神様視点は文学賞では使えない
小説を書くうえで、神様視点は原則的に使ってはいけない。
これは好みや流派の問題ではなく、読者体験を破壊する重大な欠陥だからである。
神様視点とは、物語の中で、すべての登場人物の内面や未来、真実を作者が自由に語ってしまう視点のことだ。
誰が何を考え、何が起き、どう結末するのかを、制限なく説明できる。
書き手にとっては楽だが、読者にとっては最悪である。
なぜなら、物語とは「わからないものを追う体験」だからだ。
登場人物と同じ立場に立ち、迷い、誤解し、選択する。
その過程こそが小説の面白さである。
ところが神様視点は、その過程をすべて破壊する。
読者は登場人物より多くを知ってしまい、緊張も驚きも成立しなくなる。
神様視点は視点混乱を必ず引き起こす。
ある段落では主人公の内面、次の行では別の人物の本心、その直後に「実はこうだった」と作者の説明が入る。
読者は「誰の物語を読んでいるのか」がわからなくなり、物語から引き剥がされる。
重要なのは、制限こそが物語を成立させるという事実である。
一人称でも三人称限定でもよいが、必ず「見える範囲」「知れる範囲」を決め、その枠を守らなければならない。
視点が変わるなら、章や番号で明確に区切る必要がある。
神様視点は万能ではない。
むしろ、物語を壊す最短ルートである。
読者の信頼、緊張感、没入感、そのすべてを失わせる。
小説で神様視点を使うのは、合戦のような例外はある。
それ以外に使うと文学賞では必ず、2次は通らない。
神様視点の例。
「ドアを開けると、窓が閉まった部屋は、暗闇だった」
この場合、窓が閉まってるかどうか、暗闇ではわからない。
つまり、窓が閉まってるかどうかは、神さましか知らないので、こういうのを神さま視点という。
こういう書き方をすると、文学賞の2次には絶対に通らない。
司馬遼太郎のような「余談ながら」のような書き方は、文学賞では使えないと覚えていただきたい。




