第1話 底辺テイマーの最期、あるいは武州の英傑の目覚め
大宮ダンジョン第三階層。
迷宮の岩肌にびっしりと群生した発光苔が、まるで水彩画の青色を水で薄く溶いたかのような、淡く冷たい光を放っていた。
ひんやりとした湿った空気が、肺の奥をチクチクと刺す。静寂の中、硬いブーツが岩を蹴る鈍い音と、泥に塗れた乱暴な足音だけが反響していた。
「っ……、はぁっ、はぁっ……!」
太田佑は、自身の体積の半分はあろうかという巨大な荷物を背負いながら、必死に足を動かしていた。
肺が焼けるように熱く、全身の筋肉が限界を超えて悲鳴を上げている。視界は汗と恐怖で霞み、足元はおぼつかない。
本来ならば、この浅い階層に現れるのはゴブリンやスライム、せいぜいホーンラビットといった低級のモンスターのみである。
駆け出しの探索者でも安全に稼げるはずの場所。しかし、迷宮という名の非日常は、常に唐突で無慈悲なイレギュラーを孕んでいる。
「なんで……なんで、こんな所に深層のバケモノが……ッ!」
佑の眼前、通路を塞ぐようにして立ち塞がっていたのは、本来この浅層にいるはずのない異形の獣だった。
体長三メートルに迫る巨体。血のように赤黒く染まった剛毛と、闇夜に爛々と輝く金色の眼球。発達した四肢の先には、岩盤すら容易く引き裂く刃のような爪が伸びている。
大宮ダンジョンの深層で稀に目撃されるという、Bランク相当の凶悪な西洋モンスター、『ブラッド・ライカン』であった。
「チィッ! 運が悪すぎるぜ。おい、お前ら! 全速力で撤退するぞ!」
「お、お待ちくださいリーダー! 僕も……っ!」
佑を日雇いのポーター(荷物持ち)として雇っていた中堅パーティ『シルバーウィング』のリーダーは、顔を真っ青にして後退りしながらそう叫んだ。
彼らの足元には、すでに見切りをつけて逃走する準備が整っている。リーダーの瞳に、最後尾で荷物に押し潰されそうになっている佑を助ける意志は微塵もなかった。
「おい、荷物持ち! お前、一応テイマーなんだろ!? なんでもいい、その辺のネズミでも手懐けて、あいつの足止めをしろ!」
「む、無理ですよ! 僕のスキルじゃ、スライム一匹従わせるのがやっとで……ッ!」
「うるせぇ! お前みたいな底辺職、ここで死んでも世間は誰も気にしねぇよ! せめて囮の役目くらい果たして死ね!」
吐き捨てるような怒声と共に、リーダーは佑の足を思い切り蹴り飛ばした。
バランスを崩した佑は、重い荷物と共に冷たい岩肌へと無様に転がり落ちる。
「あ、あぁ……待って、見捨てないでくれ……!」
手を伸ばす佑を振り返ることもなく、パーティの面々は転がるようにダンジョンの通路の奥へと消えていった。
残されたのは、圧倒的な死の気配を纏う巨大な獣と、最弱の職業【テイマー】の烙印を押された一人の無力な青年だけ。
そして、空中に浮かびながら主人の様子を静かに映し続ける、一台の小型ドローン。
彼らはダンジョン探索の様子をリアルタイム配信していたが、パニックに陥ったリーダーは、佑の頭上を飛ぶサブカメラのドローンを回収するのも、配信を切るのも完全に忘れていたのだ。
『グルルルゥゥ……』
ブラッド・ライカンの喉の奥から、地鳴りのような唸り声が響く。
絶対的な捕食者の眼差しが、地に伏せた佑に向けられた。
次の瞬間、赤い閃光が弾けた。
シネマティックな映画のワンシーンのように、コマ送りにすら見えるほどの圧倒的な速度。
佑が悲鳴を上げる間もなく、巨大な爪の腹が彼の胴体を真横から薙ぎ払った。
「ガ、ハッ……!」
ボキボキと、自身の肋骨が複数本へし折れるおぞましい音が耳に届いた。
ボールのように吹き飛ばされ、硬い岩壁に叩きつけられる。肺から空気が強制的に押し出され、口からごぼりと鮮血が溢れた。
