情熱の国 ジャンバラヤ Ⅰ
『ジャンバラヤは暑い国ですが、空気はからっと乾いていて、そよぐ風も心地良いですよ。そして国を愛する心はこの世界でも一番ではないでしょうか。おまけに皆優しい』
ルビはジャンバラヤについてそう教えてくれた。
(きっと派手な衣装を身につけたお姉さんたちが小麦色の肌をきらめかせ、腰をフリフリ出迎えてくれるに違いない。そして南国の花で出来たレイを首にかけてくれ、『オウ、ヨクキタネ!』と歓迎のキッス。日本人はあまり得意な行為ではないが、これは快く受け入れなければならない。さらに見たこともない美味しそうな果物や珍しい料理が並び、それを……)
『ちょっと畑山。何だらしない顔してんのよ』
「へ?」
その言葉に私ははっと我に返った。
(もう少しでご馳走を食べられるところだったのに、惜しいことをした)
ワタさんは、残念そうな私の顔を見ながら、呆れているようだった。
『何だかんだ言っても畑山の神経も大したもんね。こんな状況でもお腹が空くんだから』
「そうですか?」
褒められているのか貶されているのか分からなかったが、私は昔からどんな時でも三食きっちり食べる子だった。そんな中、前を歩くルビが足を止めた。
「どうしたの?」
『そろそろ街が見えてきてもいいはずなのに、おかしいですね』
ルビは左右に目をやりながら何やら警戒している。あれからかなり歩いては来たが、確かに周りには同じような景色が広がるだけだった。
「何か、急に」
霧が出て来た。まるで意地悪をするように私たちの視界を徐々に遮り始める。そして周りが霧のカーテンで完全に覆われてしまい、何も見えなくなってしまった。
『ちょっと、何これ。こんなの聞いてないわよ』
ワタさんは両手を腰に当て、霧を見ながら目を吊り上げている。
『恐らくゼロムの仕業です。いきなり仕掛けてきたか』
ルビは全身の毛を逆立たせ、警戒を強めた。私はというと、ただおろおろしていた。
「どうするの。これじゃ前に進めないよ」
とてもじゃないが、濃密な霧の中を無理やり進むことなんて出来ない。その上この霧のカーテンは、左右遥かに長く伸びているので道を変えて進むことも出来なさそうだ。
ルビはしばらく難しい顔で霧を眺めていたが、
『大丈夫です。安心してください』
と私に、きりりとした顔を向け、霧に近づきその表面を前足でちょこんと触れた。
すると、
「うわっ」
霧の表面に文字が浮かび上がったのである。
そこには、
獣道が終わりに近づくにつれ、周りの空気が熱を帯び始めた。しかし不快なものではない。その心地よさを味わいながら更にに歩を進めると、視界に一国の街並みが見えた。それは国民の情熱を表すように太陽の光を浴びた建物が賑やかに立ち並び、喜びを分かつように歌い、笑う声が聞こえる。
と書かれてあった。
「ルビ、これは?」
『僕の肉球には、オラクルが生前使っていた万年筆と同じ色のインクが配色されています』
上げた両前足から可愛らしい肉球が見えたが、左足が桃色に対し、右足は黒かった。
『そのインクを使って彼が書いた文章を呼び起こしました。畑山さん、これを読んでジャンバラヤの街を想像して下さい。そうすれば、あなたの描くジャンバラヤが姿を現すでしょう』
そんなことを言われても、このかた十数年と本は読んでいないのである。文字や文章も精々新聞のテレビ欄に目を通すぐらい。読解力なんて地に落ちているだろう。
私が躊躇っているとワタさんと目が合った。口は開かないが、その目は、
やれ。
といっている。
影絵のような瞳で睨まれた私は、半ばべそをかきながら浮かび上がった文章を読んでみた。
「……」
だが、何も起こらなかった。
「やっぱり駄目だ……。文章が頭の中に入って行かない」
それに文字を追うことに目が慣れてないから、次を読んでいるつもりが同じ行を読んでいたりする。今更ながら自分の頭の良さにがっかりした。そんな私にワタさんが怒鳴りつけた。
『畑山、あんた何やってんのよ! さっき、あんたがだらしない顔してた時みたいに、頭の中で想像するのよ!』
「想像……そうか」
