第六章 共闘
「フェイク、お疲れ様」
仁美はフェイクと呼んだ男に近づいた。フェイクは高齢で眼福のいい男の姿をしていた。
「先生、どうしでしたかな?ご満足いけましたか?」
声も年相応に枯れていて、けれど聞き取りずらいことはなく。第一線で常に働いていた格好いい男を思わせるものだ。
「ええ」
「其れは良かった」
フェイクは自分の顔を引っ張る。すると、果物の皮でも剝ぐように皮膚が裂け、其処からきめの細かい新しい肌が現れた。スーツの肩をつまむとタヌキの腹のように膨れていた腹はしぼんだ。
其処にはもう高齢の男の姿はなく二〇代の若々しい男が立っていた。
「亀倉有朋。自分と体型の違う男を演じるのはなかなか大変でした」
「無理を言ったわね。でも、その方が誰もあなただとは連想できない。キクラ製薬の職員は?」
「既に人事部の査定が終わり、名前と顔を変えて新たな職場へと向かっています」
「そう。ありがとう」
キクラ製薬はクリミネルの関係者。社長である亀倉有朋なんて人間は初めから存在しておらず、フェイクが変装して一人二役をしていたのだ。
「俺は此れからどうしますか?」
「あなたは暫く私の助手として本部で働いてもらうわ。武蔵野の件についてまだ調査中だから人手が足りないの。数日は休暇を与えるから体を十分休めておきなさい」
「分かりました。其れでは失礼します」
「ただいま」
藍華がクリミネルの本部から自宅に帰ると既に愛睦が学校から帰っていた。
「おかえり。何処に行っていたの?お腹がすいた」
「簡単な物ぐらい作れるようにならないとお嫁に行った時困るよ」
「私、結婚しないからいいもん」
「そういう奴ほどとっとと結婚するんだけどね。中学で『男なんてエッチで嫌い。絶対に付き合わない』とか言ってる奴が高校に入った途端早速彼氏を作って自慢するのと同じだよ」
「私は違うもん」
「あっそ」
「其れより今日のご飯何?」
「何がいい?」
「ラザニアが食べたい」
「もっと簡単な物して欲しいけど。材料あったかな?」
「大丈夫、買って来た」
「買って来たのなら序に作って欲しかった」
「だって作り方知らないもん」
「今時、ネットで調べれば直ぐじゃん」
台所に置いてあった買い物袋の中身を探っていると必要な材料は一通り揃っていた。
「最近、何してるの?」
「何って?」
「学校もしょっちゅう休んでるし、学校が終わった後も何処かに行ってるじゃん。あのデブがしつこく聞いて来てうざいんだけど」
「ほっとけばいいでしょ」
「無視しても聞いて来るからうざいんだよ」
「理由を答えても同じだと思うけど」
「私も気になってるの」
「つまり君は其のデブを出しにして私から何かを聞き出そうとしたわけだ」
愛睦は「悪い?」と無邪気な顔で聞いてくる。無邪気な彼女の笑みを見ると「悪い」とは言えなくなってしまう。愛睦は藍華にとって双子の姉の立場になるが、常に家事をしたり、勉強が不得意な愛睦の勉強を見てあげたりするので藍華にとっては姉というよりも妹のような存在だ。
妹というのはずるいなと藍華は思った。態度、言葉一つでどんな悪事も簡単に許しそうになる。其れを分かっていてやっているのだから質が悪い。
「で、何をしてるの?」
愛睦が答えを求めてくる。けれど、真実を話すことはできない。仮に話す許可が出ても到底信じられるものではない。
「検査」
「検査?」
「前、入院したでしょう」
初めてソルダになった時のことだ。訓練の為家を一週間空けた。愛睦や無関係な人間には体調不良で入院したことになっている。
「嗚呼、したね」
「其れで検査したの」
「結果は?」
「今のところは問題ないけど、定期的に検査はしていくことになった」
「ふぅん」
問題がないと聞いた時点で愛睦は興味を失くしたらしい。後は何も聞いて来なかった。
「私、晩御飯作るから其の間に宿題をしてしまいな」
リビングのテーブルには教科書とノート、筆記用具が置かれていたが、まだ手はつけられてはいない。
「だって分かんないんだもん」
「ただいま」
まだ空はオレンジ色。闇が世界を支配するには二時間ほど早い時間帯だ。そんなに時間に玄関から仁美の声が聞こえた。此れはとても珍しいことだ。
「「おかえりなさい」」
リビングに入って来たのはやはり仁美だった。
「早かったね」という藍華の何気ない言葉に仁美は「私が早く帰ったら悪い?」と険悪な表情で返された。そんなつもりで言ったわけではないが此処で反論したら手が飛んできたり、更に機嫌が悪くなって面倒なので何も言わないことにした。
「あら、愛睦宿題しているの?」
「うん。でも、難しくて全然進まないの」
藍華はラザニアを作りながら全然どころか全くしてないじゃんと突っ込んだ。
「なら藍華にやらせなさい」
「私も宿題があるんだけど」
「なら尚更丁度いいじゃない」
何が!?
