第33話 呪いの解呪。戦国の亡霊が流した涙と、次なる戦場への道標
大宮ダンジョンの地上へと続く転送ポータル。
群青色を溶かしたような、冷たく静かな魔力光の渦を抜け、太田佑はふらつく足取りで現実世界へと帰還した。
深夜の大宮の街は、遠くで鳴り響くパトカーや救急車のサイレンの音に包まれていたが、ダンジョンの入り口周辺だけは、不自然なほどの静寂が支配していた。
無理もない。深層からのスタンピードの警報を受け、ほとんどの探索者や職員はすでに避難を完了させていたからだ。
「ハァッ……ハァッ……」
佑の薄汚れたポーターの服は、魔物の返り血と自身の血で赤黒く染まり、所々が引き裂かれている。
極限の集中力と、妖怪たちを限界突破させたことによる魔力枯渇。
全身の骨が軋み、細胞の一つ一つが悲鳴を上げているが、彼の手にはしっかりと、血のように赤く輝く『特級魔石』が握りしめられていた。
「――お帰りなさい、私の最高の共犯者さん」
静まり返ったゲートの前に、カツン、とヒールの音を響かせて歩み寄ってくる人影があった。
白衣を翻し、妖艶で狂気的な笑みを浮かべた関東探索者ギルドの受付嬢、雨宮結衣である。
彼女の背後には、ギルドの特務医療チームが待機していたが、雨宮は彼らを制して、一人で佑の元へと歩み寄った。
「雨宮、さん……」
「ふふっ、酷い怪我ね。でも、あなたのその瞳……最高にゾクゾクするわ。世界中が絶望した深層の大群を、たった一人ですり潰すなんて」
雨宮は、血まみれの佑の頬に、白魚のような指でそっと触れた。
彼女の手元のタブレットには、先ほどまで世界中を熱狂の渦に巻き込んでいた配信の最終データ――『同時接続数160万人』という、人類史上未曾有の記録が燦然と輝いている。
「世界中のメディアが、あなたの正体を探そうと血眼になっているわ。ギルドのメインフレームにも、海外の諜報機関から凄まじい数のハッキングが仕掛けられているのよ? ……もちろん、私がすべて弾いて、あなたの情報は完璧に隠蔽してあるけれど」
「……そんなことは、どうでもいい」
佑は、かすれる声で雨宮の言葉を遮った。
そして、震える手で、赤く輝く特級魔石を彼女の胸元へと突き出す。
「約束だ。……これで、姉ちゃんの薬を、作ってくれ」
「ええ、もちろんよ。この特級魔石の純度なら、どんな呪いだろうと完全に浄化できる至高の霊薬が精製できるわ。……さあ、急ぎましょう」
雨宮は魔石を慎重に受け取ると、医療チームに指示を出し、佑をストレッチャーに乗せてギルド本部の地下研究室へと急行した。
*
数時間後。夜が明け、東の空が淡い琥珀色に染まり始めた頃。
探索者専用総合病院の特別病室に、静かな足音が響いた。
ギルドの医療カプセルで応急処置を受け、全身に包帯を巻いた佑が、雨宮と共に病室のドアを開ける。
ベッドの上では、最愛の姉・凛が、浅い呼吸を繰り返しながら眠っていた。
彼女の白い首筋から胸元にかけて、赤黒い茨のような呪いの痣が、以前よりもさらに色濃く、命を削るように侵食している。
「……姉ちゃん」
佑は、パイプ椅子に腰を下ろし、震える手で凛の冷たい手を握りしめた。
その背後で、雨宮が試験管に入った透明な液体を差し出す。
特級魔石から抽出された、純度百パーセントの解呪薬。朝日に照らされて、それはまるで星の欠片のように神秘的な光を放っていた。
「佑くん、これを彼女に」
「……ああ」
佑は薬を受け取ると、凛の口元にそっと試験管を運び、その透明な液体をゆっくりと流し込んだ。
コクリ、と。
凛の喉が薬を飲み下した瞬間。
病室の空気が、ふわりと温かいものへと変化した。
ジュワァァァッ……。
凛の首筋を覆っていた赤黒い茨の痣が、まるで透明な水にインクが溶け出していくように、淡く滲み、そして光の粒子となって空中へと霧散し始めたのだ。
苦しげだった彼女の呼吸が、嘘のように穏やかで深いものへと変わり、青ざめていた頬に、ほんのりと桜色の血色が戻っていく。
「(……消えた)」
佑は、その奇跡のような光景を、瞬きすら忘れて見つめていた。
大宮ダンジョンの深層で彼女の身体に刻み込まれた、絶対的な死の呪い。
それが今、己の死闘の末に勝ち取った魔石の力によって、完全に浄化されたのだ。
「……んっ……」
朝の光に包まれたベッドの上で、凛がゆっくりと長い睫毛を震わせ、その瞳を開いた。
焦点が合い、真っ先に視界に映った包帯だらけの弟の姿を見て、彼女は驚いたように目を丸くした。
「佑……? あなた、その怪我……どうしたの……?」
「あ、あはは……。ちょっと、ポーターの仕事で、転んじゃって……。でも、大丈夫だよ。かすり傷だから」
佑は、いつもの気弱な弟の顔を作って、愛想笑いを浮かべようとした。
だが、その声はひどく震えていた。
前世の記憶。武州の英傑、太田資正として生きた時代。
どれほど武功を挙げようと、どれほど優れた兵法を用いようと、愛する家族を戦火や謀略から守り切ることはできなかった。
