タクとの遭遇
ユキはまだ、悪夢をみているようだった。
自転車を追いかけるその姿を認めた瞬間、過去がどっとよみがえる。
あかねと二人で逃げるのを、どこまでも追いかけてきた地黒のチビ。
「おい待てよぉ」
叫びながら、目をギョロつかせて追いかけてくる。その手にはいつもトカゲやらカエルやら、一度はどこかのジイサンが落とした入れ歯の時もあったが、とにかくユキの毛嫌いしそうなものがしっかと握られていた。
「いいモンやるからよぉぉぉ」
生嶋拓人は、ユキの小中学校時代の、いわゆるひとつのダークサイドだった。
向こうはそれほどのつもりはなかったのかも知れないが、
『罪は、気づかずに犯すものが一番罪深い』そーゆーものだ。
その、キングオブダークサイドが、よりサイズアップして(もちろんまだ年のわりにはチビだったが)今再び目の前に現れたとあっては、とっさに逃げに徹するのもしごく当然、本能のなせるわざと言ってもよい。
「しきべぇ」
「いやー」足がついていけないほど、ペダルをこぎまくる。
「来ないでぇぇぇぇ」タイヤのあたりが焦げ臭い、でも、世界が終わろうと何しようと、自転車を止めることはできない。
「たのむー、助けてくれよぉ」
気がつくと、拓人が自転車の真横にぴったりと張りついて走っている。さすがに危ないと思うのか触れようとはしなかったが、走り続けながら、こちらを泣きそうな顔で見つめていた。
時速30、いやそれ以上は、出ていると推測される。どこかからチャリにはあり得ない不気味な振動が伝わってきた。
「止まってくれ、頼む! 一生のお願い!」
逆の意味で怖くなって、ユキはブレーキをかけた。
ぎゃっ、と歯の浮くような音をたてて、やっとのことでチャリが止まる。
拓人、ぜいぜいと前かがみになっていたが、やっとのことで身を起こし
「な、す、すげえ悪いんだけど……あの、あのさ」
「なに」息は上がりかけていたが、いつでも逃げられる態勢でユキ、自転車にまたがったまま聞く。
「宿題、手伝ってほしいんだよ、ホント、申し訳ない。あのさ、英語の訳……オレさ、こっちに近頃引っ越してきたばっかりで、新しい知り合いあんましいないだろ? あ、そう、あかねに聞いたかもしんないけど、また、同じクラスでさ……」
聞いた、というより警告された、と言った方が合っている。
「あかねでもよかったんだけど、あの、その、たまたまユキ、ユキちゃんに会ったから、アイサツついでに」
何が時速およそ30でダッシュで追っかけしといて、アイサツよ。思いながらもユキ、少しだけ肩の力を抜く。
かつて、あんなにケムシのように忌み嫌い、ゾンビのように恐れていた生嶋拓人だったが、なぜか、今の彼には同じだけのおぞましさを感じていなかった。
かつて、何をそんなに恐れていたのか。
よくよく思い返してみると、彼にまつわるエピソードの一つひとつは、何となくぼんやりと霧がかかったようでハッキリとは思い出せない。
何かと酷い目には遭ったという思い出が、こうしてある程度成長した本人を目の前にして冷静に向き合ってみると、どれも大した事件ではなかったような気がしてくるから、不思議だった。
しかし、身に沁みついた拒絶感というのは、そうすぐにはぬぐいきれないもの。ユキは、自分が頼りない(今でも十分、そう思ってるけど)小学生の頃に戻ってしまったような気持ちで、ぎゅっと自転車のハンドルを握り締めて足下に目をおとした。
「英語?」
「そ、訳の宿題が3ページ分、あああっっ」急に大声あげたので、ユキ、びくっとなってハンドルを一瞬手放した。
「カバン、ナリに預けたまんまだったぁぁ」
頭を抱えた姿があまりにも哀れだったので、つい同情して聞いてしまう。
「教科書、どんなの?」
「赤いヤツ、何だっけ? そう……アメリカのドクサツセンゲンの話だとか言ったな。ちょっと偉そうな細身のサルの親方みたいなのがさ……」
「リンカーンの演説のこと? 独立宣言じゃない?」
「えっ、いや、そう、そーそーあったよ、つうか、そんなのもあるっつう話」
ユキ、聞こえないように小さくため息をついた。
「教科書、同じだと思う」そう言えば、あかねの机上でも見たような気がする。
「えっ」拓人、飛びあがらんばかり。
「よかったよう、でも、いいのか?」
こういう時に、イヤと言えないのがユキの哀しい性分。
憎らしいことに、拓人はそのへんまでちゃっかり計算していたにちがいない。
「分かった、いつまで?」
「それがさ……」拓人、心からすまなそうに
「今夜中」
絶句するユキに、拓人、あわてて言い足す。
「悪いからさ、家の前まで取りにいくよ、何時でも。電話くれれば」
「うん……」しかし、万が一あかねに見られたら……二人の胸中に同じ疑念が渦巻く。
「いいわ。途中まで行く。場所は」
「とあるバスターミナル、あそこの南側は? サークルKできたろ? そこの前とか」
「いいわよ、時間は、そう、九時くらいなら……でも、書いてある字は、大丈夫?」
「あー」拓人、顔をくもらせる。
「そうなんだよ、読めねえからさ、なかなか……あのさ」
ちょっと困ったように、ユキの目をみる。
その目線にユキ、ちょいとばかり、ドキっときた。
え? 拓人くんて、けっこうイイ感じかも? アタシ何だろう? どうかしてる。
「もしあれば、テープとかに、とってもらってもいいかな。あの……注文ばっかり多くてゴメンな」
「いいよ、わかった」
彼にそこまでしてやる義理はない。でも、今さら後には引けない状況だった。
「じゃ、また今夜ねー」
彼の明るい声を背中に、再びチャリをこぎ出した時も、まだ迷いはあった。
どうしてアタシが、あの男に?
でも一回きり。今夜ちゃんとサークルKで言ってやるんだから。それに、これから偶然出会ったとしても、知らん顔してやる。
ダメならあかねにチクってやる。どうせイクシマタクトでしょ、あんなチビ。
と、思いつつペダルを踏みしめて帰途につく織部ユキ、実は、広大な国立公園規模のドロ沼に、やっと小さな一歩を踏み出したばかりであった。