私は目から鱗が落ちた。
今までそこに書かれている文字、文章を読むことに精一杯で、その中にある情景や風景、人々のことを想像するにまで至っていなかった。私がしていたのは、ただ文字の羅列を読んでいただけだったのだ。
私はもう一度文章に目を落とし、想像しながら読み進めた。
歩いている獣道。
徐々に変わる空気。
街とそこに住まう人々。
それは私の中で生きた物として描かれた。
「あっ!」
私が想像しながら読み進めると霧は嘘のように晴れていき、再び道が見え始めた。視線の先には薄らと街らしきものも見える。
『畑山、よくやったわ!』
ワタさんはそう言って褒めてくれたが、影が顔を近づけてにまっと笑うと正直怖かった。
『畑山さん、頑張りましたね』
ルビが私に歩み寄り、にっこりと笑ってくれたので、先ほどの恐怖が少し癒された。
「私、ちゃんと出来たんだね」
言いながら、つい、涙ぐんでしまった。本当に自信がなかったのだ。
『畑山さんは、れっきとした読者ですよ。ちゃんと文章を元にイメージ出来たんですから』
ルビの言葉に救われた。ルビが人間だったら危うく惚れてしまうところだった。
『これで、畑山さんが心の中で描いた通りのジャンバラヤが見えるはずですよ』
私たちは頷き合い、情熱の国へと足を進めた。
獣道が終わりに近づくにつれ、周りの空気が熱を帯び始め……なかった。
『ちょっと、どうなってんの? 熱を帯びるどころか、どんどん寒くなってきているような気がするんだけど』
確かにワタさんの言うように、街が近づくにつれて薄ら寒い空気が漂っている。
「イメージの仕方が悪かったのかな」
自分の読解力に不安がよぎったが、それはすぐにルビが否定してくれた。だがルビも首を傾げる。
『ゼロムの仕業というより……。僕たちには分からない、何かの力が働いているとしかもしれません』
『何よその力って。ゼロムだけでもうんざりなのに、この上また面倒なことが起きるっていう訳? 悪いけど、そんなのはご勘弁。あんたのその肉球でちょちょいと出来ないの?』
『僕は案内猫です。迷わないように導くことは出来ても、直接物語を変えることは出来ないんです』
『使えない猫ねぇ』
ワタさんは呆れたように大きく息を吐いた。彼が悪いわけでもないのに「すみません」と頭を下げているルビを不憫に思いながら歩き進めていると、ようやく街に着いた。建物は太陽の光を浴びずにどんよりと佇み、喜びを分かつ歌も声も聞こえない。情熱どころか、どこか寒々しい印象を受けた。
私は、すっかり冷えてしまった両手をジャージのポケットにいれ、身を縮こませながらルビに尋ねた。
「ねぇねぇ、ここってこういう設定になってるの?」
ルビは「いいえ」と首を振った。
『こうなると、鍛冶屋の青年ペパルが情熱の踊り子シャンシャンを助け、この国の発展を共に担っていく、というお話も、どうなってるのか分かりませんね』
ルビは『ともかく行ってみましょう』と言いながらどこかを目指して歩き始めた。私たちもそのあとに続いたが途中すれ違う人たちは、何故か皆覇気がなく笑顔もなかった。
お目当ての建物に着いたのか、ルビが足を止めた。そこは店の様相をしていたが、とても商いをしているとは思えなかった。扉は固く閉ざされ、窓も雨戸がしっかりと下ろされている。ただ鍛冶屋の絵を描いた看板だけが、扉の上でキィと音を立て、寂しく風に揺られているだけだった。
『ペパルさん、いますか!』
ルビが呼んでみたが返答はない。
『ペパルさん!』
『何だい、騒々しいね』
声を聞きつけ、隣の建物からふくよかな女性が出て来た。
店の女将らしいその女性は『肉屋のブング』と書かれたエプロンを身につけ、片手には出刃包丁を握っている。どこの誰だか分からない私たちを怪しんでいるのか、女将は怪訝な顔をしていた。
『僕たちペパルさんの友達なんですが、久しぶりに訪ねたら留守らしくて。ペパルさんがどこにいるのか知りませんか?』
ルビの丁寧な姿勢に警戒を解いたのか、店の女将は険しい顔を緩めた。
『また酒でも飲みに行ってるんじゃないのかね』
「お酒?」
