」
「ええ。この方には……本当に、感謝してもしきれません。いつか、直接お礼を言いたいくらいです」
凛は、柔らかな笑みを浮かべてそう答えた。
だが、その瞬間。女同士の、本能的な『何か』が静かに交錯した。
凛は、目の前でニコニコと笑っているこの白衣の女の瞳の奥に、どす黒く渦巻く『狂気的な執着』が潜んでいることを、元トップ探索者の鋭い嗅覚で瞬時に察知した。
そして雨宮もまた、病み上がりで痩せ細っているはずの凛から放たれる、研ぎ澄まされた刃のような『静かなる威圧感』に、背筋をゾクリと震わせていた。
「(……なるほど。さすがは、あの佑くんのたった一人の血肉。ただの守られるだけの『お姫様』じゃないってわけね)」
雨宮は内心で恍惚としたため息を漏らしながら、バインダーを胸元で抱きしめた。
「そういえば、弟の佑くんだけれど……。彼、ポーターとしてギルドでとても頑張ってくれているのよ? 最近は、私の『特別研究室』の専属として、色々と……そう、深く、濃密な『お手伝い』をしてもらっているの」
「……そうですか。あの子は昔からどんくさくて、気弱なところがありますから。雨宮さんには、さぞご迷惑をおかけしているでしょう?」
「とんでもない! 彼ほどの『逸材』、他にはいないわ。私たちは今、誰にも邪魔されない最高の『共犯関係』を築いているのよ」
雨宮の言葉の端々に散りばめられた、所有欲とマウントの匂い。
それは、「あなたの知らない弟の顔を、私はすべて知っている」という、狂気に満ちたマッドサイエンティストからの明確な挑発だった。
しかし、凛はその挑発に乗ることはなかった。
ただ、ニコリと。
花が咲くような、しかし氷のように冷たい、完璧な姉の微笑みを浮かべた。
「……雨宮さん。弟を評価していただき、本当にありがとうございます。姉として、これほど嬉しいことはありません」
凛は、ベッドシーツの上で、細くなった自分の手を静かに組んだ。
「でも、もし……ギルドが、あの子の優しさや自己犠牲の精神につけ込んで、あの子を『死地』へと追いやるような真似をしているのだとしたら」
ピキリ、と。
病室の窓ガラスが、微かな霊圧に耐えきれずに音を立てた。
身体の筋肉は落ち切り、魔力回路もまだ完全に修復されていない。戦闘力としては一般人以下のはずだ。
それにも関わらず、凛の瞳から放たれた『Aランク上位探索者としての絶対的な殺気』は、雨宮の首筋に冷たい刃を突きつけるほどの純度を持っていた。
「……私は、一生かけて元の身体を取り戻し、関東ギルドの体制そのものを、根底から『見直し』に行かなければなりませんね」
「……ッ……ふふ、ふふふふっ」
雨宮は、その恐ろしいまでの姉の牽制を受け、恐怖するどころか、身をよじって妖しく笑い出した。
「素晴らしいわ……。やっぱり、彼のお姉さんね。ええ、安心して。私にとっても、彼は失うわけにはいかない『最高の検体』だもの。絶対に、死なせたりはしないわ」
「……ええ。お互い、佑にはいつまでも『ただの気弱な弟』でいてほしいですからね」
二人の女は、表面上は穏やかに微笑み合いながら、水面下でバチバチと激しい火花を散らし合っていた。
「それじゃあ、私はこれで。手続きの書類は、また後日持ってくるわね」
雨宮が白衣を翻して病室を去った後。
凛は、小さく息を吐き出し、組んでいた手を解いた。
先ほどの威圧で、今の弱り切った身体には相当な負担がかかってしまったらしく、額にはじんわりと汗が滲んでいる。
「(……強烈な人ね。あんな女狐に目をつけられるなんて、佑も本当に苦労しているんだから)」
凛は苦笑いしながら、自分の細い腕を見つめた。
剣を握る力も、魔力を練る力も、まだ戻ってはいない。戦力として前線に復帰するには、気が遠くなるようなリハビリと時間が必要だろう。
「(今はまだ、私は守られるだけの存在。……でも、いつか必ず)」
窓の外、青く澄み渡る春の空を見上げながら。
かつてのトップ探索者は、密かに、しかし決して揺らぐことのない炎をその瞳に宿した。
「(いつか必ず、私もあの場所に立つわ。佑……あなたが背負っているものを、半分こできるようにね)」
弟が向かう次なる戦場が、どのような修羅であろうとも。
それを背後から静かに、そして力強く見守る姉の存在が、確かな道標としてそこにあった。




