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本と魔法とふたりの私  作者: 但野 ひまわり
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                Ⅲ

 その日の夜、私たちは、巫女の寝所にある縦長の箪笥の中で声を殺しながらその時を待っていた。さすがに大人二人に猫一匹、影一体では窮屈極まりなかったが、何とか耐えていた。

(王族の印を失くしたと気付いた王子は、きっとここへ探しに来るに違いない)

 そして現れたその瞬間、王子と言う名の煌めく星が、限りなく、くすんだ物へと近づくのだ。

『ちょっと畑山、こんなことして本当に来るの?』

「えぇ、来ますよ。きっと」

『もし来なかったら?』

「その時は明日もこうするまでです」

 私がそう囁くと、ワタさんは面倒臭そうに息を吐いた。

「それと、ペパルさん。王子が現れたからといって、無茶しないで下さいよ」

『分かっている』

 王子にシャンシャンさんを連れ去られたと思い込んでいるペパルさんは、今にも暴れだしそうな雰囲気だ。体から怒りのが漏れ出ている。

『足音が聞こえます』

 玉砂利を踏む音が聞こえた。私たちがいる巫女の建物の前で立ち止まり、戸を開けて中に入ってくる気配がする。箪笥の扉に空いている小さな穴からどうにか窺ってみると、人影が辛うじて見えた。

『畑山、どう? 誰だか分かる?』

「んー。顔を隠しているようなんで、ちょっと分かりません」

 人影はすっぽりとフードを被り、首元に布のようなものを巻きつけているので判別は難しい。それでも何か見えやしないかと目玉を左右上下に動かしてみるものの、片目の筋肉がおかしくなるだけだった。そのうち、ペパルさんから代わってくれと頼まれたが、やはり見えないらしく、くそっと悪態を吐いている。

『これじゃ誰だか分からない』

『今度はワタシにも見せてよ』

 ワタさんが、背後からいきなりぬっと顔を出した。

「ちょっとワタさん、急に出てきたらびっくりするじゃないですか!」

 私は声を殺して抗議した。しかしワタさんは「ワタシにも見る権利はあるんだから」と主張する。

『皆さん、そんなに騒いだら……』

『誰だ!』

 ルビの忠告も虚しく、相手に私たちの存在が知られてしまった。

『こうなったら、堂々と出て行くまでね』

 誰のせいだと反論したかったが、この状況では仕方がない。私は勢いよく扉を開けた。

『誰だは、こっちのセリフだわよ!』

「あなたはジャン王子ですね!」

 相手は私とワタさんの登場に一瞬気圧されるように佇んでいたが、しばらくすると首に巻きつけた布を取り、フードを脱いだ。

『えっ』

「あなたは……」

 目の前の人物。

 それは行方不明となっていたジャンバラヤの巫女、シャンシャンさんだった。

『シャンシャン……どうして……』

 ペパルさんが、呆然とした顔をしながらゆっくりと歩み出る。しかしシャンシャンさんは、何故かペパルさんと視線を合わそうとしない。そして私とワタさん、ルビの顔を一人一人見ながらこう言った。

『あなたたちが持ってるんですね』

「え?」

『王族の印』

 どうしたものかと返答に困っていると、シャンシャンさんは懇願するように私の顔を見つめてきた。

『あれを返して下さい。印がないと、彼は王の後継者から外されてしまう』

「ちょ、ちょっと待ってシャンシャンさん」

 これは一体どういうことなのか、説明を促そうとしていた矢先、ペパルさんが声を荒げた。

『どういうことだ! シャンシャン、ちゃんと説明しろ!』

『説明も何も、そういうことよ』

 シャンシャンさんは、キッとペパルさんを睨みつけ、吐き捨てるようにそう言った。

『もしかして、修羅場ってやつ?』

「ワタさん、そんな呑気なことを言っている場合じゃないですよ」

 ペパルさんは、怒りから今にもシャンシャンさんに襲いかかりそうになっていた。そして「何かの間違いだろう?」と呟き、シャンシャンさんの方へ手を差し伸べながら歩み寄っていく。

