みすずセンセをつきとばせ! 01
夏も近づくある夕刻のこと。
朔太郎が家に帰ると、
「おかえりなさーい」
玄関先に、小柄な女性がちんまりと座って待っていた。
「よかったぁ、鍵開いてないし、誰もいないみたいだったからクリニックの方に回ってみようかと思ってたんだけど、おじさまもおばさまもお仕事中でしょ」
立ち上がってニコニコしながら早口で駆けよってくる。
「お忙しそうだからおじゃましたら悪いかな~って思って、ずっとここで待ってたんだけど部活だった? あ、サっくん部活何? っていうか今日学校だよね」
だんだんと基本の部分に質問が逆走していく。今に「アナタはニンゲンですか」と聞かれかねないので(サクからみればじゅうぶん)あわてて口をはさむ。
「ええと、そう、あの、部活は入ってないし……それにもう三年だし、ええっと」
「だよね、だよねだよね」この、サっくんと呼びかける女性にはどことなく見覚えがあった。多分、10年は会っていなかったがこの口調が妙にうっとうしくも懐かしい。
「ミーねえ、だよね?」
「わ! 覚えててくれたんだ~」
朔太郎の従姉妹、山本みすずは小さい子どもかシンバル叩きのお猿のように手を叩き合わせる。
「よく遊んだもんねー、お医者さんごっことか」
「えっ」真っ赤になる朔太郎にも構わず、みすずは無邪気に続ける。
「おじさまの診察室に勝手に入ってさ、はい、みしゅじゅさんでしゅねー、このベッドにゴロンしてくだしゃいねー、って」
「……反対だよ、ボクが寝かされてたんだよいつも」
昔、サクが舌足らずだったのも巧みに真似ている。そりゃそうだ、サクが小学校に上がるまでみすずの一家はすぐ近所に住んでいてしょっちゅうお互いの家に出入りしていたのだから。
お互い一人っ子ということもあり、3歳年上のみすずにとって、サクは格好の遊び相手であり、実験台であった。
「そうだったっけ?」
みすずは、くりっとした目を空に向ける。昔から顔立ちはこじんまりしていて、目が大きくて可愛らしい。しかし、性格的にはかなりのチャレンジャーだった。
「ハサミで解剖されそうになったし、注射も試されそうになったし」
「え? そこまでしたかなあ。飲み薬は色々調合してやったけど」
それを真に受けて飲んでいたら、今ごろ山本朔太郎というニンゲンはここには存在しなかったであろう。
「まあ、それはいいとして」みすずは急に用件を思い出したように、声を改めた。
「おばさまに頼まれて。アナタの家庭教師をしてほしいって」
「え?」
そう、近所にある国立大学教育学部3年の山本みすず、小遣い欲しさに家庭教師のバイトを渡り歩いていたのだが、ついには実の従兄弟にまでその魔の手を伸ばしてきたらしい。
サクの母に頼まれた、というよりは、彼に家庭教師をつけたいという話を風の便りで拾い上げ、ちょうど空きのできた月木土の数時間、手ごろな従兄弟(しかも大人しくてけっこうイイナリ)で埋めようかという軽い魂胆。サクの母からみるとやや『心もとない』感があったようだが、それでも親戚ということもあって、まあ試しに……となったらしい。
「サっくん、英語が苦手だって聞いてさ」アタシ、英語だけは得意なのよね~と嬉しそう。中学校教員養成課程の英語専攻クラスにいるので、そりゃそうだろう。逆に他の教科はてんでダメなの、でもおばさまには「現国と漢文古文もだいじようぶですから」なーんていってあるから、まあ、見ててよ! とどこから出ているのか判らない明るい自信で、ぽん、と彼の肩をたたいた。
目がキラキラしている。幼い頃、新しい薬を調合して彼に勧めた時の目だ。
「うん……でも数Ⅲとかもできたら聞きたいところが」
「まかしといて!」と胸をたたくみすず、しかしそれからきょとんとして
「今、さん、って言った? そんな数字なんてあるんだ? あれ以上数学に種類なんてあるの?」
非常に心もとない。
とりあえず、どういう話になっているのか中に入ってもらうことにして、サクは玄関のカギを開ける。
「おじゃましまーす」
明るい声で入ってくる。サクは、軽くため息をついて後から入っていった。




