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「橘は、まだ背は伸びているか?」
二年生になって直ぐの部活開始前、井口先生から何気なく聞かれて「ほんの少しですが」と答えると、むずかしい顔をして何処かに行ってしまいました。なんだろうと思いながらも時間が迫っていたので追求もせずに、仮入部の後輩を連れてジャージ姿で学校の外周を走りに行きます。
実は、昨年の大量退部問題で仮入部期間を設けたのです。
スポーツにも力を入れていますが、本来は進学校ですから部活は強制されません。剣道を続けるのに、外部の団体で続けるのも悪い事ではないのですから。
ですから、仮入部とは言えども厳しく指導してもらっています。
今のところ脱落者はいないので、昨年の三年生が甘かったのであって、井口先生の指導が悪いわけでは無いと思っています。
「橘。ちょっと話があるんだが、今いいか? 一年生は武道場に行って、部長から指示を貰ってくれ」
走り終わって武道場に向かう途中で、保健室の窓から井口先生に声をかけられて、言われるままに保健室に入りました。すると、本来は居るはずの保険医は席を外していて、そこには井口先生しか居ないではないですか。
ベッドが視界に入って落ち着かない気分になる私は、男性教師と女子生徒が二人きりでいるのは良くないと思いつつも、軽く首を傾げて先生の言葉を待ちます。
「突然なんだが、練習メニューに筋トレを追加するか?」
「え? はい?」
「いや。もしかすると、背はこれ以上伸びなくなってしまうかもしれないし、体重は増加すると思うが……。もう一段、強くなれる可能性もあるんだ」
考えていた事とはいえ、突然の提案だったので混乱してしまったのです。
コンプレックスに触れてこられて公私の区別がつかなくなったのもあって、思わず常々考えていた事を口に出してしまいました。
「今のままの私では、貴方に釣り合いませんか?」
そこには、『強さにおいて釣り合うか』との意味だけでなく、『背を求めて弱いままでいる自分に、隣に立つ資格があるか』も含んでいます。後者は気付かれたくない、己の弱さ。
「——いや、十分すぎるほどだと思う。それでも、それだからこそ、お前の納得できる道筋を示してやりたい」
一瞬の間が後者を感じ取ったもので、怒られるかと思いました。それでも私の意図を十二分に理解したうえで、勿体ないくらいの言葉をかけてくれて、そっと近づいて優しく抱きしめてくれたのです。
それはほんの数秒ではあったけれど、温かくて幸せな気持ちにしてくれて、解かれた時の悲しみはどうしようもないくらい強く感じました。無理をさせてしまった罪悪感から、溢れそうになる涙を無理やり作った笑顔で誤魔化して、私は飛び出す様に保健室を逃げ出したのです。
あの人に無理をさせてしまった。そんな不甲斐ない自分が許せなくて、駆け足で階段を上りきると、屋上の踊り場で座り込んで声をあげずに泣きました。「早く泣き止んで部活に戻らないと」と思えば思うほど涙は止まってはくれず、腕を強く抱いて耐えようとする程、とめどなく頬を伝って零れ落ちてしまいます。
しばらくそうしていると、ふいに心が空っぽになってしまいました。
『腫れた目を先輩たちに見せたくないな。なにより先生に合わせる顔が無いもの。このまま、知らない所へでも行ってしまおうかな』
そんな事を考え始めて涙を拭いて振り返ると、階段に座り込んでこちらを窺っている人と目が合いました。泣いていたとはいえ、気配を感じない程に取り乱していたのでしょうか。
「少しは落ち着いた?」
そう声をかけてくれたのは美紀ちゃんで、そっと私の隣に腰を下ろして、私の頭を優しく抱え込んでくれます。
「保健室から出て来るところを見てさ。泣きそうな顔だったから保健室に駆け込んで、そこに居た井口先生を問い詰めたんだ。そしたら困った顔で『文句は後で聞くから。すまないが慰めてやってくれ』って言われてね。逃げるなよって言って追いかけてきちゃったけど、迷惑だったかな?」
どうやら、私が先生に何かされたと思っているようで、双方に申し訳ないです。
それでも、先生の誤解を解こうとすると関係を話さなくてはならないし、そこを隠していては怒りの矛先は向いたままになってしまうでしょう。そして私は、心底弱っていたのかもしれません。美紀ちゃんならば解ってくれるのでは、と考えてしまったのです。
「美紀ちゃん約束してくれる? これから話すことは絶対に秘密にするって」
「事と次第によっては無理。でも、沙織ちゃんが傷付いてしまうのは望まないよ?」
そう言って私の頭を抱えていた手を離し、真剣な面持ちで目を合わせてくれます。
「実はね」
そう前置きして、初めて会った時から井口先生が好きな事や中三の時に告白した事、先生がその思いを汲んでくれた上で学校を進めてくれた事を、誤解を招かない様に話していきます。
「それじゃ、今は恋人同士ってこと? もしかして浮気されたとか?」
「ううん。入学する前に『沙織が成人するまで恋人は持たない』なんて言ってきてね。だから、教師と生徒の関係を続けているの。それなのに……」
また涙が出てきてしまって言葉が途切れると、美紀ちゃんが優しく背中をさすってくれました。
「——さっき、私が弱さを見せて甘えてしまって。優しくされて切なくなっちゃってね」
「だったら乗り換えちゃったら? 翔真君とかさ。沙織ちゃんとだったら真理佳ちゃんだって許してくれそうだし、いつまでもブラコンじゃヤバいっしょ」
「でも。翔真君は自覚していない様だけど、真理佳ちゃんしか見ていないじゃない。何人かがアピールしていたけれど、気付いていない様だったわ」
そうは言ったものの、そもそも先生以外を好きになるなんて考えられない。何より、先生は私が成人するまで待つと言ってくれたのに、裏切って良い訳が無いと気持ちが否定します。
それでも私が解放してあげたら、先生は幸せになってくれるだろうか?
私がこの気持ちを諦めさえすれば、あの人は……。