『俺たち、結婚の約束をしてたじゃないか』

『そんな約束してないわ』

 シャンシャンさんはきっぱりと言い切った。

「え? そうなんですか?」

 呆気に取られる私たちの目の前で、ペパルさんの足が止まる。

『あなたはずっとそう。相手のことなんかちっとも考えないで、いつも自分本位』

「ちょっと待って下さい」

(ようやく会えたと思ったのに、いきなり愛する人からの別れの言葉。これではあまりにもペパルさんが可哀想過ぎる)

「あなたが踊り子になる際、挫けそうになったところを励ましたのは、ペパルさんなんでしょ?」

 しかしシャンシャンさんは、いいえ、と首を振った。

『それは逆です。踊りの練習で会う時間が少なくなると泣く彼を、励ましたのは私なんです』

 私とワタさん、そしてルビは、斜め前にいる男に冷たい視線を向けた。一方ペパルさんは落ち着きなく視線を泳がせている。

「ペパルさん。もしかして、自分の都合の良いように変えて伝えたんですか?」

(それが本当だとしたら、呆れてものが言えない)

 ペパルさんは図星なのか、しゅんと小さくなって誰とも視線を合わそうとしなかった。シャンシャンさんはペパルさんのそんな姿を見て、疲れたような重い息を吐いている。しかし、分からないことがある。

「ペパルさんに愛想が尽きたのは分かりましたが、どうして巫女であるあなたは姿を消してしまったんですか」

 私の質問に、シャンシャンさんは苦しそうに話してくれた。

 巫女の仕事に誇りと喜びを抱きながら、シャンシャンさんは務めを果たしていた。豊穣の催事前日、身を清めに行った泉から帰ると侍女は薬によって眠らされていた。代わりにその場に待っていたのは、数人の家来を従えたこの国の王だったのである。巫女であるシャンシャンさんの踊りに魅せられた王は、自分だけの為に踊り、歌い、祈ることをシャンシャンさんに迫った。

『なんて奴だ。シャンシャンを連れ去ろうとするなんて』

 自分のしたことを誤魔化そうとしているのか、ペパルさんは、これみよがしに王に対して腹立たしげに唸り出した。

『ちょっと、あんた黙りなさいよ!』

 だがワタさんがそれを遮り、先を促した。

『もちろんお断りしました。巫女は一人の為に存在するわけではありません。国の為に存在するのです』

 王は力ずくでシャンシャンさんを連れ去ろうとした。しかし、シャンシャンさんを守ろうとした者がいたのである。

『それが王子であるジャン様です』

 ジャン王子は以前から、巫女を自分の元に置きたいという父王の考えを悟っていたらしく、巫女が神への努めを放棄すれば、国の灯火は消えてしまうと何度も王に訴えていたらしい。

『しかし王は聞く耳を持たず、ついには実行に移してしまわれました。王の様子を窺っていた王子はその日を突き止め、後をつけられた。そして何としてでも王を止めようとて下さったのです』

 シャンシャンさんは胸に両手を当て、辛そうに目を伏せている。

 王は予想もしなかった息子の登場に驚いたが、少しの躊躇いも見せず、その刃を王子に突きつけた。肩に、胸に。王に逆らう者は、誰であろうと容赦しないというかのように。

シャンシャンさんは、自分を守ろうとしてくれた青年がこれ以上酷い目に合わないように王宮へ行くことを承諾したのだと言った。

『一命は取り留めましたが、ジャン王子は今も重体です』

「では、これはきっとその時、王の剣で飛ばされたんでしょうね」

 私が王族の印を見せると、シャンシャンさんは、ほっとしたように瞳を滲ませた。

『ジャン王子はいずれ王となられるお人。それにはこの王族の印が必要なのです』

 シャンシャンさんは王からの踊りの強要に答えながらもきっと、その傍らで献身的にジャン王子に付き添っているのだろう。彼を想う気持ちが私にも伝わってくる。

(私の手の中にある物が、彼女たちに必要ならば)