鈍い痛みと共に、視界の端が急速に黒く染まり始める。内臓が破裂し、致命傷を負ったことは、素人の佑にも理解できた。
(あぁ……俺、ここで死ぬのか……)
薄れゆく意識の中で、冷たい岩の感触だけがやけにリアルだった。
こんな理不尽な暴力で。誰にも省みられることなく、惨めに。
脳裏に浮かぶのは、たった一人の家族の顔だ。
かつてトップ探索者でありながら、この大宮ダンジョンの深層で西洋モンスターの悍ましい呪いを受け、今は薄暗い病室のベッドで伏せっている姉、凛。
姉の呪いを解くために、莫大な治療費を稼ぐために、底辺職と蔑まれ、泥水を啜りながらポーターを続けてきたのに。
(姉ちゃん……ごめん……。俺、何も、恩返しできな……)
血走ったライカンの巨大な顎が、とどめを刺すべく佑の喉元へと迫る。
熱い獣の呼気が顔にかかった。死の淵。完全なる暗闇が、佑の意識を呑み込もうとしたその刹那。
ドクン、と。
心臓が、あり得ないほどの大きな鼓動を打った。
『――よもや、このような犬畜生に後れを取るか』
誰かの声がした。
いや、自分自身の内側から響く、酷く嗄れた、しかし底知れぬ威圧感を放つ声。
堰を切ったように、『それ』は佑の脳髄へと濁流のように流れ込んできた。
――記憶だ。
血と泥と、硝煙に塗れた戦場の記憶。
吹き荒れる法螺貝の音。耳をつんざく火縄銃の轟音。武州・松山城を囲む北条の大軍勢。
幾度も城を奪われ、その度に謀略と軍犬を駆使した奇襲で奪い返してきた、執念と狂気の生涯。
「あ、あああぁぁぁアアアアッ!?」
佑は血を吐きながら絶叫した。
頭が割れるように痛い。現代日本で平和に生きてきた『太田佑』という小市民の自我が、血で血を洗う戦国時代を生き抜いた稀代の戦術家、『太田資正』の巨大な魂の残滓に塗り潰されそうになる。
(やめろ、俺は……俺は太田佑だ! こんな、人を殺す記憶なんて……!)
(否。我は太田資正なり。相模の獅子すら出し抜いたこの俺が、このような異形の犬に屈するなど、断じてあり得ぬ)
二つの魂が激しく衝突し、融け合い、そして新たな形へと再構築されていく。
その精神の異常な変容を感知したのか、佑の脳内に無機質なシステム音声が高らかに響き渡った。
【警告:生命維持レベルが限界値を下回りました。】
【エラー発生。魂の波長に致命的な異常を検知しました。】
【対象の精神構造が、既存のクラス【テイマー】の適性枠を著しく逸脱しています。】
【システムバグを承認。スキルの強制再構築を実行します。】
【……完了しました。未知のバグクラス【妖将】を獲得しました。】
ビキィッ! と、佑の深い部分で、何かの重い枷が外れる音がした。
先程までの怯えきった青年の顔は、もうそこにはない。
致命傷を負っているにも関わらず、佑はゆっくりと、まるで壊れた人形が糸で引かれるように立ち上がった。
垂れた前髪の奥から覗く双眸には、もはや現代人の甘さは欠片もない。
それは、タヌキ親父のように底知れず、それでいて冷徹で合理的な、戦国を生き抜いた将の光。
「……西洋の化け犬か。成程、体躯と毛艶は良いが、どうにも品がねぇな」
肋骨が折れた腹部の激痛など、すでに彼の中では「状況を構成する情報の一つ」でしかなかった。
口の端から血を流しながらも、佑は薄気味悪い笑みを浮かべる。その脱力したような立ち姿には、不思議と微塵の隙も存在しない。
『ガァァアアッ!』
死に体だったはずの獲物が立ち上がり、あまつさえ自分を見下すような視線を向けたことに激昂したライカン。
獣は吼え猛り、再び必殺の速度で跳躍した。鋭い爪が、佑の首を刎ね飛ばさんと迫る。
だが、佑は動かない。ただ、腰のベルトに提げていた安物のポーター用解体ナイフを逆手に構え、短く、しかし絶対的な命令を下した。
「出番だ。我が意のままに動け――『管狐』」
シュンッ!