「今、夕飯作ってるの」
其の間にしろ。と藍華が言おうとしたら、仁美は遮るように言った。
「今しろなんて誰も言ってないわ。後でいいからしてあげなさい」
藍華が何を言おうとしたかなんて仁美は気づいてもいない。ただ、思ったことを言っただけだ。そもそも訓練で疲れて帰ってきて、夕飯を作っていることにすら彼女は何とも思わないのだろう。
「私は疲れているの」
だから人の宿題までしたくはない。訓練と学校の両立はかなりきつい。蒼空なんて授業中に居眠りをしていた。
「あなただけが大変だなんて思わないで。私だって疲れているのよ」
「そういうことを言いたいわけじゃない」
仁美が仕事で疲れているのは知っている。藍華が言いたいのは愛睦に対してだ。少し甘やしすぎなんじゃないかと。
「いいよ、お母さん。宿題ぐらいできるから」
と、愛睦は口を尖らせて言った。そんな愛睦の頭を仁美は優しく撫でた。
「いいのよ、愛睦。そんなことは藍華にやらせれば」
「お母さん!」
「藍華、お願いだから我儘言わないで」
我儘、どの辺が?藍華にはさっぱり分からなかった。
どうして、言葉が通じないのだろう。まるで外人と話しているみたいだ。相手の言っていることが分からない。同じ日本人なにの。同じ人間なのに。
人間?違う。私はもう人間じゃない。化け物だ。だからお母さんの言っていることが分からないか。
ラザニアを作り終わった後、藍華は愛睦の宿題には手も触れなかった。其のせいで仁美の機嫌は更に悪くなった。
「我儘を言う人にご飯はありません」などと抜かすので「其れ、私が作ったんだけど」と言ったら「其のお金を出しているのは私よ」と至極当然の顔で至極当然のことを言った。
だから私は「そうね。だってソルダ(わたしたち)はボランティアで、どんなに頑張っても賃金なんて貰えないもの」と言ってやった。すると母から平手が飛んできた。
痛みなど感じない。叩かれることにはなれている。今に始まったことではない。
結局藍華は愛睦と仁美がリビングに居る間は自分の部屋に引きこもることになった。食事は二人が寝静まった時にするしかない。
食事も摂らずに部屋に引きこもった藍華を気にかけて声をかける人間は此処には居なかった。其れが藍華の日常だった。
時計の針が深夜一時を回った頃、空腹を堪えながら藍華は音をたてないように気を付けながら一階に降りた。リビングのドアは閉められていたが、僅かに明かりが漏れている。まだ起きていたのかと、今日の夕飯を諦めて部屋に戻ろうとした時、仁美と勝成の声がした。
「少し、藍華にきつくないか」
父親として出た言葉じゃない。一人の人間として藍華を同情して出した言葉だ。勝成は知らない。其れが藍華を余計に惨めにすることに。
「嫌いなのよ、あの子が」と仁美は言う。
傷はつかなかった。其れは藍華にとって周知の事実だから。
「あの子を見ているとイライラするの。まるで、自分を見ているようで」
己を、瓜二つの藍華を嫌悪する声と、ドアの隙間から見えた仁美の表情。
「知っているよ」と口には出さなかった。其の変わり藍華は僅かに傷ついている自分の心を嘲笑した。