「シャンシャンさん。これ、お返しします。これはあなた、いや、ジャン王子が持ってないといけない物だから」

『ありがとうございます』

 シャンシャンさんが私の手から王族の印を受け取ろうとした瞬間、ペパルさんの手が強引にそれをもぎ取った。

「ちょ、ちょっと!」

『何するの!』

 ペパルさんは印を握り締めながら、驚くシャンシャンさんに微笑んでいる。それは愛情なのか、愛憎なのか、もはや分からない笑みだった。

『こんな物、君にはいらない。あいつにも渡さないよ』

『ちょっとあんた、何また子供みたいなことしてんのよ! この大馬鹿野郎が!』

 ワタさんの口から怒りの罵声が飛び出して行くが、私は反対にペパルさんを刺激しないように言葉を選んだ。

「ペパルさん、とにかく落ち着いて。そんなことしても何も解決しませんよ。だから、一旦それを床に置いてください。そっと、そっとです」

 しかし、シャンシャンさんの悲痛な叫び声が、私の言葉をかき消した。

『返して! それを返して! お願い!』

『君が僕の元に帰ってきてくれるなら、返してあげても構わない』

 シャンシャンさんが苦しそうに顔を歪める。

 彼女の心はとうに離れているのに、彼はその事実を受け入れようとしない。偽りの愛を手に入れても何も満たされない。虚しさだけが心を覆うというのに。

 私はねじ曲がってしまったペパルさんの心が憐れに思えた。

 シャンシャンさんは悩んだ挙句、視線をペパルさんに向けた。

『分かったわ。その印を返してくれるなら……』

『駄目だ。シャンシャン』

 突然聞こえた声に、全員戸口の方を振り返った。

『君を失うくらいなら、そんな物いらない』

『ジャン様!』

 そこには手負いの王子が立っていた。

 寝所からそのまま出て来たのか、白の上質な衣を身に纏い、琥珀色のローブを羽織っている。

 そんな物を着ていたら目立つじゃないかという野暮な疑問は置いといて、未だ癒えていない肩を辛そうに押さえ、体力が戻っていない体は息があがっていた。

『どうしてここに……』

 驚くシャンシャンさんの元に、王子は微笑みながら歩み寄った。

『君のことが心配で……。失ってしまった私の印のことを気にかけてくれていたから』

 シャンシャンさんの姿が見えなかったので、もしやと思い、ここへ来たと王子は言った。そして迷わずシャンシャンさんの手を取った。

 切れ長の目は柳の葉のように細く、美しい。そしてその下にある瞳はぶれることなく愛しい人を捕らえている。多くの言葉を語らずとも、その立ち居振る舞いには王子に相応しい才知の大きさが窺える。韓流スター並のしゅっとしたお顔立ちは、シャンシャンさんのみならず、年頃の女性であれば間違いなく好きになってしまうだろう。

『印のことはもう、いいんだ。父に歯向かった時点で私に息子の資格はないのかもしれないし』

『そんな……』

 微笑ましいような、目を覆いたくなるような光景に、私はペパルさんのことが心配になった。この現実を、彼はどのように受け止めるのか。私はちらりとペパルさんに目をやった。案の定、彼はわなわなと唇を震わせながら、王子とシャンシャンさんを眺めていた。

 よからぬことをするんじゃないかと心配だったが、目の前で繰り広げられる愛の展開も気になった。

『君を助けたこと、私は一切の後悔もしていない』

『ジャン様……』

 二人は周りを気にすることなく、そのまま見つめ合う。王子は愛しい人の髪を撫で、踊り子は無言で愛を伝える。悔しそうに二人を睨みつけていたペパルさんは、くしゃっと顔を歪ませ、王族の印を握り締めている手を振り上げた。