冷たい泥の中で血を吐きながら絶命したあの絶望が、魂に深く刻み込まれていたのだ。
「(……守れた。今度こそ、俺は……俺の大切なものを、守り抜くことができたんだ)」
ポロリ、と。
のっぺりとした狐面の奥に隠し続けてきた、戦国武将の冷徹な仮面が完全に剥がれ落ちる。
佑の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、シーツの上にポタポタと落ちた。
「佑……?」
「よかった……。本当によかった……っ。姉ちゃん……っ!」
佑は、子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、凛の手を両手で包み込み、自身の額を押し当てた。
世界を震え上がらせ、何万という魔物の軍勢を一人ですり潰した冷酷なる妖将。
しかし今の彼は、ただ一人の姉を想う、年相応の弟でしかなかった。
「……バカね。私が寝ている間に、また無茶をしたんでしょう?」
凛はすべてを察したように、優しく微笑むと、包帯だらけの弟の頭をそっと撫でた。
その温もりに触れ、佑はさらに肩を震わせる。
病室の窓の外では、完全に昇りきった朝日が大宮の街を照らし出し、長く苦しかった夜の終わりを祝福しているようだった。
雨宮は、その美しすぎる姉弟の絆を、病室の隅で妖しく目を細めながら、静かに見守っていた。
*
それから数日後。
大宮ダンジョンのスタンピード事件は、「奇跡的な自然鎮火」として一般には報道されたが、インターネットの世界では全く別の真実が語り継がれていた。
『結局、あの狐面は誰だったんだ!? ギルドは情報を隠蔽してるぞ!!』
『海外のギルドが懸賞金かけて探し回ってるらしい。同接160万人の男だぞ、経済効果ヤバすぎる』
『でも、あの見えない罠と妖怪軍団……。真似しようとした配信者が何人もダンジョンで死にかけてるらしい』
『あの男は神だ。俺たちに絶望をひっくり返すカタルシスを教えてくれたんだ』
『またいつか、あいつの配信を見られる日が来るんだろうか……』
SNSや巨大掲示板では、姿を消した『狐面の底辺テイマー』の伝説が、日に日に尾ひれをつけて拡大し続けていた。
だが、その狂騒の中心にいる当人は、ギルド本部の地下研究室で、いつも通りの薄汚れたポーター服を着て、ホログラムモニターと睨み合っていた。
「……つまり、こういうことか。牝狐」
「ええ。残念ながら、そうみたいね」
佑の問いかけに、白衣姿の雨宮が、コーヒーカップを片手に重々しく頷いた。
モニターに映し出されているのは、黒死の騎士を討伐した際に採取された、残留魔力の波長データである。
「お姉さんの呪いを解呪するプロセスで判明したのだけれど……。あの黒死の騎士が持っていた『呪い』は、大宮ダンジョン本来の性質とは異なっていたわ。何者かが、意図的に外部からあの深層ボスに呪いを『植え付けた』形跡があるの」
「(……ダンジョンのボスを操り、呪いの苗床にする。そんなことができる輩が、この現代にいるというのか)」
佑は腕を組み、目を細めた。
姉は助かった。だが、その姉に呪いをかけた『真の元凶』が、まだどこかで息を潜めている。
戦国の世を生き抜いた彼の兵法において、火種を完全に消し去らないことは、最悪の愚行であった。
「その元凶の魔力波長を辿った結果……発信源は、大宮から北西に位置する隣接エリアだと判明したわ」
雨宮がキーボードを叩くと、モニターの地図が切り替わり、豊かな自然に囲まれた山間部のマップが拡大表示された。
「……埼玉が誇る魔境の一つ。『秩父・長瀞ダンジョン』。豊かな水脈と複雑な山林が入り組んだ、自然型の高難度迷宮よ」
「(……秩父、か)」
佑の脳裏に、かつて北条軍と激しい山岳戦を繰り広げた、武蔵国の険しい山々の記憶が蘇る。
大宮の地下帝国とは全く異なる、大自然の地形を活かした戦場。
「(姉ちゃんを傷つけた輩が、そこに隠れ潜んでいるというのなら……地の果てまで追い詰め、魂ごとすり潰してやるまでだ)」
佑は、リュックの奥底から、のっぺりとした狐面を取り出した。
足元の影からは、すでに次の血を渇望するように、管狐、塗り壁、土蜘蛛の気配が微かに蠢いている。
「……雨宮さん。次の配信の準備を頼む。スポンサーのドローンは、まだ使えるな?」
「ええ、もちろん! 世界中があなたの次のショーを待ち望んでいるわ。……今度は、どんな絶望をひっくり返してくれるの?」
雨宮が狂気的な笑みを浮かべると、佑は狐面を顔に当て、氷のように冷たく澄んだ声で答えた。
「――山狩りだ。日本の自然を舐めている輩に、戦国の罠猟というものを教えてやる」
世界中が熱狂した『伝説』は終わらない。
底辺職の青年と、冷酷なる妖将。二つの魂を宿した戦神は、次なる獲物を求めて、秩父の山深き迷宮へとその歩みを進めるのであった。
【第一部 大宮ダンジョン編・完】