私の問いに、女将は「あぁ」と頷いた。
『シャンシャンがいなくなってから、あの子はロクに仕事もしなくなった。亡くなった親父さんから受け継いだ店も、あのざまさ』
そして半ば呆れるように、二重顎の先でペパルさんの店を示した。
『まぁ、気持ちは分からないでもないけど、あのままじゃぁ、あの子はダメになっちまうだろうね』
女将の説明によると、
踊り子のシャンシャンさんは、神に仕える巫女としてその仕事を担っていた。新年を迎える時には豊穣の祈りを込めて激しくサンバを踊り、一年が終わると感謝の気持ちを表すようにゆったりと舞を踊る。それは国王も見守る国の大きな祭事の一つであり、王宮前のペスカ広場で毎年行われていた。楽団員たちは太鼓や楽器をその手に取り、魂を込めた旋律を奏でる。街の人々は音と共に巫女と一緒に体を動かし、祈りを捧げる。そうやって喜びを分かち合うらしい。
(そんな国にとって宝物のような存在である巫女が、どうしていなくなるんだろう)
私の疑問に女将は顔を曇らせながら続けた。
その日新年を迎えたジャンバラヤは、いつも通り豊穣の踊りを捧げることになっていた。しかし時間になってもシャンシャンさんは現れない。国王は賓客席で、人々はあちらこちらでざわざわと騒ぎ始めた。大臣が兵士に命じ、巫女の住居である新宮へ確かめに行かせたが、そこにシャンシャンさんの姿はなかった。その後どこを探しても、巫女を見つけることは出来なかったという。
『あたしにゃ、さっぱり分からないよ』
女将は言いながら肩をすくめた。
「もしかして巫女の仕事が嫌になったとか」
『それは有り得ないね』
私の言葉に女将は力強く、そしてきっぱりと否定した。
『ジャンバラヤに踊り子はたくさんいるけど、巫女に選ばれるのはたった一人。国王や国民から愛され、神の使いとして崇められる。巫女に選ばれるっていうのはそれくらい特別なことさ。だから娘たちは巫女に憧れて踊り子になる』
それに、と女将は付け加える。
『シャンシャンは踊り子の中で、誰よりもその仕事に誇りを持っていたんだ。そんな子が巫女の仕事をほっぽり出すなんて考えられないよ』
シャンシャンさんがいなくなってから一週間。巫女がいなくなったと同時に街は活気を失い、人々から喜び笑う顔が消えてしまった。そして情熱のように暑かった気候は一転、気温は上がらず身を縮めるほどの寒さが漂うようになった。他の踊り子たちが必死になってその役を努めようとしたが、巫女の代わりは出来なかったらしい。
『巫女がいなくなるなんて、今まで聞いたことがない。何か神様のお怒りにでも触れちまったのかねぇ。私はペパル、シャンシャンのこともそうだけど、この国のことも心配だよ』
重い息をたっぷり吐くと、女将は哀れみの目で隣の家を眺めた。
『シャンシャンはペパルの幼なじみでね。そりゃぁ、周りが羨むくらい仲が良かったさ。それなのに突然いなくなっちまって……。あの荒れようったら、見てられないね』
改めてペパルさんの家を眺めてみた。至る所に埃がかぶり、人が住んでいるような雰囲気さえ感じられないほど、何も手入れがされていない。きっと自分一人の家に帰っても、悲しみが深くなるだけだからだろう。心の悲鳴を何かで誤魔化していないと、絶望に支配されてしまうのかもしれない。
『ペパルに会いたいんだったら、この通りをあっちに抜けて左に曲がるとムレルの酒場がある。一日のほとんどをそこで過ごしてると思うから、行ってみるといい』
私たちは、女将にお礼を言ってその場を離れた。
『それにしても情けない男ねぇ、そのペパルって奴は。女が逃げたくらいでさ』
ワタさんの呆れたような口ぶりに、私は思わず待ったをかけた。
「何もそんな風に言わなくったって。それだけその人を想っていたってことでしょ。」
『そんなもの、いつまでもうじうじ考えてたって解決するものじゃないわ』
私はワタさんの言い方に少し腹が立った。その人の想いが強ければ強いほど、悲しみだって強くなる。ワタさんの心は何度も立ち向かっていく勇敢な戦士のように強いかもしれないが、硝子細工のように脆い人だっているのだ。