「ばぁっかもーん!」

 子供が癇癪を起こすようなペパルさんの行動に、私の堪忍袋の緒が切れた。ペパルさんの上に、親父のカミナリならぬ、怒りのイカヅチを落とす。

「何やってんのよ! あんたのやろうとしてることは、自分勝手なこの国の王と一緒! さっきあんたがなんて奴だって怒りを露わにした奴と一緒だって言ってんの! 酒が抜けてちょっとはマシな奴になったかと思えば全然変わってないじゃない! シャンシャンさんだけじゃなく、あんたを信じた私やワタさん、ルビ、街の人の気持ちを踏みにじってるって何で分からないの!」

『いや、でも……』

 突然、私の激しい怒りの雄叫びを浴びたペパルさんは、唖然と固まっている。

「でもじゃない! いい? あんたは振られたの! それもこっぴどく! 分かった? 男なら、その事実に向き合え!」

 荒ぶる鼻息と共に、私は一気に言い切った。周りも硬直したようにペパルさんと私を交互に見つめる。

ペパルさんはしょんぼりうなだれ、そして力を失ったように膝をついた。

『くっ……俺は……俺は……うぅっ』

 そして体を前に折り曲げ泣き出した。男の人が泣くところを初めて見たが、ペパルさんは情けないくらいにしゃくりあげながら、わんわん泣いていた。

『ったく、どうしようもない男ねぇ』

 ワタさんは腰に手を当てながら鼻で笑っていたが、影である体をぐんっと伸ばしてペパルさんに近寄ると、慰めるようにぽんぽんと背中を叩いた。優しいところもあるじゃないか、と私はワタさんのことを少し見直した。

『この坊ちゃんのことは任せてくれて構わないわ。畑山、あんたはその二人とちゃんと話をつけておいて』

 頼りになる言葉を残し、ワタさんは侍女の建物にいるからと言ってペパルさんが持っていた印を私に渡してくれた。そして影を伸ばしてルビと一緒にペパルさんを外に連れて行った。戸が閉まる時、私の足と繋がっているワタさんの体が挟まってしまうんじゃないかと心配したが、ぺらぺらした体はどんな隙間も大丈夫だった。私はそのまま印をジャン王子に渡した。

『ありがとう』

「これからどうするんですか」

 私の問いにシャンシャンさんが答える。

『私は巫女の役目を終えることにします。誇りを持って努めていましたが、どんな理由であれ、それを放棄してしまったのも事実ですから』

「シャンシャンさん……」

 巫女の仕事を途中で辞めなければならないことに、少し顔を曇らせ胸を痛めていたようだったが、シャンシャンさんは新たな目的を見つけたように顔を上げた。その瞳には、愛しい人が映っている。

『これからはこの方を助ける為、王子に仕えるつもりです』

 それがいいのかもしれない。王子もこんなにシャンシャンさんのことを気に入っているのだ。

『それは出来ない』

『えっ』

 しかしジャン王子の口から出たのは、意外な言葉だった。私もシャンシャンさんも、驚きを隠せなかった。

『シャンシャンを私に仕えさせるつもりはない』

 王子はそこで一旦言葉を区切り、真剣な眼差しでシャンシャンさんを見つめた。

『妻にするつもりだ』

『ジャン様……』

 私はその素敵とも捉えられるような、クサイとも捉えられるような言葉に、体の力が抜けそうになった。そして恋愛ドラマを間近で見ているような気分になり、思わず人気俳優がその台詞を言っているような錯覚に襲われた。きっとここで挿入歌でもかかっているに違いない。

「大丈夫なんですか、それで」

 私はシャンシャンさんを連れ去った王のことが心配になった。止めに入った息子に刃を向けたくらいだ。自分お気に入りの踊り子と結婚するなんて果たして許すだろうか。

 私の懸念を察するようにジャン王子が口を開いた。

『父はシャンシャンの踊りが好きなだけだ。私が妻に娶れば今回のようなことをしなくても、いつだって踊りは見れる。それに万が一反対したとしても、私の意思は変わらないし、変えるつもりもない』