佑の足元の影から、一条の黄金色の光が弾け飛んだ。
竹筒に収まるほど小さな、しかし神々しい霊力を纏った狐の妖怪。水彩画の絵の具が空中で鮮やかに滲むような、美しい光の軌跡を描いて管狐が宙を舞う。
「チィーッ!」
管狐はライカンの顔面に向かって一直線に飛翔し、その視界を完全に塞ぐように、網膜を焼くほどの強烈な燐光を放った。
『キャインッ!?』
ダンジョンの薄暗さに慣れていた獣の目に、至近距離からの閃光弾は致命的だった。
不意の強光にライカンは短い悲鳴を上げ、空中で完全に体勢を崩す。
「索敵と目眩ましには丁度いい。……戦場の基本は、敵の目と足を奪うことだ」
佑は足元の岩場を強く蹴り上げた。
魔法による派手な身体強化ではない。力学を完全に理解し、徹底的に無駄を省いた、武術の理合による歩法。
彼が狙ったのは、ライカンがバランスを崩して着地するであろう地点。そこは、天井から落ちる水滴で極端に滑りやすくなっている発光苔の群生地だった。
「足元がお留守だぜ、駄犬」
着地と同時に、ライカンの巨体が苔に足を取られ、大きくスリップする。
ただでさえ空中で体勢を崩していた猛獣は、その莫大な自重を支えきれずに無様に転倒した。
そして、完全に無防備になった太い首筋が、佑の目の前に曝け出される。
「――胴取り」
古流剣術の冷徹な一撃。
刃渡りわずか十センチの解体用ナイフが、ライカンの硬い毛皮の隙間を縫い、頸動脈が通る最も柔らかい急所へと、一切の抵抗なく滑り込んでいく。
それは、力任せの斬撃ではない。関節の隙間、肉の薄い部分を正確に穿つ、外科手術のような精密な刺突だった。
プツン、と。太い命の糸が切れる音が、確かに聞こえた。
血飛沫を浴びることもなく、佑は静かにナイフを引き抜く。ドサリと崩れ落ちる三メートルの巨体は、二度と立ち上がることはなかった。
圧倒的な格上であるはずのBランクモンスターが、一切の魔法を使わない泥臭いトラップと、極小の妖怪の目眩まし、そして無駄を削ぎ落とした一突きで絶命したのだ。
「ふむ……。管狐の霊力消費は想定内。地形を利用した誘導も完璧だった。戦国の世の人間の悪意に比べれば、本能だけで動く魔物なんてのは行動が単調で御しやすいな」
タヌキ親父のような飄々とした独り言を呟きながら、佑はしゃがみ込む。
ライカンの死体が光の粒子となってダンジョンに溶け落ち、後に残ったのは、赤黒く輝く高品質な魔石だった。
それを拾い上げ、肩に乗った管狐に近づけると、狐はそれを嬉しそうに丸呑みにした。
「よしよし。しっかり喰って育てよ。俺の兵法を完全に再現し、姉ちゃんの呪いを解くには、もっともっと手駒が必要だからな」
ふぅ、と一息つき、己の痛む腹部を抑える佑。前世の精神力が痛みを麻痺させているとはいえ、肉体の限界は近い。
しかし、彼は背後の空中に浮かぶ『あるもの』に、一つの重大な事実に気づいていなかった。
彼を映し続けるドローンの撮影ランプが、未だ赤く点灯し続けていることに。
そして、先程まで過疎っていた配信のコメント欄が、信じられない速度で滝のように流れていることに。
『は?』
『え、ちょっと待って、今なにが起きた?』
『Bランクのブラッド・ライカンが一瞬で死んだんだけど???』
『あの荷物持ち、魔法一切使ってなくね!?』
『てか今、光る狐みたいなの出なかった!? なんだよあのスキル!』
『苔で滑らせて急所一突きとか、エグすぎるwww』
『しかもアイツ、仲間見捨てられたあの状況で笑ってたぞ……』
『逃げたシルバーウィングの連中、とんでもない化け物置き去りにしたな』
『やばい、鳥肌たった。サイコパスかよ。こいつ何者だよ!?』
『誰かこの配信拡散しろ! とんでもないルーキーがいるぞ!!』
佑の全く知らないところで、彼の冷徹な戦術と未知の妖怪の力は、瞬く間にネットワークの海を駆け巡っていた。
世界中が、この「最弱」にして「最凶」のテイマーに熱狂し始めている。
「さて……姉ちゃんに心配かけないように、まずは傷を塞いで、血の匂いを落としてから帰るか」
のんきに呟く佑の背後。
ダンジョンのさらに奥深くから、先程の血の匂いを嗅ぎつけた更なる無数の影が、不気味な瞳を光らせて這い寄ってきていた。
だが、その影の気配にいち早く気づいた佑の口角は、狩りを楽しむ捕食者のように、三日月型に深く吊り上がっていた。
「……ちょうどいい。手駒の餌には困らなそうだ」




