第35話 雑用係
出発の朝は、驚くほど静かだった。
空は澄み、風も穏やか。
街は、いつもと変わらない。
「……では、行ってきます」
ギルドの裏口で、アルトは軽く頭を下げた。
「気をつけて」
リリアの声は、いつも通りに聞こえる。
「一週間後ですね」
「はい」
短いやり取り。
誰も、大げさなことは言わない。
それが、今の最善だ。
***
アルトが街道を歩き始める。
背中は小さく、足取りは軽い。
その姿を、遠くから見守る視線がいくつもあった。
セリアは、騎士団の制服ではなく、私服のまま立っている。
(戻ってくる)
それだけを、信じる。
***
その日。
街では、小さな出来事がいくつか起きた。
商人の荷車がぬかるみに嵌りかけた。
結界杭がわずかに傾いた。
冒険者同士の口論が、あと一歩で衝突に変わりかけた。
だが――
誰かが押し、
誰かが気づき、
誰かが一歩引いた。
大事にはならない。
完璧ではないが、壊れない。
***
王都。
「初日、問題なし」
部下の報告に、ユリウスは静かに頷いた。
「当然だ」
だが、その声には、わずかな緊張が混じる。
「彼がいないから壊れる世界なら、
いずれ別の理由でも壊れる」
それが、彼の結論だった。
「世界は、立てる」
誰にともなく、呟く。
***
二日目。
三日目。
街は、少しだけぎこちなく回る。
完璧ではない。
だが、壊れない。
セリアは、巡回の途中で立ち止まる。
裏路地。
以前なら、アルトが直していた場所。
今は、別の誰かが、ぎこちなく補修している。
「……そうだ」
小さく、笑う。
「守る、とは」
彼女は、剣を握る。
「代わることではない」
***
一週間後。
街道の向こうから、見慣れた姿が戻ってくる。
荷物は軽く、表情も穏やか。
「ただいま戻りました」
アルトは、いつも通りに言った。
「おかえりなさい」
声は、自然だった。
本当に、自然に。
***
倉庫に入り、棚を確認する。
「……少し、歪んでますね」
誰かが触った痕跡。
不完全な補修。
アルトは、少しだけ笑った。
「頑張ってくれたんですね」
釘を打ち直し、棚を整える。
カチ、と小さな音。
それだけで、空気が整う。
***
夕方。
業務日誌が閉じられる。
――特記事項なし
――通常業務完了
その一文は、以前と変わらない。
だが、意味は少しだけ違う。
アルトは、箒を片付けながら言った。
「……最近、皆さん上手くなりましたね」
誰も否定しない。
「僕、いなくても大丈夫だったじゃないですか」
その言葉に、グランは静かに答える。
「違う」
「え?」
「お前が“戻る前提”だっただけだ」
アルトは、首を傾げる。
「……そうですか?」
「ああ」
それ以上は、言わない。
***
夜。
街は、いつも通り静かだ。
アルトは、灯りを消す前に、窓の外を見る。
「……明日は、裏庭ですね」
考えるのは、明日の雑用だけ。
世界の安定も。
国の判断も。
騎士の誓いも。
何一つ、知らない。
だが。
世界は今日も、
彼に気づかれないように、必死だった。
ギルドの雑用係。
実は最強。
それでも本人は、最後まで――
ただの雑用係のままだった。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
この物語は、
「最強主人公なのに戦わない」というところから始まりました。
けれど、書きながら気づいたのは、
この作品は“最強”の話ではなく、
「日常を壊さないこと」の話だったのだということです。
アルトは最後まで強さを自覚しません。
覚醒もしません。
世界を救うと宣言することもありません。
それでも世界は守られていました。
なぜか。
彼が特別だったからではなく、
彼が“普通でい続けた”からです。
そしてもう一つ。
守られていたのは世界ではなく、
彼が普通に働ける日常そのものだったのだと思います。
セリアの正義も、
グランの判断も、
ユリウスの距離感も、
すべては「彼を利用しない」という選択の物語でした。
派手なバトルもなく、
能力の解説もなく、
最後まで曖昧なまま終わる物語でしたが、
この静かな構造を面白いと思ってくださったなら、
作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
ここで物語は一区切りですが、
彼らの世界はきっと、今日も
――特記事項なし
――通常業務完了
と記録され続けているはずです。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。