 王子は決然とした顔をシャンシャンさんに向ける。

「でも……」

 王は逆上しないだろうか。

 今度はシャンシャンさんが私の心配を払拭するようにジャン王子に続いた。

『私もジャン王子が妻に迎えてくださるというお気持ちに答える為ならいつでも、どんな時でも王の前で踊ってみせます』

 愛とはなんと強いものなのか。

 人を愛する力は、時にどんな障害さえも乗り越える。私はその揺るぎない真っすぐな気持ちに寧ろ感動すら覚えた。自分が愛に対してこのような気持ちになったのは、果たしていつだっただろう。二人の姿は、味気のなかった私の心に淡く甘い赤みを生みだした。

『あの青年は……』

 王子は戸口の方を見ながら、申し訳なさそうに呟いた。ワタさんが連れて行ったペパルさんのことを、気にかけているようだった。

『シャンシャンの心を奪ったと、さぞ私のことを恨んでいるに違いない』

 それはジャン王子が悪い訳ではないですよと私が言うまでもなく、シャンシャンさんがそれを遮った。

『いえ、それは全て私のせいでもあります。私が勝手に王子のことをお慕いしてしまったから』

 今度はシャンシャンさんが、自分が悪いと言い始めた。

「あーそれは気にしなくていいと思いますよ」

 王子と巫女の間で、終わりのない罪のなすりつけならぬ、罪の認め合いが始まりそうだったので、私が話を引き取ることにした。

「人の心は移ろいやすい物。それがそぐわない物であれば尚更のこと。魅力的な物に惹かれるのは人の常です」

 賢人のようなことを言ってしまった自分に少し可笑しくなったが、無理矢理人を好きになることは出来ないし、ましてや嫌いになることなんて出来ないのだ。

『旅の方、ありがとうございます』

 王子と踊り子は二人して感謝を述べた。

私のような一般市民に一国の王子が頭を下げてくれるなんて、ジャン王子の誠実さに、私の方が頭が下がる思いだった。

「さぁ、体に障りますよ。それに傷を負っている王子がいなくなったとなればそれこそ王宮で大騒ぎになるんじゃないですか? 早く戻った方がいいですよ」

『ありがとう。本当にありがとう』

 王子と巫女は、ジャン王子が乗ってきた馬にまたがると、もう一度お礼を言って帰って行った。

 私は二人を見送った後、ワタさんたちがいる侍女の建物に向かった。そこでここへ来た時にはいなかった馬が、建物の脇に一頭繋がれているのが目に入った。首を傾げながら中に入ると、奥の寝所にあるテーブルの上で、ペパルさんが突っ伏していた。その脇にワタさんと見知らぬ女性が座っている。ルビはその女性の膝で丸まっていた。私に気づくとルビは開口一番、二人の様子を尋ねた。

『あっ。畑山さん、どうでした?』

「ペパルさん、寝てるの?」

 私が突っ伏しているペパルさんを窺うと、ルビは「はい」と頷いた。隣でワタさんが困ったように愚痴を吐く。

『もう大変だったわよ。あの後荒れちゃって。しょうがないからこの子に頼んでムレルの酒場からお酒を持ってきてもらったのよ。あの状況なら、強いお酒を飲ませて眠らせるのが一番!』

(だからこんな格好になっているのか)

「でも酒場まで遠くなかったですか?」

『馬に乗れば直ぐですから』

 ルビを膝に乗せた女性は、はにかみながら答えた。

(なるほど、馬はこの人の物だったのか。でも一体この人は……)

