サファイアの章 その3
「まだ馬車は完全には止まってないから、今のうちに馬車の外に飛び降りましょう。それで、気づかれる前にどこかにかくれるの。それしかないわ」
ソフィアは馬車のとびらを、力いっぱい押してみましたが、子ネコほどの大きさしかないソフィアでは、びくともしませんでした。
「オラにまかせてくれ」
今度はダヴィデも、同じようにとびらを押します。しかし、やはりびくともしません。
「そうか、ここもカギをかけられているんだわ。他に出口はないのかしら?」
「オラ、このとびら以外は知らねぇ。ああ、どうしよう、オラ、いやだよ。ラウル帝国では、イズンをどれいのように扱うってきいたよ。そんなのいやだ」
頭をかかえるダヴィデに、ソフィアはつっかかるようにいいました。
「どれいのように扱われるって知ってて、どうしてイズン強盗なんかに手を貸してるの! あなたもイズンなのに、他のイズンはどうなってもいいって思ったの?」
ダヴィデはハッと顔をあげました。黒い宝玉でできた目が、ぬれているようにきらりと光りました。
「だって、あいつら、オラが協力しないと、オラのことも売っちまうって」
ソフィアよりも一回り大きなからだを、しゅんっと縮めて、ダヴィデはうつむいてしまいました。ソフィアはふうっとため息をついてから、ダヴィデにいいました。
「まあいいわ。こんなこといってるひまはないわけだし。もしあなたが本当に、他のイズンたちに申し訳ないって思うんなら、わたしがここから脱出するのを助けてね」
「……オラのこと、許してくれるのか?」
「それはこれからのあなた次第よ。あなたが本当につぐないたいって思えたら、きっと変われるわ。わたしも、アルに出会えて変われたもの」
「アル? それはだれだ?」
「わたしの旅の仲間よ。アルベールだからアル。それに、トリエステも。二人とも、きっと心配してるわよね。なんとかしてここから逃げ出したいけど」
馬車のゆれがおさまりました。どうやらついに馬車が止まってしまったようです。御者席から、男が降りる音が聞こえてきます。
「こうなったら、あの男がとびらを開けた瞬間に、外に飛び出すしかないわね。アル、トリエステ、わたしを守ってね……、あれ、そういえば」
ダヴィデにさらわれる前に、トリエステがなにかいっていたような気がします。ソフィアはあっと声を上げ、急いでドレスのポケットから、小さな箱を取り出しました。
「ソフィア、なにやってるんだ」
ダヴィデの問いかけを無視して、ソフィアは箱の中からタロットカードを取り出しました。
「本当はちゃんと混ぜないといけないんだけど、もう時間がないわ。トリエステは、『占いをする人間の心に反応して、奇跡が起こる』っていってた。お願い、わたしたちを助けて」
祈りをこめて、ソフィアはタロットカードを一枚めくりました。
「ソフィア、早く外に出る用意して! あいつがもうすぐとびらを開けちまうよ」
ダヴィデのせかす声が聞こえましたが、ソフィアはめくったカードをじっと見つめたまま、動きません。
「どうしたんだ、早くこっちに」
ダヴィデはそのまま固まってしまいました。タロットに描かれていたのは、ラッパを持った神々しい天使でした。それを地上で人々が見あげているのです。ダヴィデもその場に立ちつくし、ただタロットをながめるだけでした。
どのくらい時間がたったのでしょうか。まるで何日もその場に立ちつくしていたかのような感覚を、ドンッという外からの音が打ち破りました。
「なに、今の音?」
「まずい、きっととびらを開けようとしてるんだ。ソフィア、オラのうしろにかくれてくれ。とびらが開いたら、オラが飛び出すから、そのすきに逃げてくれ」
ソフィアが口を開きかけましたが、ダヴィデに口を押さえられてしまいました。
「シッ、静かに、とびらがあいたらすぐ飛び出すぞ!」
ダヴィデの言葉に、ソフィアも覚悟を決めたようです。いつでも飛び出せるように足に力をこめ、とびらをにらみつけました。すると、ぎいっと鈍い音とともに、ゆっくりととびらが開いたのです。
「よし、いまだ!」
ダヴィデが声を張りあげ、二人はいっせいにとびらの外へ飛び出しました。
「うおっ、なんだ?」
どこかで聞いたことのある声がしましたが、それにはかまわず、ソフィアとダヴィデはいちもくさんにその場から走り出します。二人のうしろから、あせった声が追いかけてきました。
「おい、どこ行くんだよソフィア。落ち着けって、おれだ、アルベールだ」
「えっ? アル」
馬車の外にいたのは、アルベールとトリエステでした。二人の足元には、ぐったりした人相の悪い男が倒れています。
「ソフィア、さっそくタロットを使いこなすことができたようですわね。『審判』のカード、お見事ですわ」
トリエステがすずやかな声でいいました。まだなにが起こったのかわかっていないソフィアに、アルベールが説明しました。
「お前がさらわれたあと、おれたちも急いで馬車を追いかけたんだ。でも、走って追いかけるんじゃ当然馬車に追いつけるはずがなくてな。それで町で馬を借りれないか交渉してたときに、いきなりラッパの音が聞こえて、気がついたらここにいたんだよ」
「あのラッパの音は、審判のカードに描かれている、天使のラッパですわ。きっと、イズンさらいに審判を下しなさいという暗示だったのでしょう。ともかく無事でなによりです」
「トリエステ……うん、ありがとう」
緊張の糸がとけたのか、ソフィアはその場に座りこんでしまいました。アルベールがソフィアを抱きかかえます。
「とにかくよかった」
「うん。でもね、わたしだけじゃなくて、ダヴィデも助けてくれたのよ。おりから出してくれたんだから」
「ダヴィデ? あっ、こいつ、さっきの!」
アルベールがダヴィデを捕まえようとするのを、ソフィアがあわてて止めました。
「待って、ちゃんと話を聞いて。ダヴィデはもうイズン強盗団の一員じゃないのよ」
アルベールが首をひねります。ソフィアはダヴィデに呼びかけました。
「あなたもこっちに来て。大丈夫、わたしがちゃんと説明するから」
ダヴィデはおびえたようにちぢこまっていましたが、ソフィアにいわれて、おそるおそる近づいてきました。
「本当に大丈夫なのか? こいつさっき、お前のことさらっていったんだぞ」
「うん、大丈夫。実はね……」
ソフィアがアルベールに説明をしているのと同時刻、ユードラ大陸南部に位置する、イズン強盗団の本部が壊滅しました。イズンの兵隊や屈強な強盗団員たちを倒したのは、たった一人の魔法使いと、金の宝玉が飾られた剣を持つ、たった一人のイズンでした。その魔法使いとイズンは、本部を壊滅させたあと、すぐにどこかへすがたを消したのでした。