『ともかく、ペパル青年に会いに行きましょう』
気まずい空気になりそうだったが、割って入ったルビの言葉に、私たちは再び歩き始めた。
しばらくすると、女将が教えてくれた通り、民家の間に突っ立つそれらしき建物が見えた。
『あそこみたいね』
街一番の飲み屋【酒場ムレル】
二十四時間営業の店は毎晩人で溢れ、笑いが絶えない酒場らしい。
店先に重ねてある酒樽の影から覗いてみると、扉が開いたままの店内は昼間だからか客はまばらで、幾つかの円卓には空席があった。
「ペパルさんがこの中にいるのかな」
『いらっしゃい!』
店内を眺めていた私たちに、店員らしき男が声を掛けて来た。手ぬぐいで頭を縛った前掛け姿の店員は、私たちひとりひとりを見ながら人数を確認する。
『お客さん、三名さんかい?』
さすがこの世界の住人。ワタさんやルビを見ても驚かなかった。
「あの、ペパルさんはいますか?」
『ぺパル? あぁ、今日は来てないな』
店員は一度店内を見回した後、そう言った。
『でもまぁ、ほとんどここでやけ酒飲んでるから、そのうち来ると思うぜ』
「そうですか……」
仕方がないので私たちはペパルさんが来るまで、お腹を満たしておくことにした。
私とワタさんは空いている席に座り、ルビはそのまま床に座って毛繕いを始めた。メニューを開くとさすがに暑い国だけあって、辛そうな料理がたくさん載っている。
『せっかく来たのに肝心のペパルがいないなんて』
「そのうち、きっと来ますよ」
不服そうなワタさんは、舌打ちをしながらメニューを眺めた。
『この炎のマーク、何かしら』
そのマークはメニューによって個数が違っている。
「あぁ、これきっと辛さの度合いを表しているんだと思いますよ」
『ふーん。じゃぁワタシはこれにするわ』
「えっ。ワタさん食べるんですか?」
(影の分際で、いや、影なのに食事を摂ろうとするなんて、内臓器官はどうなっているんだろう)
素朴な疑問が私の中に浮かび上がった。しかし私の影は、さも当然だと呆れる視線を送って来る。
『何言ってんの。あんた、ワタシを餓死させる気?』
「いや、そういうつもりではないんですが……」
『つべこべ言ってないで、さっさとこれ注文しなさいよ』
「え! 本当にこれにするんですか?」
私が驚くのも無理はない。そこには、燃え上がるような炎マークが五つ並んでいたのである。
『ワタシ、辛い物大好き、だ・か・ら』
ワタさんは色気を含んだウインクで答えた。私は気づかない振りをした。
『あっ。僕辛いのは苦手なんで、あっさりした物をお願いします』
結局ワタさんは揚げ豆腐の唐辛子炒めを注文し、ルビは魚の素焼き、私はお腹が空いていたので肉春巻きとチャーシュー麺を頼んだ。
『それにしても、ペパル青年が仕事も投げ出すくらい荒れる生活を送るなんて』
毛繕いを終え、艶が増した体を煌めかせながら、ルビが信じられないというように首を振る。
『彼は真面目で働き者。それに周りからの信頼も厚い青年なんです』
更に、ルビはこう力説した。
踊り子になって間もない頃、何度も挫けそうになるシャンシャンさんを励ましたのはペパルさんだった。そんな彼の優しさに、彼女も次第に心惹かれていった。継承の儀を前に先代が亡くなり、その悲しみから街は灯火を失ったようになってしまったが、ペパルさんの働きでシャンシャンさんが巫女の想いを受け継ぐことに成功し、街は再び息を吹き返した。そんな二人に王は自身に変わって国を担うよう、二人を王宮に迎えるのだった。
「そうだったんだ……」
女将に聞いた話とルビから聞いた物とではまるで別人だ。これは実際に会ってみないと分からない。ルビも足元で考え込んでいる。
『物語が変わっているなんて……。もしかしたら、本の力が強まっているのかもしれません』
『はーい、お待たせぇ!』
ルビが途轍もない不吉な言葉を口にしたが、運んで来た店員の大きな声で私たちの意識は料理の方へと向いてしまった。
『熱いから気をつけて食べてくれよ!』
器からは、湯気がほかほかと立ち上り、お腹の虫を刺激する匂いが鼻をくすぐる。ルビも目の前の御馳走に舌なめずりをしていた。