 尋ねると、女性はあたふたと慌てながら、身を正した。

『申し遅れてすみません。私はここで巫女のお世話をしている者で、メルといいます』

 そう言ってメルさんは、恥ずかしそうに顔を赤くしながら会釈した。話すその仕草は女性というより、少女のような可愛らしさがあった。

『巫女が戻って来ますようにって、朝、昼、晩とここに通っていたそうよ』

 巫女がいなくなってしまっても、毎日三回ここへ出向き、掃除のみならず巫女の無事を神に祈る。凄いですねと感心の息を漏らす私にメルさんは、髪を後ろで一つに束ねた頭を振りながら「とんでもないです」と謙遜していた。その姿には清潔感があり、侍女という仕事を真摯な態度で務めていることが窺えた。

『社でお祈りをしていたら、隣から声が聞こえてきて』

 何事かと社から出たところで、ペパルさんを介抱しようとしたワタさんと、ルビに会ったようだった。

『メルさんは、シャンシャンさんが王に連れ去られたことに驚いていましたが、僕たちに協力してくれました』

 私がここに来るまで、ワタさんたちとペパルさんを介抱してくれていたらしい。

「あなたがメルさんですか」

『そうですけど、あの……。どうかしましたか』

「いや、シャンシャンさんが、あなたのことを話していたんです」

 巫女になったばかりのシャンシャンさんを、影ながら支えたのがメルさんだと聞いた。侍女の仕事自体も大変だったろうに、そんなことは微塵も見せず、身の回りの世話はもちろん、時には悩むシャンシャンさんと一緒に考え、励ました。

 シャンシャンさんが、本当によくしてくれたと言っていたことを伝えると、メルさんは嬉しそうに顔を綻ばせた。

『それで、どうだったのよ』

 二人の結末を知りたいワタさんが急かすように先を促す。私はペパルさんが眠っているのを確認してから二人のことを切り出した。

「結婚するって言ってました」

 ワタさんは聞きながら「そっか、そうだわよね」と呟いた。

『にしても、この男は最後まで無様な姿を晒したもんだわ』

 容赦ない強さでペパルさんの頭を叩くワタさんの音に、彼が起きてしまわないかと心配したが、ぴくりとも動かなかった。

「ペパルさんもきっと、本当にシャンシャンさんを愛していたんでしょう。だからこそ歪んでしまったんじゃないかな」

 私の顔をちらりと覗いたワタさんは、面白い物でも見るようにふふんと鼻で笑った。

『畑山のくせに、一端のことを言うのねぇ』

「畑山のくせにとは何ですか。畑山のくせにというのは」

 ワタさんの言い方には少し引っかかった。私はこう見えてもれっきとした三十路である。これまで身を焦がすような恋愛だって、心を削られるような失恋だってしてきた。影であるワタさんとはそこが違うのだ。

『それにしても思い出すわぁ。カゲオとの恋』

「カゲオ?」

 突然ワタさんは、頬に手を当てて遠くを見つめ始めた。その瞳は誰かに対して思いを馳せているように見える。

『そう、カゲオ。カゲオは、カゲロウとカゲヒコ、カゲヤとワタシを取り合ったのよねぇ』

 もはや虫の名前にしか聞こえない。

『カゲオは他の男子たちと違って、影が濃かったのよ。そこに惚れちゃった』

(影に濃い薄いがあったのか)

 影の恋愛事情に驚いた。

『でも、カゲロウのことも、カゲヒコのことも好きだったから、辛かったわ。それにカゲヤも捨てがたかったし』

 ワタさんの恋愛歴は呆れる要素満載である。

『それにしても国民には、どう説明するつもりなのかしら。みんなは巫女が消えたと思っているんでしょ? まさか国王が連れ去ってたとは言えないし』

「さっき、そのことについても二人で話をしました。シャンシャンさんは連れ去られたとは言え、その務めを果たせなかったことに責任を感じ、巫女の座を降りると言っています」

