第1話 婚約破棄されました
午後の柔らかな日差しが、磨き上げられた大理石の床に白く反射していた。テーブルの上では、特注のティーカップから紅茶の湯気が細く立ち上っている。
すべてが、いつもどおりの穏やかな日常――のはずだった。
「リゼット。お前の婚約は解消となった」
父であるローゼンバーグ侯爵家当主・セバスチャンの言葉が、あまりにも唐突に、そして事務的に響いた。
リゼットはゆっくりと顔を上げた。
彼女の正面には、王太子エドワードと異母妹メアリーが並んで座っている。
二人の少し横には、父セバスチャンが一人掛けのソファに腰を下ろし、手元の書類に目を落としていた。
「……お父様。今、なんとおっしゃいました? 婚約を……解消、と?」
「聞き間違いではない。王太子殿下より、お前との婚約を解消したいとの申し出があった」
父はわずかに目を逸らした。
その表情には、気まずさというより、早くこの厄介な事務仕事を終わらせたいという面倒そうな態度が滲んでいた。
薄紅色のドレスをまとい、潤んだ瞳でこちらを見つめているのは、異母妹のメアリーだ。
「お姉様……ごめんなさい。私、殿下と深く愛し合ってしまったの。私はお姉様のように、何でも完璧にはできないけれど……。殿下は、そのままの私を愛してくださるのよ」
メアリーはか細い声でそう言いながら、ぴったりとエドワード殿下の腕に寄り添った。
その隣で、エドワード殿下が気まずそうに、しかしどこか決然とした顔つきで口を開く。
「すまない、リゼット。私とメアリーは心を通わせたのだ。王妃としての器は、君が誰よりも優れている。だが……私は、君のように何もかも完璧な女性ではなく、素直に笑い、泣き、感情を見せてくれるメアリーを愛している。君なら、この決定を淑女として、賢明に理解してくれると信じている」
『淑女として……』
『賢明に……』
それは、ローゼンバーグ家の長女として幼い頃から叩き込まれ、身に付けてきた呪いの言葉だった。
『我慢しなさい』。『お姉様なのだから』。『完璧であれ』。『周囲の期待に応えなさい』。
そのすべてを忠実に守り、エドワードの好む淑女を演じ続け、彼の後ろを誰よりも一途に追いかけてきたというのに。
父は言った。
「お前なら、すぐに別の良縁が見つかるさ。ローゼンバーグ侯爵家としても、メアリーが王太子妃になれば文句はない。お前も、静かに身を引いてくれ」
誰もが、リゼットがここで涙を流し、身を引く美談を期待していた。
「わかりました。殿下の幸せをお祈りいたします」と、気高く微笑んで退場する『理想の令嬢』の姿を。
だが、リゼットの中で、何かがプツリと切れた。
痛みに苦しんでいた胸の奥が、すっと冷えていく。
不思議なほど、頭だけは冴えていた。
――ああ、そうか。
これまで自分が積み上げてきた努力も、誠実さも、愛情も、すべてはこの人たちにとって、自分たちの都合を押し通すために利用できるものだったのだ。
傷つくことすら馬鹿馬鹿しい。こんな人たちのために怒るなんて、くだらない。
リゼットはゆっくりとカップを持ち上げ、紅茶の最後の一口を静かに喉へと流し込んだ。
それから、これまで誰も見たことがないほど、肩の力が抜けた、乾いた笑みを浮かべた。
「……そうですか」
その声の低さに、エドワードがわずかに眉をひそめた。
「では、私からの返答を申し上げます。婚約解消、謹んでお受けいたしますわ」
「リ、リゼット……? お前、本当に分かっているのか?」
「ええ。もちろんです」
「いや、そういう意味では……。お前が、そんな簡単に納得するとは思わなかった」
「あら? お父様がおっしゃったのでしょう? 『静かに身を引け』と。だから従うのです。ただし――」
リゼットは立ち上がり、完璧な姿勢のまま、しかしどこか投げやりな仕草でふわりとドレスの裾を揺らした。
「これより先、私はローゼンバーグ家の長女としての義務も、完璧な令嬢としての仮面も、すべて返上させていただきます。今日から、私は私の好きに生きることにしますので」
そう言って、さっさと席を立ち、扉へと向かって歩き出した。
「なっ……! お前、王太子殿下の前でなんという口を――! おい! 待て! 話は終わっていないぞ!」
父親の怒号が背後で飛んだが、リゼットは振り返りもしない。
歩き出す足取りは、かつてのどの舞踏会でのステップよりも軽やかで、そしてどこまでも凛としていた。
「それでは皆様、ごきげんよう。二度と私に関わらないでくださいませ」
こうして、完璧だった侯爵令嬢の『やさぐれ』た日々が、静かに幕を開けたのだった。
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