「ともかく食べますか」
ワタさんもルビも頷き、私は早速肉春巻きを口の中に入れた。
「んーっ!」
噛めば中から肉汁が溢れ出す。一緒に巻いてある筍の歯ごたえと、もやしのシャキシャキ感がたまらない。揚げてある衣はぱりっとしていて音でも楽しめる。
私は続けてチャーシュー麺に箸をつけた。
分厚いチャーシューはお箸で切れるほど柔らかい。口に入れるとほろほろと解れ出し、肉の旨みが口いっぱいに広がる。麺は縮れ麺で濃厚スープとよく絡まり、つるっとしたのどごしが最高だった。
『これってどんな味がするのかしら』
大絶賛しながら料理を食べている私の隣で、ワタさんは自分が注文した料理を難しそうな顔をしながら眺めていた。つられて視線をやった私は、ワタさんの前に置かれた料理の色にぎょっとした。それは揚げ豆腐の面影も何もない、真っ赤な色をした何かだった。
(相当辛いに違いない。いや、相当体に悪いに違いない)
ワタさんは躊躇いなくぽいっと口に放り込むと、もぐもぐと咀嚼し、ごくんと呑み込んだ。
「大丈夫ですか?」
ワタさんは私の声が聞こえていないのか、遠くを見つめ「ほう、」と幸せに満ちた顔をしている。
『あぁ、この揚げ豆腐の香ばしいこと。衣はサクサクなのに、中はふわふわ。大豆の甘みも強い。それに唐辛子が程良く効いていて料理の味に絶妙なアクセントを出している。見た目とは全然違う丁度いい辛さが……』
と言ったところでワタさんが固まった。
「ワ、ワタさん?」
返事はない。
「ワタさん、大丈夫ですか! ぶぉっ!」
ワタさんの口から、いきなり炎が噴き出した。幸いそれを避けることが出来たが、一歩間違えば黒焦げになるところだった。
『畑山さん、大丈夫ですか!』
ルビが私の椅子に前足を乗せ、心配そうに見上げている。
「ちょ、ちょっと! どうなってるんですか、これ!」
私がクレームの叫び声を上げると、店員が「どうかしましたか」とやって来た。
「ワタさんが、いきなり炎を吹き出したんですけど!」
『あぁ、このお客さんが注文した物はね、美味しさと辛さのあまり炎が五回出てしまう料理なんだよ』
何て危ない料理をお客に出しているんだと思ったが、店員は気にする様子もなく「ごゆっくり」と言って厨房に戻って行った。今もぼうぼうと炎を出しているワタさんの姿は、もはやゲームに出て来るモンスター以外の何者でもなかった。
『何か今日は騒がしいな』
そんな中、すらりとした背の高い男が入って来た。しかしその目はどこか虚ろで、気力のない顔をしている。
「もしかして、あの男がペパルさん?」
私が足元に囁くと、ルビが頷いた。
男は店員に「いつもの」と告げ、空いている席にどかっと腰を下ろした。そしてふてくされるように周りを眺めては、近くにいる客に文句を言っている。彼を憐れむような顔が、気に入らないらしい。
(ワタさんの言葉を肯定するつもりはないが、愛しい人が突然いなくなったとは言え、あの荒れようはどうだろう)
私とルビは、炎を吐き終えたワタさんと一緒にペパルさんがいる席へ向かった。
『何だ? 何か用か』
ペパルさんはこちらを一瞥しただけで出された酒を煽っている。私が何と声を掛ければいいのか躊躇っていると、隣から容赦ない声が飛んで来た。
『そんな飲み方してんじゃないわよ! っていうか、昼間っから酒なんか飲んでんじゃないわよ!』
「ちょ、ワタさん!」
ワタさんが、容赦ない怒りの咆哮を上げたのだった。その声は、あまり客の入っていない店内によく通った。周りの人たちは何事かとこちらを眺めている。
「あまり大きな声出さないで下さいよ。他の人に迷惑になっちゃうでしょ」
『ワタシは本当のことを言っただけ』
私が他のお客さんに愛想笑いで返していると、ワタさんは、ふんっと口を尖らせてそっぽを向いた。
『誰だか知らないけど、放っておいてくれるか』
ペパルさんも、むすっとしながら私たちから視線を逸らしてしまった。
「そうはいきません」
(このままではペパルさんだけでなく、街の人たちもダメになってしまうかもしれない)