 ペパルさん以外のその場にいる全員が、私の言葉に驚いていた。特にメルさんは、その事実に言葉を失ったように絶句している。

「だから、次の巫女を早急に決めなければならない」

『そんなこと言っても、どうやって決めるのよ』

 それはシャンシャンさんから教えてもらった。

「巫女の後継者は、神のお告げに基づいて、巫女自身が決めるそうです」

 巫女になったその日に、次の代にはこのような女性を選べと神からの信託が降りるそうだ。そして巫女は、その務めが終わるその日までに踊り子の中から次の巫女を心の中に決めておくらしい。

「シャンシャンさんは志半ばで巫女の役目を終えますが、その心には既に次の巫女となる女性の名前が宿っていました。それはメルさん、あなたです」

『わ、私が……?』

 メルさんは、驚きのあまり言葉が続かないようだった。その瞳には不安が浮かんでいる。いきなり一国の象徴でもあるような巫女の座に就けと言われて、はい、分かりましたと即答できるはずもない。私だったら、はい、無理ですと即断していたことだろう。

『わ、私にはそんな大役、務まりません』

 私は断るメルさんに、シャンシャンさんから伝え聞いた話を語った。

「あなたも以前は巫女を目指して踊り子をしていたとか。先代が選んだのはシャンシャンさんでしたが、今度はあなたが選ばれたんですよ」

 だがメルさんは、なかなか首を縦に振ろうとはしなかった。しかし思わぬところから声がかかった。

『メルの踊りは保証するよ』

 そう言ったのは、今までテーブルに突っ伏していたペパルさんである。いつの間にか体を起こして顔を上げていた。

『ちょっと、いつの間に起きてたのよ』

 ワタさんの問い掛けに、ペパルさんは『最初からだ』と答えた。

「えっ。最初からですか?」

 ということは、シャンシャンさんと王子の結婚話を聞いていたということになる。私はペパルさんが再び嫉妬の炎に燃えないかと彼の顔を窺った。

『心配しないでくれ。俺はもう、そんな元気はないんだ。俺の恋の炎は灰になってしまったから……』

 少し演じているような素振りが気になったが、寂しそうに語るペパルさんは、余計な力が抜けて落ち着きを取り戻したようにも見えた。

『でもあんなに強いお酒を飲んだのに、よく目が覚めましたね』

 不思議そうに尋ねるルビに、ペパルさんは、いやぁ、と頭をかきながら答えた。

『良かったのか、悪かったのか、毎日強めの酒を飲んでたから、これくらいの酒はすぐに抜けるんだよな』

『まぁ、自慢にはならないわよねぇ』

 ワタさんはそう言いながら、呆れるような視線を送った。

「それより、メルさんの踊りを保証するってどういう意味ですか」

 私が先を促すと、ペパルさんはメルさんを見ながらこう説明した。

 メルさんは、シャンシャンさんが巫女に選ばれた時、同じように先代の目に留まっていた。結果、先代はシャンシャンさんを選んだが、その踊りはシャンシャンさんに負けずとも劣らないくらい見事なものだったらしい。

「メルさん」

 私が彼女の方を見ると、メルさんは一点を見つめ、遠慮がちに口を開いた。

『確かにあの時、私もシャンシャンと一緒に先代に呼ばれてここに来ました。先代がもう一度踊りを見て巫女を決めたいとおっしゃったからです』

 メルさんは、思い出すように語り始めた。

『シャンシャンの踊りは素晴らしかったぁ。本当に素晴らしかった。もう、目のみならず、心を奪われたんです。でも、それと同時に確信したんです。私の力量では巫女になれないと。……だから、私にはそんな大役……』

 だったらどうして巫女の世話をする侍女に志願したんだろう。侍女の職は、ほとんど踊りが出来ない人たちが就くものだと聞いた。メルさんは、巫女に何かしらの未練があったからじゃないだろうか。そう思いながら彼女を見ると、メルさんは両手で膝上の服を握りしめていた。