何より魔法の種について教えてもらわなければ、私は永遠に本の世界の住人になってしまうのだ。
食い下がる私に、ペパルさんはいかにも疎ましそうな顔を向けた。
『関係ない奴は黙っててくれ』
「関係なくはないです」
『はぁ?』
ペパルさんは眉を寄せながら、私たちをゆっくりと眺めた。
『あんたら旅の人だろ? お節介はやめてくれ』
「街の人みんな、ペパルさんを心配してますよ」
私の掛ける言葉も耳に入っていないのか聞く気がないのか、ペパルさんは一点をぼんやり見つめ、何やらぶつぶつ呟いている。
「ペパルさん」
私は聖母マリアのような優しい笑みで声を掛けてみた。こういう殻にこもるタイプには、下手に刺激しない方がいい。
『いいんだ。もう、放っておいてくれ』
しかしペパルさんには届かなかった。いや、次はきっと心を開いてくれるに違いない。今度は菩薩のような温かい笑みで声を掛けた。
しかし。
『うるさいって言ってるだろ!』
ペパルさんは、ただ声を荒げるだけだった。
「ばぁっかもーん!」
私は思わず怒鳴り声を上げていた。それはワタさんの咆哮よりも大きく、そして全国のお父さん代表のような凄みがあった。
「何、世界の中で一番可哀想な男ぶってんのよ! シャンシャンさんがいなくなって心痛めてるのはあんただけじゃないの! みんな心に傷を負いながら、それでも何とか前に進もうとしてるのに、あんたは何やってんの? いつまでもうじうじと。そりゃぁ、こんな男ならシャンシャンさんが逃げ出すのも当然よね!」
私の憤怒の形相に、ペパルさんは気圧されるように固まっていた。ワタさんとルビは、二人同じように唖然としていた。しかし私の怒りの炎はわなわなと燃え上がり、どんどん増していく。
「いなくなったって言って、あんたシャンシャンさんを探すために何か努力でもしたの?」
ペパルさんは、うろたえるように視線を泳がせる。
「やりもしないくせに、どうせ俺なんかって。笑っちゃうわね。あんたはね、シャンシャンさんより自分のことが好きなのよ。自分はこんなに可哀想ですって言って、みんなに慰めてもらいたいの。そんな気持ちで女性を好きになる資格なんてないわ!」
一気にまくし立てた。ペパルさんから反撃の狼煙が上がるかと思ったが、予想を反して彼はがっくりと肩を落とし、うなだれるように椅子に座っていた。
隣のワタさんはというと、
『畑山って、結構怖いのね』
と、ふふっと笑い、足元ではルビが、
『これからは畑山さんを怒らせないように注意します』
と私を見る目を変えたようだった。
ペパルさんの様子に少し言いすぎたかと思ったが、我慢出来なかった。
世界の悲しみを一人背負っていますと言わんばかりの態度が、心配してくれる街の人の気持ちを思わないペパルさんの考えが私を苛立たせた。愛する人を突然失う悲しみ。それは心をえぐり取られるように辛いことだろう。再び立ち上がるまでには時間がかかるかもしれない。しかしそれを逃げてはいけないのだ。それは誰がやるでもない、自分自身で乗り越えなければならない、次の標となる試練なのだから。
『君の言う通り……かもしれないな』
ペパルさんが前を見据えたまま、へへっと笑いだした。
『こんな男が相手なら、シャンシャンが出て行ってしまったとしても仕方がない』
「ペパルさん……」
『でもシャンシャンがいなくなってしまって、どうすればいいか分からないんだ』
ペパルさんは顔を歪め、涙を浮かべながら頭を抱えた。
「ペパルさん。焦らないで、ひとつひとつ考えていきましょう」
私の言葉に、そうね、とワタさんも頷く。
『まずはシャンシャンがいなくなったことを究明する必要があるわね。あんたも、もやもやした気持ちのまま前には進めないでしょ?』
『僕もそれがいいと思います』
「じゃぁこれで決まりですね。ペパルさん、そのシャンシャンさんが住んでいたという新宮へ連れて行ってくれますか」
ペパルさんは力なく分かったと呟き、訴えるように私を見た。
『明日にさせてもらえないか。酒が入っていない状態でシャンシャンを探したい』
今度は私が分かりましたと頷いた。