「メルさん。このまま巫女不在では、この国の灯火は消えてしまいます」

 しかし、メルさんはじっと黙ったままだ。

『自信持てよ。お前なら出来る』

『さっきまで死んでた人が、なんだか偉そうねぇ』

 ワタさんはペパルさんを真横で見ながら鼻で笑った。

『べ、別にいいじゃないか。俺は先代が次の巫女を選んだその場にいたんだから、事実を言ってるまでだ』

「ペパルさん、その場にいたんですか?」

 驚く私にペパルさんは、あぁと頷いた。

『俺は、祭事の時に演奏をする楽団員の一人だからな。先代が二人の踊りをもう一度見たいとおっしゃったから、俺たち楽団員も立ち会ったんだ』

 ここまでいいとこなしのペパルさんが、そんな活動をしているとは意外だった。

『だから、メルの踊りはこの目で見た。メルの踊りは最高だった。内心、メルが選ばれるんじゃないかと思ったくらいだ』

 ペパルさんの褒め言葉にメルさんは恐縮していたが、私は改めて尋ねてみた。しかしメルさんは、俯いたままだ。

『でも……私にはその資格はありません』

『ちょっとあんたねぇ、これだけみんなが言ってるのに』

 苛立ちを募らせるワタさんを制し、私はメルさんの顔を見た。

「どうしてですか? 何か問題でも?」

(ここまで頑なに断るのには、何かしら特別な理由があるのかも知れない)

 私は邪魔をしないようにワタさんの口を片手で抑えながら、彼女が話してくれるのを待った。メルさんはしばらく黙っていたが、重い口をゆっくり開き始めた。

『私……巫女がいなくなったあの日、巫女が浄めの泉から戻る前に居眠りをしてしまったんです。ちゃんと巫女が眠りに就くまでお世話をしないといけないのに……。その間にシャンシャンは……。だから、私にはその資格はないんです』

 シャンシャンさんがいなくなってからというもの、メルさんはずっと自分を責め続けていたに違いない。どれだけ人の心に暗い影を落としたのか分かっているのだろうか。今更ながら、自分勝手な国王に腹が立った。

「メルさん、それは居眠りじゃないんです」

 メルさんはその意味が分からず、首を傾げる。

『メルは、薬を嗅がされたんだよ』

 ペパルさんの説明に、メルさんは驚いたように目を見開いた。

『えっ……それじゃぁ』

『そ。あんたは居眠りじゃなくて、無理矢理眠らされたの』

『だから、巫女になれないなんて言わないで』

 ワタさん、ルビもメルさんに声を掛けた。

「事実はそういうことなんですが、メルさん、どうしますか?」

 メルさんは再び俯いて、じっと何かを考えているようだったが、小さいながらも決意めいたような声でこう言った。

『私……やります』

 私たちは歓喜とも、安堵とも取れる息を吐いた。

『俺もついてるから、安心しろ』

『ちょっと! 何もう他の女に切り替えてんのよ!』

 調子に乗るペパルさんに、ワタさんが容赦なく噛み付く。

『ち、違うよ! 俺だって、いつまでも情けない男のままじゃ駄目だと思って!』

『へぇ~え?』

 ワタさんは、どこまでも冷たい視線をペパルさんに送った。

『ほ、本当だって!』

 騒ぐ二人を置いといて、ルビがぴょんと私の前に飛び出した。

『でも畑山さん、巫女がいなくなっていた事実はどうするつもりですか?』

「国の人たちを混乱させることは出来ないから、本当のことは言わない方がいいと思う。だから、神の信託を受けてシャンシャンさんは次の巫女を選ぶため、人知らず籠っていたことにするわ。神様もそれぐらいの嘘なら許してくれるでしょ」

 ルビは私の提案に、なるほど、と頷いてくれた。

「今日はもう遅いから、明日王宮へ行って、このことをシャンシャンさんに伝えましょう。そして正式に巫女の継承を行ってもらうんです」

 メルさんは戸惑いながらも、今度は力強くはいと答えた。

「そうと決まればムレルの酒場まで戻ろう。で、あの二人、まだ言い合ってんの?」

 視線の先では、ワタさんとペパルさんの攻防は依然続いていた。

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